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参-(10)
「――はい、これでおしまい」
ワイン一杯で泥酔した訓練生を部屋に運び入れ、チヒロが迎えに行くはずだったマナクを養成区から連れ帰って、ダイナンは姉妹の部屋を閉めた。
カイデンが、ぼさぼさの頭の上で両手を合わせる。
「すまん、ダイナン」
「チヒロには薬を飲ませた方がいいんでしょうけど、吐いたら困るからやめておいたわ。マナクはもう養成区で夕食を済ませたと言っていたから、いらないでしょう」
「本当助かったよ、ダイナン」
合掌した手の上から、大きな顔が覗いてウインクする。
いたずらっ子のようなその笑顔に、いつもダイナンはほだされてしまう。ため息をついて、
「わたしは母親でも保育士でもないんだから、たびたびこういうことで呼び出されると困るわね」
「サリュウによく言っとくよ」
「肝心の彼は?」
「久しぶりに飲んだら、頭痛いって寝に帰った」
「へえ、あの酒豪が」
「疲れてるんじゃねえの。チヒロの訓練につき合いっぱなしだ」
ゆっくりと歩きながら、カイデンがダイナンの私室までの数メートルを送る。大柄な彼と横に並ぶと、肩が触れ合うくらいの狭い通路だ。
「でも、チヒロもよく頑張ってるわ」
「あいつはめげなさすぎだ。……なあダイナン。サリュウ、変わったと思わないか?」
「そうねえ。よく怒鳴るようにはなったわよね」
「怒鳴るのは、チヒロが読むからだろ。あいつは読むことと伝えることには慣れてるが、読まれることなんて今までなかったのさ。だから混乱してる」
「なるほどね」
「俺が変だと思ったのは、マナクのことの方さ。あの二人にあそこまでしてやるなんて、あいつにしては甘すぎるぜ」
「少しは人間らしくなってきたのかしら」
「感情は見えにくいが、あいつは冷血な男じゃねえよ」
「――そうね。彼はいつも理性的。あなたからわたしを獲るときも……わたしの気持ちが固まるまで待っていてくれた。別れたいと言ったときも、引きとめようともしなかったわ」
「……」
「わたし、少しは彼に怒鳴られたかったんだけどな」
「大切だったから、怒鳴れなかったんだよ」
「そう? わたしはそうは思わないわ」
「ダイナン。あのとき、あいつが急に変わったのは――」
言い差して、カイデンが言葉を止める。ダイナンは深刻な顔になる彼を、爪先立つようにして下から覗き込んだ。
「変わったのは? なに?」
聞き返して、寂しげに笑った。
「言えないのね。いつもそう……わたしは蚊帳の外。あなたたち二人を遠くから見ているだけなんだわ」
「ダイナン――」
「部屋に着いたわ、カイ。ありがとう。お休みなさい」
*
――真実を嘘で包むやさしさ、か……。
自室からテレパスでカイデンとダイナンの様子を窺っていたサリュウは、長々と吐息を漏らした。
――やさしさのつもりでついた嘘で、もっと人が傷ついたときは、どう修復すればいいんだよ。
「答えろ、馬鹿」
ここにはいない、年下の訓練生に低く呼びかける。
泥酔して眠っているのだからすぐにテレパスが繋がるだろうが、さすがに毎日つき合って疲労した脳は、彼女への侵入を拒んだ。少し独りになりたい。
「まったくあいつは、ひとの神経を引っかき回しやがる……」
これが一番痛いところを突いてくるのだから、たまらない。
考えをすべて放棄して、サリュウは酒気でぬるんだ体をベッドに放り出し、眼を閉じた。
*
夢の中でチヒロは、見たこともない都市にいた。
六花とは比べものにならない、銀色の超高層ビル。整然と並んだビルの中央には深い芝の敷きつめられた緑地帯があり、木が生え、吹き抜けの青い空が広がっている。清々しい、心地よい都市空間だ。
邪魔者のないその青い空を、一台の小型飛行機が飛んでいる。
黄色の機体に赤いライン。プロペラと板のような二枚の翼をつけたアンティークな外観は、一瞬模型にも思える。だが、きちんとエンジンを積んだ有人用で、これまたレトロなヘルメットとゴーグルをかけた若者がひとり乗っていた。
装備のほとんどがその年代のものだが、さすがに計器は最新で、搭載されたコンピュータに操縦桿が繋がっている。デジタル時刻は、今日の20:59。
ラッパ型のスピーカーから声が聞こえる。
『タイジュ。どうだ?』
「眺め最高! 今からそっちへ行く」
『カメラのセットはOKだ』
「俺の腕前見て、漏らすなよ!」
若者は陽気に言って、操縦桿を手前に引き、さらに上昇すると空中で回転して急降下した。
眼下のビルの屋上には、ケシ粒のような友人たちが見える。
ぐっと操縦桿を押す。そのとき、スコン、となにかが抜ける音がした。
「えっ、なんだよ?!」
慌ててハンドルを前後に揺さぶるが、カタカタ鳴るだけで、機体が反応する様子はない。
重力に引き寄せられ、機体の落下に加速がかかる。若者が、スピーカーに向かって叫んだ。
「おい、おい! 助けてくれっ!」
繋がっていたはずのスピーカーからは、ザザ、というノイズだけが応え、ぷつんと切れる。
操縦もきかず助けも呼べなくなった彼は、どうすることもできずに悲鳴をあげて、飛行機もろともビルの壁に突っ込んだ。
――だめっ!!
爆発、絶叫、悲鳴、振動、煙、炎――チヒロは、蒼ざめて起き上がった。
今観た夢の光景に、全身が震えている。
――今のは……まさか……。
隣でマナクが、火がついたように泣いている。
その体を無意識に胸に抱えながら、チヒロは混乱する頭を鎮めようとした。
――どうしよう、どうしよう……。今のがもし予知だったら、隊長に言わないと……。
マナクと一緒に泣きそうになるのを必死に堪え、思考をめぐらせる。すると。
《落ち着け。チヒロ》
低い、男のテレパスが脳裏に響く。サリュウだ。
だが、滅多に動じない彼の思念が、緊張を帯びているのをチヒロは感じた。
《隊長。今、わたし……》
《俺も観た。予知かもしれん。確認してくる》
《わ、わたしも……》
《おまえは役に立たん。そこで待て》
きつい口調だが、それが動揺する訓練生に対する気遣いであることは分かった。
チヒロは、泣き止まないマナクを抱きしめたまま、枕元の時計を見た。
時計は、20:47を指していた。