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穂花の両親は共に朝早く働きに家を出て、夜遅くまで帰って来ないので、松下家では夕飯は各々用意することになっていた。しかし、十歳の直樹は生まれつき心臓が悪く、五分、十分歩いただけでもすぐに疲れてしまい、休憩をしないと死んでしまう脆弱な体だった。身体の負担を少しでも軽くするため、直樹だけは例外とされ、彼の夕食を作るのは専ら穂花の役目となっていた。
台所で、まな板の上に載せた長ネギを包丁で刻みながら、穂花はサングラスの男のことを考えていた。
大橋達にされた仕打ちがあまりにもショックで、帰り道、サングラスの男につけられているかどうか、気にする余力も残っていなかった。
今日もあの男は私の後ろ姿を見ていたのだろうか。そう考えただけで穂花はぞっとした。
男は私の後ろ姿を見ていたのかもしれない。もし、私を見ていたのなら、何を思いながら歩いていたのだろう。
「ほらほら!見てよ、お姉ちゃん」
唐突に後ろから直樹の声が聞こえてきて、穂花は現実世界に戻された。
「どうしたの?」
手にしていた包丁を置き、振り返った時には直樹は酷く落ち込んだ顔をしていた。
先程のはしゃいだ様な声と表情は一瞬で霧散したようだ。何があったのだろうと、じっと穂花が直樹を見つめると、彼は消え入りそうな声で『遅いよ』と言った。
「こっち見るの遅いよ。もう終わっちゃったじゃないか」
弟が不貞腐れた顔をして正面のテレビへと目を向けたので、穂花は彼がテレビを見て欲しかったことに気付いた。
ビデオデッキの上に堂々と鎮座したテレビに慌てて目を向ける。テレビ画面には日本地図が映っていて、地図の上にはまばらに三色の数字が表記されている。天気予報だ。直樹は天気予報を見て欲しかったようだ。
「ごめんごめん。何か大事なこと言ってた?」
「大事なことではないかもしれないけど……」
なら、わざわざ呼ばなくてもいいじゃないかと穂花は思ったが、大人気ないので口にはしない。
「けど、何?」
「……さっき、テレビで言ってたんだ。今日は雨が降らなかったって」
穂花の背筋が一瞬凍った。
「だから、今日のは雨じゃなくて汗だって」
「あんなに汗かく人なんて見たことないよ。それに、いつもと違う、厭な臭いがしたし……」
直樹は俯き、小さな右手の拳を左手で包み込んだ。
「それに……」
「考えすぎだよ」
これ以上疑われては困る。穂花は焦りを心の奥底に押し隠してから口を挿んだ。
「お姉ちゃんは汗っかきだから沢山汗が出るんだよ。さらに、お姉ちゃんの汗はとっても臭うから、変な臭いがしただけだよ」
「本当に?」
直樹は怯えたような、困ったような目で穂花を見た。
「本当だよ。お姉ちゃんは嘘吐かないよ」
「……へぇ。そういう人もいるんだ」
穂花が力強く頷いて見せると、従順な直樹は信じたようだ。
黙って静かにテレビを眺める弟を見て、穂花は思った。
純粋だ。あまりにも純粋だ。小学生の頃の千秋も、直樹の様に素直な子だったのだろうか。