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千夜航路~天つ海翔ける星の宙船~  作者: 藤田 暁己
<其の拾弐> Night Mare――夢魔
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(8)


拾弐-(8)


 呼吸を整え、カイデンはゆっくりと周囲を見回した。

 クリーム色の床と壁。右側に大きな若草色のカーテンがかかり、空調の風を受けてかすかに揺れている。カーテンの向こうには窓に似せた風景スクリーンがあるが、ずっとOFFにしているので意味はない。

 壁や床と同色の天井は、昼光色のあたたかな照明で満たされ、左手奥にスライド式のドア。手前には遮光カーテンつきのトイレと洗面台、簡易のシャワー室。その隣に小ぶりなクローゼットと小型冷蔵庫を備えた棚が並んでいる。

 自室よりも格段にきれいで清潔な室内は、だが余計に居心地が悪かった。


――……ち。


 音もなく舌打ちし、木調のクローゼットに視線を向けかけた彼は、こちらに近づいて来る人物に気付く。

 病室だというのに無造作にドアを開けて入ってくるのは、ひとつ年下の後輩だ。


「……ノックくらいしろよ」

「分かってたくせに」


 咎めれば、澄ました答えが返る。元彼女カノということもあるが、どうも最近自分に対して容赦ない気がしてならない。

 口達者なほうではないと自覚しているカイデンは、反論せずに黙った。ダイナンは気にする様子もなく、サイドテーブルに持参した大きな袋を置き、次々と中身を取り出していく。

 冷蔵庫に飲み物やおやつのストックが補充され、頼んでいた雑誌や漫画が読み終わったものと交換されるのはよい。だが、きれいにたたんだパジャマと下着がクローゼットに戻されるのを眺めるのは、いささか複雑な気持ちだ。

 それがついに、飲食物のゴミの片付けと一緒に、流れ作業のように洗濯物を回収されるにいたって、カイデンはそっとそちらから視線を切り離した。


――女ってのは、なんでここまで他人の世話を焼けるもんかね。


 家族でもない、ましてや別れた男の汚れた下着など触りたくないだろうに、自分が入院した直後から、ダイナンはこうしてまめに世話を買って出てくれている。

 嬉しくないわけはない。同僚としての気遣いとはいえ、見目麗しい女性が甲斐甲斐しく尽くしてくれるのだ。しかも、未だ想いを残す相手である。


――いや。想いを残すとかじゃねーんだろうな。


 後にも先にも、ここまで想える相手はただ一人だ。それは叶えようと努力することを止めてしまったせいか、余計に心の奥深くに打ち込まれた。他の女ではもたらし得ない、特別な感情。

 なぜ彼女なのか、という問いに、カイデンは答えを持ち合わせていない。どちらかと言えば〝なぜ周りの男はみんな彼女に特別な想いを抱かないのか〟という疑問しかない。


 顔もスタイルも髪も声も抜群、性格もいい。マイナス点といえば稀人であることと、警察長官の娘というバックグラウンドくらいだ。実際、数年前サリュウと別れてから誘いの声は引きもきらないようだったが、予想に反して彼女はずっと独り身を貫いている。

 『もう面倒はこりごり』と本人は言うが、おかげでこちらは妙な期待感が消えぬまま、今日までずるずると想いを引きずるという体たらく。


――だいたい、あいつがしっかり捕まえておかねーから……。


 唯一こいつなら任せても大丈夫と思った親友は、あっさり一年足らずで彼女と別れて以降、縒りを戻す気配もなく、かえってこちらを後押しするような台詞を吐いてくる。


――なんだよ。本気で好きだったんじゃなかったのかよ……。


 彼の複雑な環境は承知している。面倒くさい事情も性格も知った上で、彼だったら彼女を幸せにしてくれるし、その幸せな様子を傍で見ていても耐えられると思ったのだ。懸ける想いの種類はまるで違うが、どちらも大事な二人だったから。

 それが――いつから、どこで、すれ違ってしまったのだろう。

 いつからだろう、二人の間にあった熱く張り詰めた空気が消え、もっと穏やかでやわらかなものへと移行していったのは。


――俺だけが……止まっているのか。


 分かっている。自分だけ、あの訓練生の頃のまま、なにひとつ動けていないのだ。

 ふいに視界が暗く陰る。


「……!」


 咄嗟に片手を目にやれば、呆れたようなダイナンの吐息が、思いのほか近くで響いた。


「まだ十分ももってないわよ?」

「……うるせぇ」

「ま、最初に比べたらましなほうだけど」


 愚痴めいた評価を耳に流しながら、カイデンはもう一度意識を集中させる。耳から上がかっと熱くなり、かすかな違和感とともに五感が切り替わった。この瞬間が、何とも言えず心地悪い。


「カイ。肩の力を抜いて」

「わかってる」


 息を吐き感覚を研ぎ澄ませれば、雲間にすっと光が差し込むように、昼光色に照らされた明るい病室の光景が周囲に広がった。

 この景色は現実だが、視覚から届く情報ではない。テレパスで知覚した情報を脳が視覚として処理しているに過ぎなかった。

 テレパスは稀人の基本的な能力ではあるが、念動力者サイキックであるカイデンにとっては補助的なものでしかなく、チヒロやサリュウのように常時発動させることには慣れていない。

 まして、使えなくなった両目の機能の代替とするには、それなりの訓練が必要だった。少なくとも入院期間を延ばし、元彼女カノである後輩に頭を下げて教えを乞うくらいには。


「焦らないで。空気に馴染ませるように、薄く広げていくの」

「わかってるって」


 自分でも不味いと思うが、じわじわと胸中に広がる焦燥が絡みつくかのように、体が強張った。息を吐いて、ゆっくりとそれを腹の底に沈めていく。

 これまで、ほとんどの困難は力で捩じ伏せてきた。それを努力だと誇るつもりはないが、不器用な自分がここまでやって来られたのは、体を鍛え、精神を鍛え抜いた結果だという自負はある。

 だが、ここへ来てそれが通じなくなってしまった。


 電磁鎮静パルス(EMP)を間近に浴びた視神経を回復させるには時間の経過を待つしかないという事実と、視覚という五感のひとつが失われただけでポンコツになってしまった自分への苛立ちと。

 最期の顔すら看取ってやれなかった後輩と、張り詰め、疲れきった同僚たちと。

 そしてなにより――すべてを背負って独り在ろうとする無茶な親友と。

 それらに対する湧き上がるもろもろの想いを、ただ一点、怒りという感情にのみ昇華した結果が、この訓練だった。回復に時間がかかるなら視力など後回しでいい。問題は、いかに早く今の自分を前の状態に近づけて、仕事に復帰できるか、だ。


「カイ。テレパスを広げすぎているわ。もっと狭めて」

「広げろって言ったり狭めろって言ったり、めんどくせーな」

「広げるのは密度の感覚。領域は狭めて、目の前に集中するの。あなたに必要なのは視覚の代替でしょう? そんなに常時ぴりぴりテレパスを発動してたら、皆にバレるわよ」

「どうせ隠してもバレんだろ」

「無理してるのも?」

「……」

「いいから。私だけを視て」


 別のシチュエーションで聞けば誤解しそうな台詞を真顔で吐くダイナンに、「了解、先生」とおどけて返し、焦点を合わせる。すると、意外なほど目元を朱に染めた照れ顔が視えた。

 と、いきなりダイナンが、ベッドの枕を引き抜いて叩きつける。


「ちょっと、あんまり見ないでよ!」

「おま、どっちなんだよ!」

「じろじろ見すぎなの!」


 理不尽な苦情にカイデンは苛立つ。が、テレパスで得られた視界には、枕の白ではなく子どものように赤くなってむくれるダイナンが鮮明に映る事実に、すぐに機嫌を戻した。


――こりゃいい。


 テレパスでの視覚に、物理的な遮蔽物は意味をなさない。見たいものが視えるという既知の事実をあらためて認識し、カイデンはテレパスで肉眼と同じ視界を得ようとしていた自分の愚かさに気が付いた。

 見たいものさえ認識できればいいのだ。床や壁や家具がどうであれ、自分にとって必要な情報は環境ではなく、そこにいる人間だ。それさえ分かれば――あとはどうだっていい。

 まだ赤い顔を隠すように両手に枕を持ったダイナンが、怪訝そうに眉を寄せる。


「カイ?」

「動くな。今ちょっとなんか分かりそうなんだ」


 目の前の彼女に、再び意識の焦点を合わせる。

 白ではなく、温めたバターのような色味を帯びた卵形の顔立ち。濃い眉。こちらを窺うように見上げる、黒目がちの榛色はしばみいろの大きな瞳。

 出会った頃を思い起こさせるその面差しに、だが出会った頃にはなかった目の下の隈を見つけ、思わず手を伸ばす。すべらかな頬の感触を指先に感じながら、親指でそっと隈を撫でた。


「ごめん。苦労かけちまったな。今回のことだけじゃなく、その、これまでいろいろ……悪かったと思ってる」

「……カイ」

「だけど、これからは――」


 おまえだけを見てるから。

 ブルネットの髪に指を絡め、絞り出そうとした言葉はしかし、寸前で口の中に消えた。

 張り詰めたテレパスに引っかかる、何者かの気配。

 はっと身構えたカイデンは、すぐにその正体を悟り、苦笑とともに警戒を解いた。

 [まほら]内で在るはずのない、巨大な自然風に似た清冽な流れは、その規模に似つかわしくない小柄な訓練生のものだった。

 同じく察したダイナンが、肩をすくめ、ぽいと枕を投げ渡す。見計らったように、部屋のすぐそばで力の流れが止まり、軽くドアが叩かれた。


「ノックノック。カイさん、起きてらっしゃいますかー?」

「起きてるわ。どうぞ入って」


 まるで自分の部屋のように答えるダイナンの声に、そろりと引き戸を開け、おかっぱ頭が覗く。めずらしく私服姿だが、制服で見舞いに来るわけもない。

 ちなみにダイナンもシャツとジーンズという軽装だが、さすがに見慣れて違和感はなかった。


「調子どうですか? ……って、意外と元気そうですね」

「見舞いに来てそれかよ。つか、おまえちっとは抑えろよ。気配丸わかりだぞ?」

「わざとですよ。わたしなりの配慮です。気・づ・か・い、です」

「分かった分かった。休日だもんな? 統制さぼってても、内緒にしといてやるよ」

「人の話聞きましょうよ! そんな意地悪言うんだったら、お土産全部ダイナンさんにあげちゃいますよ!」

「お土産? お見舞いじゃなくて?」


 問いかけるダイナンに、チヒロが大きな手提げ袋を差し出す。カイデンの鼻がひくりと動いた。テレパスで視ずとも分かる、食べ物の匂いだ。


「みんな戦闘糧食レーションに飽きてきたってことで、医療棟のカフェで、お弁当を大量購入したんです。で、お二人にもお裾分けに来ました」

「それは遠いところをご苦労様」

「わたしがしたのは選んだくらいですけど。費用は隊長の奢り。配達はハルトさんとアキラさんです」

「だいたい状況が見えたわ」


 察しの良いダイナンに、チヒロもしたり顔で頷いてみせる。なごやかな二人の会話を断ち切るのは、獣の唸り声のようなカイデンの腹の虫だ。


「おい、チィ。さっさと俺の飯を出せ」

「ちょっと、カイ。さっきお昼食べたばかりじゃないの」

「あんなもの食事じゃねえ。薬だっ」


 吐き捨てられたカイデンの不満に、チヒロが首を傾げる。


「血液検査でも悪かったんですか?」

「意外なことにそれが全然。だけど、眼の治療効果があがらないせいか、代わりにお医者様が栄養管理を徹底的にやりはじめちゃって」

「はあ」


 ダイナンの説明に、チヒロの頭がますます傾く。


「確かに高血圧は目によくないし、運動制限があるからカロリーコントロールされるのは分かるんだけど、カイが短気なのは元からじゃない? 食事を変えて体を作り変えることで精神の安定を目指すって、無理があると思うのよねぇ」

「そのお医者さん、大丈夫なんですか?」

「眼科の専門医ではあるらしいんだけど、稀人相手は初めてらしいわ。軍医って、なんであんなに上から目線なのかしらね?」


 めずらしく苛ついた口調で、ダイナンが肩をすくめる。対して、短気かつ直情的が代名詞のカイデンは、憮然としてはいるものの、なぜかそれほど怒りの気配はなかった。


「医者と相性悪いのは昔からだ。言うとおりにしないと治療の効果はねえって言われてたからおとなしくしてたけど、もういい加減飽きた。そもそも俺は、訓練の時間が欲しかっただけだしな」

「なにも軍病院で訓練しなくても」

「研究棟でするほうが面倒くせえ。なにか試すごとに測定されんのはごめんだ。それに養成区も、しばらく落ち着かねえみたいだしな」


 幼少の稀人が集められる養成区にも、食堂の事件は余波をもたらしていた。強固なフィルターがあるため事件そのものを透視した子がいるわけではないが、居合わせた人々の動揺や恐怖は否応なく彼らの不安を掻きたて、導師たちが総出で対応にあたってもまだ収束をみていないというのは、妹を養成区に通わせるチヒロも実感していることだ。

 カイデンの言葉に神妙にうなずいたチヒロは、小賢しいことに気が付いた。


「ん? このまま普通に退院しても、結局はアサギ先生のところでいろいろ測定されるんじゃ?」

「そこを1回で終わらせるってのが俺の作戦」

「そううまくいきますかねー?」

「任せろ」


 にやりと笑って、カイデンが右手を挙げる。するとチヒロの手の袋から飛び出した丸い包みがぽす、と軽い音を立ててそこに張り付き、次いでその上に同じ紙包みが、ぽすぽすぽす、とリズミカルに積み上げられた。


「あ、なんだか小器用になりました?」

「俺は昔から器用だっつーの」

「それより一体いくつ入ってたのよ……」


 四次元ポケットを見たとでもいうダイナンの胡乱な眼差しが、カイデンの手の上のハンバーガータワーに注がれる。


「1ダースですね」

「あいつら分かってんなー」


 不安定なタワーをざらりと布団の上で崩し、カイデンはいそいそと緑の包み紙を剥がして、特製ハンバーガーにかぶりついた。「うめえ」と声が漏れる。


「やっぱこの味だなー。もう退院するしかねえな」

「食堂はまだ工事中ですよ?」

「デリバリーすればいいだけの話だろ。人がいるなら、なんとでもできる」


 明朗な断言は、今この状況だからこそ余計に強く響いた。チヒロは一瞬つまり、すう、と息を吸い込んで「はい」と頷いた。

 思い出したように、軽くなった手提げ袋をダイナンに見せる。


「ダイナンさんには、パスタとオムライスも入れてますよ」

「あら、嬉しい。あ、おにぎりもあるのね」

「梅おかかと鮭と昆布ですね」

「俺、鮭ー」

「あなたはハンバーガーがあるでしょ」


 言って、ベッドに顔を向けたダイナンは、ひくりとこめかみを引き攣らせた。1ダース、すなわち12個あったはずのハンバーガーが、いつのまにか3個にまで減っている。開封された紙包みがかさばって、視覚的な質量はあまり変わらないが、テレパシストには通用しない。

 ダイナンは無言で、中身の無事なハンバーガーの包みをひとつ取り上げ、ぺりぺりと開けはじめた。


「おい、それ俺の分」

「9個も食べれば充分でしょ」


 代わりとでもいうように、おにぎりの包みがベッドに投下される。具がきちんと鮭なところがダイナンらしい。

 文句も言えず、恨めし気な顔を向けるカイデンに目もくれず、ダイナンは特製ハンバーガーに齧りつく。


「……ん。美味しい」

「だろ? 他のとはバンズもソースも違うんだ」

「初めて食べたのがもったいないくらい。でも、1ダースはさすがに多すぎじゃない?」

「1個が小せぇんだよ」

「燃費が悪いのかしら?」

「ただ単に、カイさんにとってはスナック感覚なんだと思いますけど」

「栄養バランスは良くないわねぇ。確かに美味しいけど」


 上品なわりに、ぱくぱくと気持ちの良いほどすみやかにハンバーガーを完食し、ダイナンは指先からパン屑を払い落とした。


「じゃ、エネルギー補給もしたことだし、頑張りますか」

「なにをですか?」

「退院手続き。チヒロ、手伝ってくれる?」

「は、はい」


 勢いのまま了承して、チヒロは内心「あ、これ既視感デジャヴュだ」と呟いた。二羽市の病院で強引に退院を進めた男女の上司が脳内でリフレインする。

 やっぱり仲のいい者同士は似るらしい。

 そのことが可笑しくもあり、温かくもある。

 凍りついた時が、再びゆっくりと動きはじめたのをチヒロは感じた。



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