(8)
弐-(8)
自分が行くからと固辞するチヒロを制し、ダイナンは検査用のガウンを持って医務局に向かった。
悪い夢を観たのか、寝ていたマナクが泣きながら起きたからというのが理由だが、彼女の本意はそれではない。
ロックを通り、見慣れた医務局に入る。看護師に眼もくれず、ダイナンはつかつかと医務長室に向かった。
「ドクター」
「あら、ダイナン。久しぶりね。元気?」
快活に返したアサギ医師は、ダイナンが手に持つガウンに気づき、すっとその眼を細めた。
「わざわざあなたが持ってきてくれたの? 明日も検査があるから、チヒロにそのまま持ってこさせればよかったのに」
「そのことでお聞きしたいことが」
笑顔のないダイナンに、年長の女医は椅子を回して向き直った。
「なにかしら?」
「なぜサリュウがここに来る必要があるんですか?」
「彼は隊長よ。訓練生にも責任があるわ」
「医務局で起きたことまで責任をとれと? あなたの仕事ではないんですか?」
「ずいぶんと棘のある質問ね」
落ち着いたベージュの口紅でかたどった唇が、つ、と微笑みを作る。目顔で前の椅子を示し、
「話が長くなるようなら、座ったら?」
「結構です」
ダイナンは、チヒロの前で見せた優しい顔を一変して断った。
やさしく穏やかで誰の心をも魅了するこの女性が、実は絹のようにしなやかで強靭な意志をもっていることを、アサギ医師は知っていた。
「質問に答えていただけますか」
「無理よ」
表情ひとつ変えずに即答する女医に、ダイナンの眉に険しいものが漂う。
「どうして……」
「なぜ、あなたは知りたいの?」
「彼は……隊長として、多くの業務を抱えています。そのサポートをするのが、わたしの役目です。貴重な彼の時間をそちらの勝手な都合で拘束されるのは見過ごせません」
「理由になっていないわ。わたしは〝なぜ〟と聞いたのよ」
「……」
「自分で捨てておきながら、彼を気にするのね」
「!」
ダイナンの顔色が変わった。
「プライベートをあなたがどうこう言う権利は……」
「あなたに関してはないわね。でも、サリュウは別よ」
ダイナンの唇に、冷ややかな微笑が宿った。
「〝吾子〟ですか」
「そうよ。彼はここの子ども。親としては最大限の配慮をするわ」
「恋愛も、ですか?」
挑むような言い方に、ユノは微笑をおさめた。
「口を慎みなさい、チグサ三等宙佐。あなたは彼の部下で、ここのすることにも彼のすることにも文句をはさむ権利はないわ」
立ちあがり、腕を組んでダイナンを見下ろす。
「チヒロの検査に立ち合うかどうかは、彼自身が決めること――余計な口出しはやめて、仕事に戻りなさい」
「……分かりました」
蒼ざめた顔で答え、ダイナンは医務局を後にした。
*
――まったく、あの女狐ったら!
滅多なことで怒らないダイナンは、医務局からの帰り、久々の毒舌を胸中で吐いた。
手ぶらで出るのも口惜しくて、ついチヒロの制服を持って帰ることになってしまったことも、屈辱に火を注ぐ。これではただの子どものお使いだ。
明るくさっぱりした性格のユノ・アサギは、八部のメンバーから信頼されて、評判もよい。だがダイナンは、ずっと警戒していた。
そして今回、彼女の仮面の下に漂う冷たい意志を、垣間見てしまったのだ。
――ついに化けの皮を脱いだわね。目的は一体なに?
アサギ医師のサリュウへの思い入れは、ただの〝吾子〟に対する以上のものであるような気がしてならない。
〝吾子〟とは文字通り〝我が子〟を意味する。つまりここ――三風の研究棟で生まれた子どもということだ。
サリュウは二十五才。[まほら]が地球出航時から実験として取り組んでいた、人工子宮から誕生した第一号のひとりだと聞いている。
しかし、それだけでアサギ医師があれほど特別な意識を持つだろうか。
――まさか恋愛……なわけないわよねぇ。
それだけはあって欲しくないと、首を振ってその考えを打ち消す、と。
「どうした? ダイナン。暗い顔して」
通路の向こうからやってきた金髪の巨漢が声をかけた。
学生時代からよく知る男の姿に、ダイナンはほっと微笑んで、答えをごまかす。
ふいにカイデンが前屈みになり、彼女の顔を覗きこんだ。
「どうした。額、赤くなってるぞ」
ダイナンは気まずげに、右の前髪の生え際を手のひらで押さえた。
「やだ、分かる? ちょっとマナクに髪を引っぱられて……隠してたんだけど」
「引っぱった? マナクが?」
彫りの深い巨漢の眉間にしわが寄る。
「おまえの髪になんてことすんだよ。ったく、あのガキ」
「悪気はないのよ」
「馬鹿。出来が普通と違っても、やっていいことと悪いことがあるんだよ。こういうことは、きっちり教えないと」
カイデンが、ぱしんと拳で手のひらを打った。
「俺が言ってきてやる」
「カイ、いいの。大袈裟にしないで」
「小さいうちに言っておくんだよ。大変なことになる前に」
「大丈夫だから」
笑顔で止めるダイナンの額に、武骨な指先が、壊れものでも扱うようにそっと触れた。
「痛むか?」
「もう平気よ。一瞬だったもの」
「なんでおまえがマナクの世話するんだよ。チヒロは?」
「いろいろあって、マナクと一緒にパニックを起こしてしまって……サリュウがわたしに面倒をみろと」
「あいつが自分で二人とも連れてきたんだぞ。あいつにみさせろ」
「彼のせいじゃないわ。いろんなことが……重なってしまったのよ」
ダイナンは、胸先に落ちる髪を耳にかけた。
「それに、女の子の部屋に彼が長居するわけにもいかないでしょう?」
「……あいつはおまえが裸で隣に寝ようが、見向きもしない男だぞ」
答えずにダイナンは、行く手を塞ぐように掲げられた目の前の腕に、そっと指先を触れた。
サリュウでさえもぎ放せない太い腕が、力なく落ちる。
「わたしのために心配してくれてありがとう、カイ」
「ダイナン」
「チヒロに制服を渡してくるわね。……じゃ」
引き止める言葉もなく、カイデンは、ブルネットの髪が弾むしなやかな後姿を見送った。