(7)
弐-(7)
睡眠薬の名残なのか、昂ぶる感情のままに喉をひくつかせながら、チヒロはダイナンに謝った。
「す……、すみません」
「謝ることないわよ。服はこれでいい?」
猫のようにしなやかな体つき、身のこなしの三等宙佐は、姉妹のクローゼットからトレーナーとズボンを出すと、チヒロに手渡した。ピンクのワンピースを持ち、マナクに声をかける。
「さ、マナクちゃんも一緒に着替えましょう」
涙とよだれと汚れでべとべとのネグリジェを万歳させて脱がせた。枕元のティッシュで顔を拭き、髪についた汚れもとる。
髪をいじられるのが嫌いなマナクが、頭を振って嫌がった。いつのまにか涙は止まっている。
「ごめんなさい。でもゴミがついてて……はい、取れた」
ダイナンは苛立つふうもなくそう言って、にっこり笑った。やわらかなアルトは、アサギ医師のきびきびした感じもミヲのような快活さもなく、ただまろやかで甘い。
――母さんみたいな声だ……。
着替えを手に、ぼんやりとチヒロは思った。
服の裾をまくり上げてマナクに着せかけながら、ダイナンが明るいハシバミ色の瞳を向ける。
「あなたも着替えたら? こっちは大丈夫だから」
「はい」
チヒロはベッドを下り、背中を向けて検査用のガウンを脱ぐと、トレーナーを頭から被った。十八才にしては脂肪の薄い、骨ばった後ろ姿に、ダイナンが気遣わしげな色を浮かべる。
「あなた、ちゃんと食事はとれてるの?」
「ときどき忘れちゃうんです。できるだけマナクと一緒に食べるようにしてるんですけど、他のことしてて後で食べようと思って、そのまま寝たりとか」
「お腹減るでしょ?」
「寝るほうが勝つかなあ。でも、ちゃんと代用食で補ってますよ」
スナックバーの形をした総合栄養食品の名に、ダイナンの細い眉が寄った。
「それは栄養というだけでしょ。きちんと食事をしないと」
床で脱いだガウンをたたみ、涙の乾いたチヒロが少し笑った。
「あは。昨日もカイデン宙佐に同じこと言われました」
「カイに?」
「はい。隊長と一緒に荷物を運んでいただいて」
ダイナンは昨夜、ふたりがなにやらこそこそしていたことを思い出す。
――まったく……あのふたり、仲のいいこと。
「サリュウはともかく、カイデンは手が早いのよ。そうやってあなたに恩を売って誘ってくるかもしれないから、きっちりガードしておかないと」
「はは。トノコ宙尉も言ってましたけど、そんなにすごいんですか?」
「まあ、彼の周りに女性が途切れたことはないわね」
「隊長は?」
その質問にダイナンは一瞬つまり、
「彼は仕事とカイデンの後始末で忙しくて、それどころじゃないみたい」
「仲良しなんですね、あのふたり」
「同期だし、同い年だから養成区でも一緒だったらしいわ。……はい、できた」
着替え終わったマナクの両肩をぽん、と叩く。
モデルでも通用しそうな整った顔に間近で見つめられ、照れたマナクが、にまにま笑いながら身をくねらせる。
「なに、どこかおかしい?」
「すみません。この子、きれいな女のひとが好きで」
「あら」
「優しくしてもらって嬉しいみたいです。……マナ。お姉さんにありがとうは?」
ぐねぐねする妹の体を背後から抱え、チヒロが覗きこむ。マナクは顔中で笑いながら、手で顔を隠した。
「なに今さら照れてるの」
「やーあっ」
「もー、こら。マナ」
チヒロはマナクの大きな体を膝に抱えあげて、正面に向き合う。
「ほら、マナ。お姉さんにありがとう言って」
「……ありあと」
抱っこされたまま、マナクが逆向きにダイナンを見る。どういたしまして、と言うダイナンに、また照れ笑いし、思いきり体を伸ばす。
ぬるん、とマナクの口がダイナンの頬に触れた。
「あら、キスされちゃったわ」
「こら、マナ。……すみません。気に入ると、誰彼構わずキスしちゃうんで」
「キス魔なの?」
「よだれでべとべとにするだけなんですけど。あ――だめ!」
チヒロの制止と同時に、ダイナンの悲鳴があがった。マナクが、彼女の長い前髪あたりのブルネットを一房、ぎゅうっと握りしめている。
「マナク、手を離しなさいっ!」
「やーあ」
チヒロがマナクの手を持ち、強引に一本ずつ指をこじあける。
いたた、とダイナンが額の生え際を押さえた。
「す、すみません。大丈夫ですか?」
「……ん。抜けてはないみたい」
「本当にすみません。他人の髪の毛が大好きで……自分の髪を触られるのは大嫌いなのに」
「いえ、大丈夫」
さすがに動揺して、ダイナンは髪を整えた。マナクの手を取り、チヒロがぱしりと叩く。
「だめでしょう! 人の髪をつかんだら、いたいいたいになるんだよ」
叱られているのが分かっていないのか、天真爛漫な笑顔で、マナクがチヒロの髪に手を伸ばした。癖のない黒髪が、つるりと逃げる。
め、と、チヒロはまたマナクの手の甲をぶった。
「それであなたの髪はその長さなの?」
「これでも長いくらいです」
顎あたりで揃えたおかっぱは、容赦なくわしゃわしゃとひっかき回されている。
「慣れてるわね」
「これくらいはいつもです。でも、少し眠いみたい」
「強いテレパスを使ったあとは、嗜眠傾向が見られるの。あなたは大丈夫?」
「わたしは〝先に〟寝てましたから。少ししゃべって今は元気なくらいです」
チヒロはえびぞるマナクをベッドに下ろす。その頬に、赤い色がついている。
「あら、怪我?」
「あ、マナクの手が――」
ダイナンはティッシュでチヒロの頬の血を拭い、丸くなるマナクの手をとった。
擦り傷がいくつか。血が滲んでるところが二ヶ所。
「絆創膏、貼っておきましょうか」
「マナクはすぐに剥がしちゃうんで、いつも貼らないんです」
「じゃ、消毒だけでもしておきましょう。汚れちゃうわ」
言いながらダイナンは、備え付けの救急セットを探す。
「あ、でも沁みるから、マナクが――」
「大丈夫」
ダイナンは、救急セットから見つけたスプレーを手にウインクすると、マナクの右手を取った。
「マナク、今朝はなに食べた?」
言いながら、シュッと一吹き。眠さにとろけた顔つきのマナクが、朦朧と呟く。
「……おあとーのぱん」
「あら、いいわねぇ」
さらに、もう一吹き。マナクが泣き出す気配はない。
チヒロは、スプレーする直前、ダイナンが弱いテレパスをマナクに送ったのを感じた。つまり、サリュウの言う〝催眠〟だ。
チヒロのやるように上から意識を押さえるのではなく、軽く脇へ逸らす――そんなやわらかさ。
――すごい。こうやって使うんだ。
目を瞠るチヒロに、ダイナンがふわりと微笑みかける。
「あなたもすぐに使えるようになるわ。……じゃ、お部屋の片づけしちゃいましょうか」
※ハシバミ色(榛色):黄色がかった薄茶色。ヘイゼル。
ブルネット:褐色がかった髪。目・肌の色でも使う。