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穂花は男が苦手だ。
同級生には、穂花が男性と話している時だけ笑顔を絶やさないので『性悪女』だの『男たらし』だの好き勝手に呼ばれていたが、それらの言葉から連想される彼女の人物像と、実際の人物像は明らかにかけ離れている。
穂花は小学三年生の時に、帰宅途中、それまで面識のない男に強かんされたことがある。
レイプされてから数カ月は、穂花は身も心もぼろぼろに傷ついていたが、周囲には彼女の気持を理解できる者はいなかった。ただ一人、弟の直樹を除いて。
レイプされた娘に、父親は面と向かってこう言った。
『お前が一人で出歩いているからこんなことになったんだ』
父親の言葉は、男が怖くて外出できなくなっていた穂花を更に傷つけたが、母親に浴びせられた批難と比べれば、彼女にとっては子守唄程度のものだった。
『レイプされたから何?そんなこと誰もが経験することでしょう?お母さんはね、穂花よりもずっと嫌なことがあったけど、ちゃんと乗り越えてきたよ』
母親なら解ってくれる。そんな一縷の望みを抱いて、辛い胸中を語った穂花が手に入れたのは絶望のみ。
穂花とて、好き好んで男に犯された訳ではない。
話すことにより、理解してもらうことにより、楽になりたかった。苦しみから解放されたかった。ただ、それだけのことが、穂花の周囲の人間には解らず、揃って彼女を『弱虫』、『怠け者』と罵った。しかし……。『お姉ちゃん、痛くないの?』六歳下の弟だけは穂花の支えと成り続けた。
レイプされ、生きる意味を見出せなくなった穂花は、いつしかカッターナイフで手の平を切りつける癖がついていた。その特異な癖を持つ穂花にある日、直樹は不思議そうに彼女を眺めながらこう言った。
『お姉ちゃん、痛くないの?』
『うん、痛くないよ』
穂花はカッターナイフを弄びながら、さもつまらないといった顔で答えた。そのようにして答えれば、弟は場の空気を読み、部屋から出て行くと思ったのだが、穂花の予想に反してすぐには出て行こうとしなかった。
『どうして痛くないの?』
『さぁ、心が馬鹿になっているからかな』
『へぇ、心も馬鹿になるんだ』
『そうだよ。もう用事ないなら出てってくれる』
弟が四歳の少年であることも忘れて、穂花は冷たくあしらった。しかし、直樹は穂花の言葉を平然と受け止め、楽しそうな面持を浮かべた。
『でもさ、でもさ、僕達の体はロクジュッチョウ(六十兆)のサイボウ(細胞)でできてるんだよ。転んで怪我してサイボウを死なせてしまうのは仕方ないことだけど、自分でカッターを使って自分のサイボウを死なせるのはひどいんじゃないの?』
『……言っている意味がよく解らないんだけど』
『僕達はロクジュッチョウのサイボウが力を合わせてくれているから生きることができるんだよ。人はサイボウと支えあって生きているんだ。だからお姉ちゃんの体には、お姉ちゃんだけが生きている訳じゃないんだよ。人が苦しい時はサイボウも苦しんでいる。人とサイボウは苦しみを分けあって生きているんだ。それなのに、お姉ちゃんは痛みを感じないからって、手を傷つけて、血を出して、自分だけサイボウを苦しめて、死なせてる。サイボウのバランスをおかしくしてる。それってひどいことだと思うよ、僕は』
お姉ちゃんの体には、お姉ちゃんだけが生きている訳じゃない……。弟のあまりにも純粋な考えを聞き、穂花は数カ月ぶりに笑みを浮かべた。その笑みは、嬉しくて自然と顔に出た笑みだった。
弟の言葉は氷のようだった。しかし、両親のように寒くはなく、心地よい冷たさで、炎上していた穂花の身体を冷やしてくれた。
穂花は救われた気がした。
そして弟の存在が、男がみな性犯罪を犯す訳ではないと思えるきっかけとなった。
その日から穂花は夕方や夜以外の、陽が出ている時間帯に限り、友人と一緒なら外出できるようになった。
十六歳となった現在では一人でも夜でも、穂花は外出することができるが、レイプされた時に残った彼女の傷が完全に癒えた訳ではない。穂花をレイプした男は、彼女にしつこく何度も『笑え』と命令し、笑顔を作ることを強制した。そのため、穂花は苦手な異性と話をする時、笑顔を作る癖がついている。よく見れば、穂花が作る笑顔が引きつっていることは明白なのだが……。