(10)
弐-(10)
「すみません。助けて、下さったんですよね。ありがとうございました」
カイデンの前の席、すなわち先程までサリュウ・コズミ鬼隊長がいた席に座り、チヒロはぺこんと頭を下げた。
カイデンは、呑み込んでいるような勢いで目の前のハンバーガーの山を崩しながら、低く問いかけた。
「一体なにやった? おまえ。外まで聞こえたぞ、あの怒鳴り声は」
「えっと、わたしがいけないんですけど……」
ああ言ってこう言って、とチヒロが会話を再現してみせると、カイデンは口の中のものをごっくんと呑み込んで一言。
「そりゃ怒られる」
「……ですよね」
「だが、おまえの言うことはそれほど間違っちゃいない」
パイントで頼んだのか、と思うほど巨大なコークを流し飲み、続けた。
「おまえの言いたいことは分かるよ。俺もそう言われたら、同じように言うかもな。だけど、ここはどこだ? おまえは新入りだからまだ慣れないんだろうが、あいつは親戚でも保護者でもない。軍人で、しかも隊長だ。思いやりや気遣いや優しさ、身びいき……そんなのは、心の深ーいところへ鍵かけて沈めちまってるのさ。
そんな相手に理解を求めるのが、おまえの馬鹿なところだ。理解じゃなく、評価と信頼を得るんだよ。あいつは軍の規律が服を着て歩いてるんだと思え。分かったか」
チヒロが感心したように、目の前の大男を見つめる。
「すごい。カイデンさん、結構立派なこと言ってる」
「カイデン宙佐、だ。馬鹿」
「……すみません、宙佐」
またもしょぼんとなるチヒロに、カイデンはハンバーガーの垣根から、ひょいと顔を突き出した。
「冗談だ。俺のことは、カイでいい」
「は、はい」
「サリュウの前では気をつけろよ」
やんわりと釘を刺され、チヒロはうっと詰まった。
「それにしてもよ、おまえ。サリュウに口ごたえって、ありえんやつだな」
「だって、言われたら腹が立って……」
「だーかーら、近所のにーちゃんと話してるんじゃないんだぞ。上司だ。隊長だ。考えろ」
ぽて、と引き抜いたピクルスを投げつける。
チヒロは頬をふくらませて、前髪に当たって落ちたそれを、八つ当たりするようにぱくりと口に放り込んだ。ばりばりと噛み砕いて、
「あーあ、明日から自信ないなぁ。今日だって三回も怒鳴られたし」
「お……ごっ!」
ハンバーガーを詰まらせ、カイデンが妙な声をあげた。
「おまえ、あと二回はなにしたよ?!」
「両方とも不可抗力です。えっと……わたしと隊長、繋がりやすいらしくて」
「テレパスが、か?」
「はい。まだ検査が終わってないので、はっきりしたことは分かんないんですけど、共振というのをしているらしくて……それでまあ言い合いを」
「馬鹿。で、もう一回は?」
「それが検査の睡眠薬を注射されて、朦朧としたわたしが何かしたらしいんですけど……覚えてなくて。気がついたらマナクと部屋にいて、隊長に怒鳴られてて」
「――」
カイデンの口から、はみだしたバンズの欠片が、ぽろりと落ちた。
ダイナンの台詞が甦る。
『いろいろあって、サリュウがわたしに面倒をみろと――』
――いったい何があったよ?
ダイナンは事情を知っているのだろうかと考えつつ、カイデンは口の端を指先で拭った。はい、とチヒロが紙ナプキンを手渡す。
カイデンはそれを受け取ると、手と口を拭いて団子に丸めた。
「ダイナンがおまえらの世話にいったと言ってたが……」
「ダイナンさん……いえ、チグサ三等宙佐なにかおっしゃってました?」
「俺の前で称号はいらねえよ。……いや、べつに。サリュウに言われたってことと、髪をどうかしたってことくらいかな」
ダイナンの前では厳しいことを言ってみせたが、チヒロの様子ではそれどころではなかったのかもしれないと、話を多少脚色する。
それでもチヒロは、びっくりしたように黒い目を真ん丸にした。
「えっ! ダイナンさん、やっぱりケガしてましたか?!」
「ケガっていうか少し赤くなってたくらいで――」
事実、赤くなった痕は、琥珀ががった肌色と髪の陰のおかげで、そんなに目立つものではなかった。カイデンでなければ気づかないほど。
チヒロが両手で顔を覆って呻く。
「うわ、最悪。それマナクがやったんですよぉ。ああ、もー、部屋の片づけまで手伝ってくれたのに……お詫びしなきゃだあぁ」
「なんでまた?」
「ダイナンさん、美人じゃないですか。マナクが気に入ったらしいんです。あの子、構って欲しいのかじゃれたいのか、きれいな女の人の髪見ると掴みたくなるみたいで。でも掴まれたほうは結構痛いじゃないですか? だから止めさせなきゃいけないんですけど……」
一気にしゃべり、椅子にのけぞる。
「あーあ、最悪。お詫びどうしよ……」
「別にしなくていいんじゃねえの?」
カイデンは、残り少ないハンバーガーからピクルスをほじりだしつつ言った。
「次に会ったときにマナクにさせないようにすること。それが、おまえのしなきゃいけないこと。だろ?」
ハンバーガーの代わりにピクルスの山ができた皿を眺め、チヒロがぽつりと呼びかける。
「カイさん」
「ん?」
「実はそんなにいい人なのに、なんで浮気しちゃうんですか?」
「!」
今度こそカイデンの喉に、呑み込みそこねたハンバーガーの塊が、がっちり詰まる。顔を紫にし胸を叩く彼に、チヒロはコークを手渡した。
大量の炭酸飲料で詰まりを通し、咳き込んで、カイデンがようやく復活する。
「お……おまえ、なに知ってる」
「なにって……いろいろ?」
チヒロは皿のピクルスをつまんで口に運びながら、眼鏡の縁から、ちら、と大柄な男を見た。
「わたし、統制っていうのがとれてないらしくて。まあそれで隊長に怒られるんですけど、疲れたりしてガードが下がると、それが〝だだ漏れ〟になるらしくて」
「だだ漏れ?」
「はい。わたしの意識が隊長に筒抜けです。もうすとん、と。ですけど、どうやら逆パターンもありみたいで」
「逆パターン?」
「六花にいた頃は意識しないとできなかったんですが、ここのひとたちテレパスが強くて、わたしにも筒抜け、なんです」
「筒抜け?!」
「はい。とくに近くにいる人の」
カイデンが、がたん、と椅子ごと下がる。チヒロは紙ナプキンで指を拭い、彼のコークを一口飲んで、冷静に指摘した。
「もう遅いです。それに、そんなにまともに読むわけじゃありません」
「どのくらい知った?」
「とりあえず……宙佐に恩が売れるくらいですかね」
「恩?」
チヒロが指先でカイデンを手招く。へっぴりごしで上体を乗り出す男の耳元で、ごにょごにょと囁いた。
「――でしょ?」
大きなライオン頭が、がっくりとテーブルに沈む。
「……クソガキ」
「協力、してもいいですよ。今日のお礼に」
「協力?」
聞き返し、カイデンは何かに思い当たったのか、椅子を引き寄せて座り直した。
「全員読めるのか?」
「今の状態では、直接触れるか、かなり近くに寄らないとわたしには読めません」
「じゃ……ダイナンも?」
「知りたいんですか?」
「う……」
まともに言葉をなくす男に、年下の訓練生は冷静に否定する。
「冗談です。本人の許可なしに教える気はないですよ。プライベートですもん」
「でも読んだんだな?」
「はい。まあ」
「サリュウもか?」
「彼のガードは超特殊鋼合金製です。思考が読めるだけでも奇跡です」
「そうか……」
考え込むように、カイデンは腕組みをした。
紙ナプキンで周りのゴミを集め、チヒロが一人つぶやく。
「相当な思考が読めてるはずなのに、隊長はどうやって制御してるんだろう……」
「あいつは極端に他人が触れることを嫌がるが……それがそうか?」
「そう、かもしれません。相手を意識した瞬間、自動通路が開いたみたいに勝手に流れてくるんです。流れ込んできたらもう、自分では制御しきれません」
「おまえは触られても平気なのか?」
「なにもかもが視えてしまうわけではありませんから。そこまで読み込む気もありませんし……隊長ほど強いわけではないですから」
言いながら、チヒロは気がついた。
――隊長は何もかも視えてしまうんだろうか。人の心のドロドロした部分も、全部。
そんなのは地獄だ。
チヒロは蒼ざめた。だとしたら、彼は今までどんなに孤独で恐ろしい想いをしてきたのだろう。
そしてそんな彼を慰める人はいたのだろうか。マナクに付き添う自分のように。
思いに沈むチヒロに、カイデンが呼びかけた。
「どうした?」
「いえ。隊長のことを思い出したら気分が落ち込んで……」
半分嘘、半分真実の言葉に、大柄な男が豪快に笑う。
「おーお、当分うなされるさ」
「やめてくださいよ」
「眠れなくなったら俺のベッドに来い。添い寝してやる」
「マナクがいるから、いりません」
息をするのと同じ程度にセクハラ発言がこぼれる男に、チヒロは笑った。
「でも、今日はありがとうございました」
「案内はこれからだぞ」
「話を聞いてもらったことに、です」
「――惚れんなよ」
「惚れて欲しいですか?」
「馬鹿」
にやりとして、カイデンが丸めた紙ナプキンを投げつけた。そこでようやく、いつの間にかきれいに片づけられていた自分の皿に気がつく。
「おまえ、全部食ったのか?」
「はい。ピクルス、嫌いなんでしょ?」
あからさまに顰め面になる男に、チヒロが苦笑する。
「そんなの読まなくても、見てれば分かります」
「……あんなのは人間の食いもんじゃねえ」
「だったら、最初からピクルス抜きで作ってもらえばいいじゃないですか」
「そんなめんどくさいこと頼めるか」
「ピクルス抜くほうが面倒でしょ」
「いちいち注文するときに言うのが面倒なんだ」
子どもみたいな言い訳を重ねるカイデンに、ため息をついたチヒロが、なにを思ったか無言で席を立った。カウンターへ向かい、調理師に声をかける。
すると若い調理師が、なにやら意味深な笑顔でこちらに手を振り、親指を立ててみせた。
戻ってきたチヒロに、カイデンが小声で問う。
「おまえ、なに言った?」
「〝あそこに座っている人は、今日ピクルスアレルギーということが分かって食べられなくなったから、ハンバーガーも食べおさめだそうです。でもここのハンバーガーは美味しいから大変残念がっているので、面倒ですけど今度から彼のためにピクルス抜きのハンバーガーを用意してくれるととても嬉しいんですが〟――って言ってみた」
「えらいなおまえ」
「なので、今度から〝特製ハンバーガー〟で注文してください。――それと」
丸い瞳の童顔が、にっこりと大柄な宙佐を見上げる。
「あなたの誕生日は今日、わたしはあなたの気を引くために頑張ってる女の子っていう設定ですから、いつか適当なところで訂正して、わたしを振ってくださいね。そんな気ないんで」
「おまえ……」
「汚名が五重六重になったところで変わらないでしょ。……じゃ、案内よろしくお願いします。カイデン宙佐」
返す言葉を失ったカイデンは、相手が今まで稀人であることを隠し続けていた〝役者〟であることを思い出した。
――こ……この嘘つき娘。
七つも年下の少女に振り回された形となった男は、一瞬、サリュウ・コズミが怒鳴る理由が分かるような気がした。
そしてそれはおそらく、正しかった。
※パイント:アメリカ・イギリスで用いられる容量の単位。1pt(米)=473ml