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拾弐-(1)
八部訓練生になってすぐ。はじめて、挫折というものを経験した。
「よく来たな、サリュウ・コズミ准宙尉」
にこやかに微笑をたたえた温厚な男。くせを生かして整えた飴色の短髪の下はベビー・フェイスと称される甘いマスクで、垂れ目がちな二重の双眸と、男らしいがやわらかさを備えた口元は誰しも警戒心を解いてしまう――その実、ターコイズの瞳がまったく笑っていないとしても。
――相当なタヌキだな、こいつは。
八部隊長トーヤ・セイジに対する最初の印象は、そんなところだ。
八部の黎明期から活動凍結、それが解除される変動期まで牽引してきた男だ。それくらいの面の皮の厚さは当然だが、表面だけの愛想の良さならばこちらも負けてはいない。
「よろしくお願いします」
知的かつさわやかだと評判の微笑を控えめに浮かべ、軽く頭を下げる。しかし隊長室に呼び出した相手は、リクライニングさせた椅子に身をもたせかけたまま、変わらぬ微笑を返すばかりだ。
試されているとも思えるその態度にサリュウは苛立ち、相手を探ろうとして――全身に鳥肌をたてた。
まったく読めないのである。
「サリュウ・コズミ」
突然トーヤが、ふたたび名を呼んだ。
「研究棟の智恵の結晶である吾子であり、選ばれし遺伝子をもつ最強の稀人――なるほど。たしかに君は強い」
口を挟む隙を与えることなく流れるようにそう言い、語を止める。
「だが、君の力は使われるべきものではない」
「……どういう意味ですか」
「そのままだよ。君の力は、行使するには巨大にすぎる」
「それは力の規模ではなく、使い方の問題でしょう。俺の統制を疑うなら、そう言ってください」
「君の統制に問題があるわけでない。問題があるとするなら、今の八部は君の力を必要としていないということだな」
「それなら、なぜ俺を訓練生として認めたんです?」
「おれは反対したよ。だが上層部から、どうしても君を入隊させたいという声があがってね。結果、君は一年間の訓練生として認められた」
「それを俺に教えて、どうしようと?」
「べつに。不公平を失くそうと思ってね。君も、入隊審査をする相手がどういう意図を抱いているか、知っておいたほうがいいだろう?」
八部入隊には試験や実技のほかに様々な条件が付されるが、もっとも重きを置かれるのが訓練生としての一年間である。その評価を行なう隊長の裁量は、合格の可否を決定づけると言っても過言ではない。
相手の意思を測るように、サリュウは目を眇めた。いつも極限まで抑えている力をいくばくか開放しても、読みとることができない。
力の強さは明らかに格下で、下手をすればラギよりも弱い準二級レベル。だが〝柔よく剛を制す〟の言葉どおり繊細な技術に長け、粘りづよく穏やかな性格の両方から隊長として認められているのだと話には聞いていたし、その印象に齟齬はない。
それでも――楽に勝てると思っていた相手は、桁はずれの技術力だった。強固な精神障壁が張り巡らされているわけでも、導師たちの無心とも違う。弱々しいはずの精神波は雲霧のごとく彼にまとわって、触れようとするたびにするりと逃げ、まったく正体を掴ませないのだ。
――まるで、剣で空気を切り裂こうとでもしているようだ。
無言で蒼ざめるサリュウに、トーヤはふっと笑みを投げた。
「君は、面接をしたときにおれが言ったことを覚えているか」
「たしか……〝鏡〟だと」
それまでに何度か見かけたことはあったが、言葉を交わしたのは訓練生の面接のときが最初だった。そのとき彼は終始にこやかにサリュウの力の強靭さ、正確さを褒めあげ、挙句『君が入ったら、おれは引退して隊長を任せたほうがよさそうだ』などとのたまったのである。
――そうだ、あのとき。
彼の態度が上辺だけのおべっかか探ろうとして、釘を刺されたのだ。
『――やめておくといい。おれは鏡だよ。探ったところで視えるのは、君自身の影だけだ』
思い出した様子に気づいてか、一回りも離れた稀人の男が淡々と種を明かす。
「おれの力の使い方は特殊でね。力が弱いおかげで、いろんな芸当を身につけたよ。
精神障壁も、強固な壁が作れない代わりにレーダーを乱反射させて姿を隠すステルスのように、相手の力を逆手にとって存在を消せる。逆を言えば、相手の力の具合に因るところも大きいものでね。もし君が今、おれを読めないのなら、それは君が君自身を分かっていないせいだろうな」
「経験論的哲学ですか」
「単なる事実だ。哲学というなら、君にはこの言葉を与えよう――居合は知っているかな?」
伝統武芸は、精神修養の一環として軍で奨励されるものである。サリュウは頷いた。
「嗜む程度には知っています」
「武道はスポーツじゃない。〝嗜む〟という表現は適切ではないが……〝剣は鞘のうち〟という言葉を聞いたことは?」
「……いえ」
「居合独特の抜き打ちの技法から、先手必勝の意味と誤解されることもあるが、実際は〝居合の勝負は剣が鞘に納まっているうちにつけるもの〟という意味だ」
サリュウは怪訝な顔になった。居合道は、真剣での斬り合いを想定した型を基本とする。剣を抜かなければ意味がないではないか。
「真の強さは、剣を抜かなくても分かる。抜刀する前に勝負を決することができなければ初めて剣を抜き、無駄のない最小限の手数で相手を倒すのが居合だ。つまり、剣を抜かずに相手に勝てるものこそが最強と言えるな」
「それと俺にどんな関係が?」
「サリュウ。君は、つねに抜き身の剣を手にしている。それは触れたものすべてを斬る、妖刀そのものだ」
「!」
謎かけのような言葉のすべてが腑に落ちた。同時に、自身のすべてである〝力〟を真っ向から拒絶されたのだと悟る。
トーヤが先ほどの台詞をくり返した。
「君の力は使われるべきものではない。あらゆるものを斬り捨て、生かすことのできない剣など、この八部には必要ない」
「……力を使うなと、言うのですか」
「そうだ」
「力を使わない稀人なんて――」
そんな自分に、なんの意味があるのか。
言葉に出されなかった想いを読んだのか、トーヤはひっそりと笑みを頬に沈めた。
「稀人は、特別だから超能力をもっているのではない。たまたま他人と違う力を備えているだけだ」
「それは知っています」
「知っているが、分かっていないんだ。サリュウ――君は選ばれた。どのように選別されたかは知らないが、君は意図的に創られた存在だ。そのような不自然な力は、本来はあってはならないものだ」
「では、俺にどうしろと? 好きで産まれたわけでも、この力を選んだわけでもない。だけど他に、俺にどうしろというんです?」
「〝剣は鞘のうち〟だよ、サリュウ。力を使わなくとも君は、君自身で相手を制することができるはずだ」
「めちゃくちゃだ。あなたは俺になにをさせたいんです? どうなれと?」
「単純だよ――〝人〟であればいい」
*
告げられた言葉は、何年も経った後でようやく本当の意味を理解することができた。
それは、サリュウが知りながら自らの存在意義として諦念していた部分――〝兵器〟としての彼自身を完全に否定する言葉に他ならなかった。
ハナダ博士が〝人〟として生きる道に開眼させてくれたひとであるなら、トーヤは〝人〟で在りつづけることを誰より強く推し進めてくれたひとだと言える。
――あのひとには一生かなわない。
その想いは、彼から譲られた隊長の座についた今でも揺らぐことはない。サリュウにとって〝隊長〟とは、トーヤ・セイジ以外にいないのだ。
褒められたことなど、数えるほどしかない。顔を突き合わせるのに胃が痛くなるほど苦手で、大嫌いで、それでも背中を追いつづけた。一度も辿り着けなかった、遠い背中を。
――今ここにいたら、なんて言われるんだろうな。
あの虫も殺さぬ穏やかな笑顔を浮かべ、血も凍るような台詞でちくちくと責めるだろうか。それとも冷ややかに呆れながら皮肉を並べたてるだろうか。
叶うなら、冥界に赴いて、まだ年上のはずの彼に叱られたかった。
過去の夢から覚めたサリュウは、うつろな暗闇の中で両目を開け、冷たいものがひとすじ眼尻を伝うのを感じた。
――泣いて、いたのか。
少しは、自分は〝人になれ〟たのだろうか。
答えを欲しい相手は、もういない。
明日の朝には、イブキの葬儀が待っていた。