もしもアルシュント大陸にバレンタインチョコがあったなら
Ifものです。
夕食の準備を終えて長椅子でうたたねをしていたミスリア・ノイラートは、たくさんのものが転がり落ちたようなけたたましい物音に起こされた。
のっそりと上体を起こして、目をこする。居間に入ってきた大きな人影に視線を向けた。
「おかえりなさい。早かったですね、って――わっ!?」
床に積み上げられた大小さまざまな紙箱を目にして、思わず声を上げる。
両腕の荷を下ろしたばかりの男はかなりの長身だが、箱の山はそんな彼の腰辺りまでの高さがあった。ミスリアの小柄な体格であれば飛び込めそうである。
「その贈り物の山はもしやチョコレート? 職場の皆さんからですか」
「ああ。断る間もなく押し付けられた」
この家のもうひとりの住人、ゲズゥ・スディルは無表情に「ただいま」と呟いてから、実に嫌そうな表情で答えた。
「そ、そうですか。貴方は甘いものが食べられないのに、大変ですね」
「……他人事か」
暗に手伝ってくれと言われているのだと気付き、ミスリアは苦笑した。
「私もそんなには食べられませんよ。あ、ちょうど今日リーデンさんがこっちに寄る予定でしたね。お裾分けを――」
「アレに処理を頼んでも無駄だ。おそらく奴は奴で、倍の量を持ってくるだろう」
確かに、とまた苦笑せざるをえない。
ゲズゥの母親違いの弟であるリーデン・ユラスは、その類稀なる美貌を日頃から周囲に見せびらかして生きている。ゆえにこういった祭事では面白いくらいに注目の的になる。性別年齢の限りはなく、我先にと贈り物をしたがる人間は後を絶たない。
「何か別の使い道が無いのか」
「チョコのですか。たとえばどんな?」
ケーキの材料に転用するのかと思えば、ゲズゥの返答はもっと別の方向性のものだった。
「燃料、肥料……」
「どうでしょう、聞いたことがありません。どれも悲惨な結果になりそうな予感がしますね」
しばらく頭を抱えて考え込んだ。
やがて、この町に駐在中の友人のことが脳裏に浮かんだ。さすが、困った時に浮かぶのはあの爽やかな笑顔と決まっている。
「そうだ! 教会に持っていって、カイルに配ってもらいましょう。きっとみんな喜びますよ」
「それはいい」
ふっと口元を綻ばせ、ゲズゥが背を向けた。
「どちらへ?」
反射的に椅子から飛び上がった。立ち去ろうとする彼の袖を、右手で捕まえる。
「庭から台車を持ってくる。リーデンもそろそろ着くはずだ」
「なるほど。でも、その前に」――ミスリアは己の下唇に指を当ててみせた――「ちゃんとした『ただいま』がまだですよ」
「ああ」
左右非対称の瞳に理解の色が広がった。次いで、二人して慣れた動作で距離を縮める。
ちゅっ、との微かな摩擦音は、扉がノックされる音にかき消された。




