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自宅の前に着いた頃には午後七時半を過ぎていた。玄関横に設置された電灯が、自己主張しているかのように眩しく輝いているので、家の中には誰かがいるようだ。穂花はできることなら薄汚れた制服を着た、自分の惨めな姿を家族に見られたくはなかった。が、贅沢は言っていられないようだ。
憂鬱な気持で玄関を開けると、廊下の奥の真っ暗な部屋から声がした。
「お姉ちゃん?」
穂花はなるべく音をたてないよう静かにゆっくり扉の鍵を閉め、黙って自室に向かおうとしたが、弟の直樹がのそのそ歩み寄って来るほうが一足早く、彼に外から差し込む脆弱な光が照らす、自身の醜悪な格好を見られてしまった。
「お姉ちゃん、遅かったね」
穂花の湿った髪をじっと見据えながら直樹は言った。
「うん。部活が長引いちゃってさ……。ごめんね。すぐに御飯の用意するから」
「ごはんは後で良いよ。そんなことより、雨でも降ったの?お姉ちゃん髪の毛が濡れてるから、先にお風呂に入ったほうが良いんじゃないの?」
「大丈夫。駅から走ってきて汗かいただけだから」
予め用意していた台詞を穂花は口にする。これだけで自分が学校でいじめを受けていることを隠し通せるとは思っていないが、直樹は特に穂花の言い訳に疑念を抱かなかったようだ。
「へぇ。だからお姉ちゃん、いつもよりひどい臭いがするんだね」
直樹はあどけない笑みを浮かべた。
「でも、お姉ちゃんが良くても僕は嫌だなぁ。食べ物にも臭いが移っちゃいそうだよ」
弟にそこまで言われたら、穂花は体を清めない訳にもいかなかった。
軽くシャワーを浴びて、シャンプーや石鹸でそそくさと体の汚れを洗い流すと、穂花は幼児向けのアニメに出て来るような、にっこり笑う可愛らしい熊の絵がプリントされたピンクのパジャマを着て浴室を出た。
「お姉ちゃんのにおい、やっぱりお風呂から出た後のほうが好きだよ。僕」
居間の片隅に置かれたソファの上で、膝に医学の本を載せた直樹に笑顔を向けられ、穂花は微笑み返す。穂花が大橋愛美達にモップで髪を洗われて帰ってくると、直樹は決まって『濡れ雑巾みたいな臭いがする』と言って、不思議そうな目を彼女に向けた。その時の直樹には、穂花は心底苛立ち、憎しみを覚えることもあるが、こうして純粋に褒められて悪い気はしない。
「うん。ありがとう。じゃあ、今から夕飯作るけど、ラーメンでも良い?」
穂花がしゃがみ、直樹と視線を合わせる。すると、直樹は笑顔で元気よく頷いた。
「うん。ラーメンが良い」