(2)
弐-(2)
確かに、本来誰かと相室となるはずの部屋をつぶしてマナクと一緒に住めるようにしてくれたことは、感謝に値する。
三級レベルの稀人であるマナクを研究棟の養成区に入れなかったことや、力を今まで隠していたチヒロをいきなり訓練生にしたことも、もちろんチヒロの予知を信じ、爆発を未然に防ぐ手筈をしてくれたことも――警察とはかなり揉めたようだが――格別の裁量だったのは想像がつく。
それでもチヒロは、サリュウに対して何となく釈然としないものを感じていた。
――謎、だもんね。
綿のつぶれた布団の上で仰向けに寝転び、最初に交わした会話を思い出す。
彼の力がずば抜けているのは、すぐに分かった。
通信機から聞こえる、冴え冴えとした声。
『君を見つけた』
そう言われたときは、本当に心臓が止まりそうになった。
通信電網を通じて〝視る〟なんて、あまりに失礼な気がして、思わず彼の意識を逆手に取って〝視返した〟わけだが。
――あれがつまり、双方向性ってやつなんだろうなぁ……。
ぼんやり考えても、実際まともに習ったことがないので、理解できているわけではない。
マナクの意識を逸らしたときもサリュウは〝催眠〟と言ったが、妹との長いやり取りの末に偶然できるようになったもので、作用機序も何も分かっていなかった。
『読みすぎると君の精神にかかわる』
とはサリュウの忠告だが、自分はともかくマナクにもよくない影響があったのかもしれないと、チヒロは今さらながら蒼ざめた。
だが、いかにテレパスが双方向性といっても、サリュウがチヒロの部屋の様子を知ったように、チヒロがサリュウを〝視た〟わけではない。思考は読んだが、それはあくまで表面を流れる意識で、深く読んだわけではなかった。さすがにチヒロもそれくらいの遠慮はある。
あれは、稀人のいる地域に行くのだから、ある程度オープンにしていっても平気かと、意識を閉ざしていなかったせいだとは思うのだが、それでもごく自然に彼の思考は流れ込んできた。
――このひと……強い……!
握手したときにも思ったが、サリュウの力はまるで宇宙空間のように暗く、果てしなかった。
底知れぬ力――大袈裟な表現だが、彼に対してなら分かる。
彼は宇宙で、そこを流れる大きな風が彼の意識なのだ。その風を捕まえようなんて、不可能に等しい。
――そのうえサイキックかぁ。冗談でも〝ジュニア〟なんて言わないでほしいよ。
自分にかかる過度な期待を感じながら、空腹よりも眠気が勝ったチヒロは、荷物の山をほったらかしてマナクの隣で眠りこけた。
*
どこからか聞こえるブザーの音に、チヒロは寝ぼけたまま起きあがった。
はっきり開かない目で辺りを見回し、ベッド脇で赤いライトの点滅をくり返す、最新型の通信機に気づく。時計の表示は、午前五時〇二分。
チヒロは生欠伸を噛みつつ、ブザーを切るボタンを探した。その指が探し当てるより早く、ブザーが止み、青く変わったライトの下の画面にサリュウ・コズミの顔が現われる。
『訓練生チヒロ・ハナダ三等宙士。起きたか』
「あ……は、はいっ。おはようございます」
『通信は三十秒以内に出るように。出なければ強制的に切り替わる』
「はい。すみません」
『バスルームの位置は分かるか。入り口のすぐ左だ』
「分かります」
『バスルームのドアの横にランドリーボックスがある。着たものは下へ、新しいものは上から出てくるので、そこから支給された服を着て、食事を済ませ、六時までに本部へ来るように。以上だ』
マナクは、と問いかけようとしたときには、通信は切れていた。
午前五時〇四分。あの様子では、絶対に遅刻は許されない。
一瞬で眠気の吹き飛んだチヒロは、隣でまだ寝ているマナクの頬を手のひらで軽く叩いた。
「起きて、マナ! 姉さん出かけなきゃ。マナ!」
うーん、とマナクがうめいて手をふり払う。
チヒロは妹の両腕をとって抱きしめると、こちょこちょと横腹をくすぐった。
「いーやーあっ」
軟体動物のように、マナクの体が腕から抜け出る。
「ほら、起きて! 姉さん間に合わないと怒られちゃう」
「やーあっ」
だいぶ起きたはずだが、マナクは枕を抱きしめて放さない。チヒロはいったん前線から引いて、台所に向かった。アパートにあった備え付けの自動調理器とは、ずいぶん型が違う。
「うわ。昨日のうちに少し使っとけばよかった」
後悔してももう遅い。チヒロは自分用にコーヒー、マナク用にオレンジジュースを入れて、固形化した菓子パンを調理器のトレイにセットした。
「マナ! ほんとに起きてくれないと、姉さん遅刻しちゃう」
「やあだっ」
声が笑っている。しっかり寝たので、今日の寝起きはそんなに悪くないようだ。
チヒロはシャワーを浴び、カラスの行水さながら飛び出ると、サリュウから教えられたとおりの制服を着込んだ。靴も用意されている。
――そっか、全部制服だよね。
ちょうどパンが焼きあがり、コーヒーとオレンジジュースと一緒にプレートに載せて、ベッドに持っていった。ついでにベッド脇に転がっていた、度の入っていない眼鏡を拾ってかける。
「はい、お嬢さん。起きて朝ごはん食べてください」
「いーやっ」
「あ、そう。じゃあ、全部姉さんもらっちゃお」
マナクの好物の砂糖がけデニッシュにかぶりつく。
「だめっ。まぁなのっ」
「だってマナ、起きないんだもーん」
「やーあっ」
「起きたらあげる。ほら」
顔を真っ赤にして両腕を振り回す妹の口に、ひとかけ菓子パンを入れてやる。
マナクが布団に座り、おとなしく口を動かしはじめた。大きい欠片は飲み込めないので、ゆっくりと不器用に自分でちぎる。
――前は全部食べさせてたんだもん。進歩だよ。
こういう小さな喜びが、マナクと一緒にいる楽しさなのだ。
「あう」
マナクがパンをいっぱいに詰め、口を開けてみせる。
「そんなことしたら喉痛くなるよ。べえして」
「やーう」
「じゃ、ジュース飲んで」
「んーんん」
マナクの手がコーヒーのマグに伸びた。
「これ、マナのじゃないよ。苦いよ?」
「んー」
「ちょっと待ってな」
チヒロは台所に向かおうとして、調味料一切がまだ荷物の山に埋もれていることに気がついた。しかも時刻は、五時四十五分。
「やば……」
軽く目を閉じ、全神経で荷物をサーチする。
――よし、来い。
指をスナップして、大さじ一杯ほどの砂糖とミルクをカップの中に〝転送〟させた。ちょっと甘いが、マナクにはちょうど良い。
大急ぎでマナクに飲ませ、カップと皿を自動食器洗い機に放り込む。そして留守番を言い聞かせると、チヒロは部屋を飛び出した。