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拾-(10)
「ごめんね、チヒロちゃん。お客様なのに」
応接室を占拠する雑多な荷物を右へ左へ移動させながら、ネリが、給湯室でお茶を淹れてきたチヒロに謝る。
「いえ、慣れてますから。はい、ネリさん。ミルクティーでよかったですよね」
「ありがとう。チヒロちゃんの淹れてくれたミルクティー、久しぶりだな」
嬉しそうに空いている丸椅子に座り、ネリが花柄のカップを受け取る。
チヒロは、白いシンプルなカップに淹れたブラックコーヒーをサリュウに手渡した。
「どうぞ」
「ああ」
ソファに座ったまま、サリュウがこだわりなく受け取る。
お茶の準備をする傍ら、予想通りの惨状を見せた給湯室を大急ぎで掃除したチヒロは、その隣に座り、一息つくように自分もコーヒーに口をつけた。熱い香りが喉元を過ぎ、昂ぶった気持ちが鎮まっていく。
その様子を、ネリがやや困惑した顔つきで眺めた。
「チヒロちゃん、前からコーヒーだったっけ?」
「前から飲みますけど……このところ多いかな」
職場では紅茶好きのネリに合わせてストレートティーを良く飲んでいたが、家では父がコーヒー党だったため、コーヒーが主だった。最近はサリュウと一緒にいるせいか、のべつまくなしにコーヒーを口にしている気がする。
父と勝るとも劣らぬコーヒー好きらしいサリュウが、カップから顔を上げ、チヒロに問う。
「そういえばおまえ、研究はいいのか?」
「あ、そうでした。ネリさん、見て欲しいデータって、なんですか?」
「あー……、僕のは後でいいよ。チヒロちゃんこそ、なにか相談があるんでしょう?」
「相談というか、一応論文の形が仕上がったから見てもらおうと思ったのと、その後のデータがあればもらおうかと思って」
二人のおこなっていた実験は、植物を被検体として成長速度や環境に応じた念波の測定を行うものだ。稀人の力である念波は電磁波の一種とされ、生物・無生物を問わず影響を与えることは分かっているが、動物以外でそれ自身の発する念波の計測ができたという話は聞いたことがない。
意志をもって念波を操ることが可能といわれるのは、下等動物ではクラゲ程度で、計測可能な下限はゾウリムシのような単性生物とされる。
チヒロたちの実験結果は、完璧に念波を計測できたというには程遠いが、念波を発していないという否定には至らないという、極めて曖昧なものだった。だが、これはあくまでも湖に投じる小さな石のひとかけらだ。重要なのは、まずは投じること。そして続けることだ。
チヒロは、コピーですけどと断り、ネリにレポートの束を渡した。
「シンバシ博士に相談したら、もう少しデータがあったほうがいいということだったので」
「あるけど……あの状態だよ?」
生命の危機に瀕していた実験体の様子を思い起こし、チヒロもやや苦笑した。
「参考にはなるかもしれません。いただけますか?」
「じゃ、ちょっとチップに移して来るよ」
ネリが席を立つ。カップから漂う香気を嗅ぎながら、サリュウが尋ねた。
「おまえの研究はどういうものなんだ?」
「簡単に言ってしまうと、いろんな植物を簡易サイコスキャナーにかけて測定するって感じですね。そこから発展して、今は椰子類の成長速度に念波がどう関係しているかってことを調べているんですけど」
「植物の念波か……タコ足のおまえくらいだな、そんなことを考えつくのは」
からかわれるように言われ、チヒロは頬を膨らませたが、声を潜めて言い出す。
「植物の思念て、ほんと微弱で、呼びかけても応えてくれるわけじゃないんですよ。ずっと独り言を言っているみたいだったり、突然話しかけてきたり。昔は風の音かとも思ってました。妖精とか。そういうの、感じなかったですか?」
「三風で育てられていた公園の植物や観葉植物で、そういった感覚をもったことはないな。が――ここはちょっと違うみたいだ」
「違う?」
「なんだか賑やかだったぞ。人ほどうるさくはないが、ミニチュアサイズのおしゃべり年増が数百くらいいるような感じだ」
「はは。熱帯域の植物は、なんだか陽気でおしゃべりな気がします。亜熱帯はのんびりしていて、温帯はおとなしめでちょっとミステリアスです」
「ラギが聞いたら喜びそうな話だな」
稀人の力の研究に熱意を燃やす幹部生の名に、チヒロも頷いた。
「そうですね。興味持ってもらえるかもしれないです」
「今度データを見せて相談してみるといい。解析にも慣れているし、まとめ方もうまい。いいアドバイスをくれるはずだ」
「はい、そうしてみます」
サリュウは、部下たち一人一人に対する評価がきちんとしている。上司だから当然なのだろうが、長所と短所の見極めが上手いのだ。第三者が聞いても正当な評価であり、単なる私見でないところが頼もしい。
――そうだ。隊長にあのこと、確かめてみよう。
ネリが口にした〝事実〟について聞いてみようとして、チヒロは止まった。隣の男もまた、なにか言おうと口を開きかけていたのだ。思わぬ近さで、瞳が合う。
「チヒロおまえ――」
そのとき、奥の部屋からネリが戻ってきた。指先に、爪楊枝サイズのメモリチップを持っている。
「お待たせ。はい、よろしくね」
「ありがとうございます、ネリさん」
「気にしないで。役に立たないかもしれないし」
チップをまだ持ったたまま、ネリがその先を掴んだチヒロの手に空いた手を被せる。
「データを見てなにか分かったら、僕にも教えてくれるかな?」
「え、ええ。それはもちろん」
「じゃ、通信番号教えてくれる?」
「はい」
チヒロは戸惑いつつも、ネリの手からチップを取ると同時に手を外し、ソファに置いてあったトートバックからメモとペンを出した。一枚を破り、番号を書いてネリに差し出す。
「どうぞ。結構取れないことが多いですけど」
「いいよ。チヒロちゃんが番号を教えてくれるってことが重要なんだからさ」
にこにこと言い、ネリが細い目でメモを眺める。
「でも嬉しいなあ。チヒロちゃんが、まだ前みたいにメモとペン持っててくれてさ」
「癖なんです」
「うん。でも女の子って、変わっちゃうことが多いからさ」
「そうですか?」
きょとんとするチヒロに、ネリは長身を屈め、長い指の手をその黒髪に滑らせた。
「今日会ったときも、すごくきれいになってて驚いた。今からどんどん、きれいになるんだろうね。僕はおじさんになるばっかりなのに」
「ネリさんはおじさんって感じがしませんよ?」
「ありがとう」
ちらり、とネリの視線が、ソファに座っている男に走る。
なんだろうとチヒロは思い、別のことに気がついた。
「そういえば、今何時ですか?」
「四時三十二分」
腕時計を見て、サリュウが教える。
「うわ、時間取らせてすみませんでした、ネリさん。た……ウスズミさんも、せっかくのお休みなのに」
「いや。久しぶりに静かな場所で旨いコーヒーが飲めたよ」
その言葉にチヒロの顔が、電球でも点いたように一気に明るくなる。
「あ、美味しかったですか? 前にここで収穫したコーヒーの豆がまだ残っていたので、挽いてみたんです。やっぱり合成物とは味が違いますよね」
「チヒロちゃん、あれ持って帰ってなかったんだ。良かったら、持っていけば? 僕はコーヒー飲まないし」
「え、いいんですか? じゃあ、遠慮なく頂いていきますね。いいお土産になります!」
ネリの勧めに、チヒロは満面の笑顔で台所へ駆けていく。
元同僚の男はくすりと笑って見送り、椅子に座ると、冷めたミルクティーを少し口にした。
「ねえ……ウスズミさん。あなたは、彼女の先輩、ということでいいんですよね?」
「ええ、勿論」
「では、あなたも稀人なら分かるでしょう? その、僕が彼女とどうなりたいか……。ちょっと気を遣って協力してもらえないものですかね。僕たちがうまくいくように」
「彼女に興味があると?」
「確かに僕は既婚者ですけど、別に彼女に結婚を申し込もうというんじゃない。ちょっと楽しみたいだけです。あなたも女性におもてになるでしょうから、分かるでしょう? 男は、一人の相手じゃ満足できない生き物なんですよ」
「彼女も稀人です。そういう態度で接する相手に心を許すとは思えませんが?」
「稀人といっても、そう力があるわけではないのでしょう? 今まで分からなかったくらいなんですから。僕が何を考えていようと、分かるはずないですよ」
毒のない笑顔で言って、ネリは肩を竦める。
サリュウは、胃に納めた香り高いコーヒーが急に鉛にでもなったように重く感じた。
――こいつは……なにも分かっていない。
温室に入る前から、サリュウは二人の会話を聞いていた。
ネリがチヒロに好意じみたことを囁き、惑わすようなことを口にしても、それは二人の付き合いから生まれた言葉で、自分が口を出すことではないと思ったので黙っていた。
稀人であることを隠して働いていたチヒロを、疎むことも蔑むこともなかったネリの態度に、かえって安堵したくらいだ。
だが、違った。彼は、チヒロが稀人であるという事実を受け入れたわけではない。稀人のなんたるかを全く理解していないのだ。その力すら。
――念波の研究とやらも、これでは知れているな。
握手のときに読めた記憶から、研究の大部分をチヒロがおこなっていたことは分かっている。それ以前に、この植物園も大学もすべて親や親類の縁故で上がってきた彼は、研究者としてふさわしい知識や技能を何一つ備えていなかった。
チヒロへの好意も、初心そうな少女を篭絡し、出来上がった研究の成果を掠め取るための理由付けに過ぎない。
それでも、分かっていてもチヒロなら、そんな彼を許してしまうのだろう。甘さゆえに。
――どうしてこう、あいつは厄介ごとばかり……。
サリュウは、怒鳴りつけたくなる気持ちをぐっとこらえて、陰で拳を作った。
「チヒロは……あなたの思っているような子ではありませんよ。力もずば抜けて強い」
「え……」
「あの八部隊長が認めた子です。一般人の方には理解しにくいでしょうが、強いものほど隠す力にも長けているものですよ。トキオ・ネリさん」
にっこりと笑みを向け、サリュウは荷物を手に立ち上がる。
教えたはずのないフルネームを呼ばれ、蒼ざめるネリに低く言い添えた。
「――君が何を吹き込んだかは分かっているが、彼女を三風から出す気はない。君のような者の傍に置く方がよほど危険だ。君もそろそろ他人に頼らずに、金で買った博士号を実績で補ってみてはどうだ」
がらりと口調の変わる低声に、ネリの細い目が見開かれ、薄い唇が震えた。
「あ……あなた……」
「私は、ただの稀人だ。ごくたまに――最強と呼ばれる程度のね」