(5)
弐-(5)
《ごめん。わたし、マナクを守りきれなかったよ……》
意識の片隅でチヒロが泣いている。
サリュウは、電子ボード上でホログラフ再生する会議用資料から眼を離すと、ため息をついて額に手を当てた。
「……あの馬鹿。だだ漏れだと言っただろうが」
「サリュウ?」
資料作りを手伝うダイナンが、横合いから思案そうに覗き込む。艶のあるオリーヴ色の肌はほとんど化粧臭さを感じさせないが、驚くほどきれいだ。
「いや。なんでもない」
「そろそろ行かないと、ハジ警視正がまた爆発するわよ?」
昨日起きた五葉市の爆破未遂事件のことで、警察庁から呼び出しが来ているのだ。表向きは話を聞きたいということだが、長官を筆頭とした幹部が勢揃いし、吊るし上げを食らうのは目に見えている。
動きの鈍った頭に鞭打って会議時間を短縮するための資料を作成したが、肝心のチヒロ・ハナダがプリコグニションであるという証拠がないため、形勢は不利な模様だ。
「あいつの場合は爆発というより暴発だろう。慣れているよ」
「暴発したら、火の粉が降りかかるのはあなたなのよ。少しは身を守ることを覚えたら?」
「残念ながら、俺よりうまく防御できる相手にまだお目にかかったことはないが」
最強の稀人と呼ばれる男の言葉に、ダイナンは苦笑して異論を封じる。
「それなら、ひとりで頑張るのね」
「冷たいんだな。君も爆発見物につき合う気はないか?」
「お誘いは嬉しいけど、一心には一生足を踏み入れるつもりはないの」
やわらかな笑顔で、ダイナンがきっぱりと断る。
サリュウはもういちど嘆息をついた。
「じゃ、ひとり寂しく晒し者になってくるよ」
「生還を祈るわ」
無駄なあがきを結集した資料を持ち、厭な予感をごまかしつつ席を立つ。
そのとき。
――!
強烈な力が、サリュウの脳髄を突き抜けた。医務局にいるはずのチヒロだ。
《マナクが……行かなきゃ》
《だめよ、チヒロ。今動いては……機械がまだ作動してる!》
焦りを含んだアサギ医師の声が聞こえる。サリュウと共振するチヒロのテレパスが拡大して、無意識に周囲の声を拾っているのだ。
《行かなきゃ……マナクが……泣いてる》
《ハナダ宙士、何をしているっ!》
咄嗟にサリュウは、強いテレパスを送った。直撃を浴び、傍のダイナンが、うっと顔を顰める。
《マナクが……泣いて……行かなきゃ》
《君は今訓練中だ。妹の世話をする時間ではないだろう。わきまえろ!》
《だめ……行かなきゃ。あの子……呼んでるの……》
《チヒロっ!》
テレパスで怒鳴ると、サリュウは肉声に切り替え、口早にダイナンに告げた。
「医務局へ行ってくる。悪いが、ハジ警視正には君から言い訳しておいてくれ。詳しいことは二、三日中に俺から直接話す。俺は今、別件で手が離せない状態だと」
「分かったわ」
「頼む」
ボードを手渡し、再び医務局に向かった。
*
軍人としてあるまじき俊足で医務局の検査室に飛び込んだサリュウは、室内を一瞥して眉をひそめた。
「なにがあった?」
高く纏めた髪を乱し、アサギ医師が大きく息をつく。その手には、薬液の入った無針注射器が握られていた。
「ほんの一分ほど前よ。レム睡眠状態を作ろうとして、睡眠薬を注射して検査に入ったの。そうしたらすぐに……」
「マナクと〝繋がった〟のか」
「ええ」
医師が強張った顔で頷いた。
「多分、少し前からマナクはパニックでテレパスを出していたのね。だけど、チヒロはあなたと共振していて気づかなくて……マナクのパニックが加速した」
「そこへいきなり回路が繋がって、マナクのパニックにチヒロが巻き込まれた、ということか」
「ええ、おそらく」
アサギ医師が説明する間にも、ぶ厚い強化ガラスの向こうでは、まだ覚醒しきっていないチヒロが検査台の上で暴れている。頭にはヘッドギア、腕にはモニター用のコードをつけたままだ。
半開きとなった検査ドームは緊急停止を告げる赤色ランプが回り、あの小さな体にどんな力があるのか、男性看護師が二人がかりで両脇から押さえつけていた。
「鎮静パルスは使わないのか?」
興奮した稀人を鎮めるための強力な電磁警杖の名に、女医の目つきが変わった。
「あなた人形を作りたいの? 今の状態で使ったら、下手をすればマナクの意識からチヒロが戻ってこれなくなるわ」
「だが、このままでは暴走するだけだぞ。マナクとの共振がパニックを増幅させている。薬が切れるのを待つのは無理だ」
「できれば完全に覚醒させるか、深く眠らせてマナクと意識を引き離したいんだけど……サリュウ、あなた――」
言いかけた刹那。
《!!》
どこからか、悲鳴にも似た強いテレパスが呼びかけた。思わず頭を押さえたサリュウとアサギ医師の前で、チヒロが大音量のテレパスを返す。
《マナ!!》
瞬間、わあっという叫び声と共に、看護師たちが飛び退った。
制御もなく発せられたチヒロのテレパスが、物理的な痛覚となって襲ったのだ。
拘束が外れたチヒロは、ヘルメットを脱ぎ捨てると、コードを引き抜いて立ち上がる。
《マナ……!》
素足のまま、ドアに向かって駆け出した。眠っているとは思えない速度でチヒロは走り、開いていないドアにそのまま突っ込む。
――なに?!
サリュウは目を疑った。
ぶつかると見えたチヒロの体が、ドアを突き抜け、医師とサリュウの前に現われる。そして、彼らの背後のドアまでも音もなく通り抜け、姿を消したのだ。
サリュウの額に、脂汗が滲む。
「テレポート……いや、アポートの変形か……?」
「どうやら検査は今日中には終わらないみたいね、コズミ隊長」
空々しいまでに冷静なアサギ医師の声が、虚ろにその場に響いた。