(5)
拾-(5)
さすがに十二時間以上食事を採っておらず、さらに術後である自分の肉体を考慮して、サリュウは消化に良さそうなオートミールを取りかけ、何も胃腸が悪くなったわけではないと、改めての鶏肉のオレンジ煮を選び直した。
それにマッシュポテトとクラムチャウダー・リゾットを添え、自分を鼓舞するように息を吐いて、食堂のテーブルに向かう。昼過ぎのまだ混んでいる時間にも関わらず、みな異様な雰囲気を察しているのか、その一画だけがぽっかりと空いていた。
六人掛けの大きなテーブルを一人占拠して、何人たりとも近づけぬ空気を醸し出しているのは、身長百五十センチ足らずのおかっぱ眼鏡の八部訓練生である。
目の前にフレンチのフルコースもかくや――というにはいささか大衆的な、ハンバーグやエビフライ、シーザーサラダなどをずらりと広げ、チヒロは小さな口をめいっぱい開けて黙々と食べ物を詰め込んでいく。
どこか鬼気迫るその様相に、からかい慣れたライオン頭の二等宙佐も、横並びのテーブルの反対側から奇妙な視線を送るばかりだ。
チヒロの斜め前にあたるその隣にトレイを置き、サリュウは椅子に座った。
いつもの制服姿ではなく、ハイネックの白のセーターにカーキのチノパン、前髪を下ろした男の姿に同僚の眉が片方上がる。
「珍しいな、私服なんざ」
「連日勤務で帰ったら制服がなかった」
たいして面白くなさそうに言い、サリュウはリゾットをスプーンでかき混ぜた。その目の先には、まるで敵のように手羽元にかぶりつく訓練生がいる。
隣でナゲットの塔を崩していた男が、片手を口元に立て、こっそり尋ねた。
「なんなんだ、あれ?」
「やけ食い……なんだろうな、おそらく」
「なに怒ってんだ?」
その問いにサリュウが答えるより早く、ぎらりと極寒の視線がテーブルの向こうから突きつけられる。
カイデンは目を丸くして、口に含んだナゲットの欠片をごっくんと呑み込んだ。
「……扱いにくい怒り方だな」
「だろう? だから困っている」
嘆息と共に告げられた台詞に、今度は反論が返った。
「別に怒ってるわけじゃないです」
「じゃあ、なんで目を合わせない」
「ご飯を食べるのに精一杯だからです」
「その食事の量はおかしいだろう。食べ切れるのか?」
「食べれます。誰かさんのせいで昨日の深夜からずっと働いて、ほとんどご飯食べてなかったから、ものすっごくお腹減ってるんですっ!」
最後の一言に力を込めて言い放ち、チヒロはむしゃむしゃとレタスを口に放り入れた。鮮魚を中心とした前菜の盛り合わせに、サラダが大皿でニ種類、メインディッシュとなる料理が三皿。食堂の全種類を集めたようなパンの山にコーンスープ、ヨーグルト、ゼリー、シフォンケーキまで揃った卓上は、通常のチヒロの食べる量からすると軽く四、五食分くらいに相当する。
自分に付き添うために食事を摂れなかったのは事実なので、サリュウは言い返すことができない。できない代わりに、ついため息が洩れる。
「なんで隊長がため息なんですか」
もぐもぐと頬を動かしつつ、チヒロが睨む。
「いや別に」
「ため息をつきたいのは、こっちです。夜中もずっと起きて、ずっと心配してたのに、もうすっごいすっごい損した気分ですよ! わたしの心配した時間、返してください!」
そこでぴんときたのは、付き合いの長い男である。鋭く隣に問う。
「何があった、おまえ」
「まあ、ちょっとな」
「おまえの行ってた二羽市警で回収した爆弾が誤爆したって聞いたが、おまえ、そこでなにかやらかしたんだな?」
「今はここにいるし、何も問題ない」
それで話を終わらそうとする幼馴染に、カイデンの顔が険しさを増す。色の薄い瞳が、黄金に輝いた。
「おまえ……」
「心配するだけ無駄ですよー、カイ宙佐」
明るく、それでいて毒のある声で訓練生が遮る。ハンバーグの付け合せのマッシュポテトをフォークで突き刺しながら、低く、独り言のように喋った。
「この、ろくでもない、隊長は、一人で勝手に、暴走して、ぶっ倒れて、そのくせ帰るって、我が儘言って、帰ってきたら、元気に、女性と、楽しんで、いたんです! そんな、人を、心配、するのは、ほんっっとおおおーに、時間の、無駄、です!!」
言葉の一区切りごとにマッシュポテトが恨みの一撃を浴びせられ、見るも無残なそぼろ状に落ちぶれていく。
カイデンは黄金の目をぱちくりさせて、隣で固まる男を窺った。
「……誰と楽しんでたって?」
「そこを聞き直すか?」
「重要なとこだろ。まさか看護師口説いてたとかじゃ――」
妙なところで鋭い発言に、サリュウはクラムチャウダーを噴きかけた。
「え、まじか?」
「……看護師じゃない」
「じゃ、じょ――」
女医、と言おうとした男の口を、がっしと片手で塞ぐ。
「黙れ」
「ぶあじで?」
塞がれた手の下で、もごもごとカイデンが驚く。目だけでサリュウを見、チヒロを見て、自分の考えに間違いがないことを悟ると、にんまりと細めた。
ばし、と大きな手で、自分を掴む男の両肩を叩く。勢いで、口の蓋が外れた。
「分かる! そりゃ男の浪漫だよなぁ」
「言っておくが、最後まではしてないぞ」
もはや男の口を閉ざすのは無理と判断したのか、サリュウは諦め顔で、だが大事なことを念押しした。
「なんだよ、もったいない」
「できるか。さすがに病みあがりだ」
「……でも、〝途中までは〟できちゃうんですね」
氷柱で一突きにするような一言に、サリュウがまたもぐっと詰まった。
カイデンがテーブルの上でついた手を組み、意味深な笑いを訓練生にくれる。
「チヒロ、おまえも分かってやれよ。こいつも男なんだぜ? ずっと女っ気なしで、さすがに溜まって――」
最後まで言わさず、その口の中にナゲットが塊で押し込まれる。
「黙れ、馬鹿」
「ふあけどふぁ……やっぱ、病室で看護師とやるって、男だったら夢だって。な?」
「やるとかここで言うな」
カイデンは押し込まれたナゲットを律儀に飲み下し、さらに次を口に放り入れた。
「だけど、女医って誰だ?」
「……」
「おい、まさか」
「おまえは勘がいいのか悪いのか分からん奴だな」
またも口を塞ぐように差し出されたナゲットを手で奪い取り、それを噛み千切って、カイデンは逆立てた頭を寄せた。やや口調を落とす。
「おまえ、あの女だけはマジでやめとけって」
「なぜだ?」
「ブルうくらいイイ女なのは認める。だけど、あいつはおまえを本気の相手にしねえぞ?」
「お互い様だよ。昔からそうだし」
「いつだよ」
「……十七? 十六かな。もう忘れた」
軍学校時代の後半、共に想い続けてきた相手にカイデンが告白したことで、三人の均衡は崩れた。ほどなくダイナンはカイデンと付き合いはじめ、恋した相手と親友を同時に失う形となったサリュウは、寂しさを埋めるように年上のユノと関係を持った。それが始まりだ。
二人の関係に確約の言葉はなく、それでもセックス・フレンドというには何でもない時間すら共に過ごせるような気楽な相手。
だがそれが自分勝手な想いだったというのは、今日去り際の彼女の態度を見ても分かることだ。
『本当に女心が分からない人ね』
誰よりも人の心が視えているはずなのに、いや視えるからこそ、都合の悪いことは見ないふりをする癖がついていた。心は読めても、彼女ら自身を理解しようとはしなかった。そのことが、女心が分からないと言われてしまう要因なのだろう。
――女は難しい生き物だな。
その難しい生き物であるものがもう一人、目の前で頬を膨らませながら皿をつついている。もともと少食な少女は、全体の六分の一ほどを食べただけで満腹してしまっているようだ。
サリュウは手を伸ばし、山と積まれたパン皿からバターロールをひとつとって齧った。
「なんでとるんですか」
「食べたいから取っただけだ。金ならあとで払ってやる」
「その台詞ブルジョワっぽいです」
「金に不自由したことがないのは事実だな」
言いつつ、サリュウはパンを指でちぎり、オレンジソースにくぐらせて口へと運ぶ。何気ない仕草でもどことなく品が漂うのは、厳しくしつけられて育てられたからだろう。
彼の素性を改めて思い返し、チヒロは言葉の棘を呑み込んだ。
それにどういう理由にせよ、一度は心臓が停止し、つい数時間前には手術を受けた男なのである。いくら腹が立っても、今、気を遣わせていい相手ではない。
それでも、謝る言葉はどうしても喉につかえて出てこない。チヒロは黙って、スライスしたキュウリを口に押し込んだ。
時折パンを挟みながら、手際良く鶏の腿肉を片付ける男が、ぼそりと言い出す。
「おまえに心配をかけたのは事実だ。それは謝るし、礼を言う。だが、それとおまえが臍を曲げている内容は別だろう?」
こくり、とおかっぱ頭が頷く。
「じゃあ、どうすれば機嫌が直る?」
テーブルの向こうから責めるわけでもなく率直に聞かれ、チヒロは押し黙った。さんざん怒りを撒き散らしたせいで、もうだいぶ勢いが削がれたし、空腹が満たされて怒りを持続させる余力もない。
しばらく考えて手を伸ばし、半分以上残ったシーザーサラダを前に押しやった。
「これ、食べてください」
名うての野菜嫌いを自認する男は、濃い眉の間に深々と縦皺を刻む。
「……なぜサラダなんだ」
「健康にいいからです。ビタミンも食物繊維もたっぷりですよ」
「言っておくが、船内の食品にはもれなくビタミンと食物繊維が添加されている。野菜と肉の差など、食感と見た目の違いだけだ」
「いくら有機合成の産物でも元の組成自体が違うのに、少々の添加物で不足が補えるはずないでしょう。なにちょっと頭の回る子どもみたいな言い訳してるんですか」
まだ完全に機嫌が直らないのか、チヒロの反撃は容赦ない。
だが、野菜責めから逃れようと、サリュウも必死で抵抗を試みた。
「嫌いなものを無理矢理食べても意味ないだろう。ギブアンドテイクだ。おまえが野菜を食べ、俺が肉を貰う。問題ないだろう」
「だめです。こっちは食べきれなかったら持って帰って、夕飯にマナクと食べるんです。調理師のハルさんの了解済みです」
名前が聞こえたのか、ビュッフェカウンターの向こうで、背の高い若者が笑顔で手を振る。カイデンのハンバーガーで世話になった相手であり、無論のことサリュウも顔馴染みだ。
当然、食事の嗜好など周知済みである。
――あの調理師兄弟め……企んだな。
内心で舌打ちし、サリュウは指摘する。
「じゃあ、サラダも持って帰れ」
「生野菜は傷むので、夕方まで持たせるのはもったいないです。ビタミンも減りますし」
決めていたような口調でチヒロはさらりと言う。
「全部食べてくださいね? あ、それ食べ終わったら、デザート食べてもいいですから」
どうも上から目線の訓練生の言い方に、それでも反論できず、サリュウはしぶしぶサラダの皿を引き寄せた。明らかに、三~四人前の量である。チヒロの食べたのなど、半人前もいいところだ。
眉間に皺を寄せたまま、サリュウはサラダの山にフォークを突きたてた。もはや味は関係ないのか、ドレッシングをかき混ぜることなく、黙々と端から食べていく。
隊長と訓練生という関係が逆転したようなその様子を、ナゲットを食べる手を止め、カイデンが奇妙な顔で見ている。
その前に、どすんと海藻サラダが置かれた。横も見ずに、皿を置き去りにした男が告げる。
「おまえも食え」
「なんで俺が」
「ついでだ。手伝え」
えーもう俺海藻キライだしーゴムみたいだしーとだだをこねる巨漢に、チヒロが自分の前の皿からサーモンの刺身をとって乗せてやる。
「一緒に食べると美味しいですよ?」
「……サーモンだけがいい」
薄切りの玉ねぎと大根と海藻をサーモンでくるりと巻いて口に入れながら、カイデンが文句を言う。それでも手は止まらずに、巻いては食べ、食べては巻き、としているので、不味いわけではないらしい。
どちらかというと脂っこいものを食べ続けるとさっぱりしたものが欲しくなるチヒロは、鬱々とサラダを片付ける二人の男たちをテーブルのこちら側から興味深く観察した。
カイデンの手が止まる。察してチヒロは、前菜の残りの魚介類を全部サラダの上に盛った。なぜかその隣からも訴える視線を感じ、仕方なくサリュウの皿にはエビフライを二尾乗せる。
――なんだか餌付けしてるみたいだなあ。
またもサラダとの格闘を再開する男たちは、どことなく一生懸命だ。チヒロはくすりと笑いを洩らした。
「……笑っていないで、おまえも食べろ」
「はいはい」
「なぜおまえが余裕の顔をしているんだ」
「ふぉうば。ふぉまへもぉふぁべほ!」
そうだ、おまえも食べろと言いたいのか、サラダでいっぱいの口でカイデンが唾を飛ばした。
「おまえはまともに食べろ」
「ぶあんだぼ?」
「汚い!」
サリュウが怒り、チヒロが笑い、カイデンが文句を言い、またサリュウが怒る。共に皿をつつきながらそうやって食事をとる光景は、妹と二人で長くを過ごしてきたチヒロにとって、あるようでなかったものだった。
大人のようで子どもじみた二人の宙佐とテーブルを囲みながら、チヒロはふと思った。
――たまには機嫌を悪くしてみるのもいいかもしれないな。
口には出せない考えは、唇の端に微笑となって宿り、やがて吹っ切れたような笑顔となってその場に小さく咲きほころんだ。