3
昼間まで太陽を遮っていた、どす黒い雨雲は夕方になると、まるで人々を嘲笑うかのように滴を落とすことなく、風に吹かれて遠い海の上へと流されていった。
どうせなら降らして行けば良かったのに。穂花は心の中で悪態をついた。悪態をついたところで現状は変わらないのだが。
電車内で異臭を漂わせ、湿った長い髪を垂らし、出入口付近で小さく俯いている穂花に、多くの目玉が向けられている。
彼女を見ている者たちは、みな一様に首を傾げていた。
今日は雨が降らなかった筈じゃないのか。
どうしてあの子の髪は濡れているのだろう。
考えたところで乗客達には答えは見つからない。見つからないことで、乗客達は人知れず悶々としていた。
穂花は異性と話をする時、笑顔を作る癖がある。その癖は彼女が綺麗な容姿の持ち主であることも相俟って、同じクラスの男子生徒には好印象だったが、女子生徒の受けは最悪で、トラブルの種にもなっていた。
この日も穂花は放課後、一部の同級生から陰湿ないじめを受けていた。
「ほのかぁ。今日暇だよねぇ?」
「う、うん」
穂花は家族や千秋にバスケットボール部に入っていると話していたが、それは嘘だった。下校するのが遅くなるのは部活が原因ではない。同級生に半ば無理矢理拘束され、長い時間暴力を振るわれているからすぐに帰れないだけだ。
その日、穂花は学校の授業が全て終わった後、同級生である大橋愛美とその取り巻きたちに屋上に呼び出された。
空が曇っているからなのか、屋上には穂花達以外は誰もいなかった。
今日は何をされるのだろうと、穂花は怯える気持ちを隠すこともできずに手足を震わせていると、大橋が言った。
「座れよ」
穂花は黙って従った。転落防止用のフェンスに背中が当たらないように慎重に座り、足を八の字に開いた。前に同じ命令をされた時に、足を開くように言われたことがあったので、言われる前にしたのが、穂花は大橋に革靴で軽く脛を踏まれた。
「そこまでしなくて良いんだよ」
大橋が苛々したようにそう言うと、待ってましたとばかりに彼女の取り巻きたちが穂花の手足を押さえつけた。
その後は大橋達による一方的な拷問だった。
大橋に手足の指先を何度も画鋲で刺され、穂花が意識を失いそうになったのは一度や二度のことではない。
大橋の命により、穂花の手足が自由になったのは、拷問が始まってから約一時間後の午後五時十五分。穂花はようやく苦痛と恐怖から解放されたと思ったが、何故か機嫌の悪い大橋達は屋上を出ると、階段を下りて、彼女を校舎の西側の四階の女子トイレへと連れ込んだ。
「奥の個室にあるモノを見てみろ」と、取り巻きの一人の、顔がニホンザルにそっくりの少女に言われ、穂花は指示された個室の中を覗いた。
真っ先に目に入ってきたのは筆箱だった。誰のモノかは考えるまでもなかった。が、穂花には自分の筆箱を便所から取りだす気にはなれなかった。
穂花の筆箱は、犬の糞尿が混ざった汚水の中で、生花の花のように堂々と屹立としていた。
穂花が黙って洋式便所を眺めていると、猿顔の少女が言った。
「早く取れよ。お前のだろ?」
仕方なく穂花は右手を筆箱に伸ばし、汚れていない上半分の端を掴み、よく汚水を垂らしてから持ち上げた。すると、猿顔の少女は笑いながら『もう帰って良い』と言った。
女子トイレの入り口の前に立っている大橋の顔をおずおずと見ると、彼女は黙って頷いたので、穂花は下を向いてトイレから出ようとした。しかし『おい、止まれ』すぐに大橋に呼び止められた。
「ちょっと後ろ向け」
何だろうと思いながら後ろを向いた穂花に、猿顔の少女が糞尿の付着したモップを彼女の顔に押し付けた。
穂花は一瞬目の前が真っ暗になった。と、同時にそれまで鈍磨していた嗅覚が、大橋達に悪乗りするかのように覚醒した。
耐え難い激臭に、思わず涙を流しながら穂花は洗い場に向かって突進した。が、途中で大橋に腕を掴まれ、水道まで辿り着くことはできなかった。
「何?顔を洗いたいの?」
『うん……』
穂花は口を動かさずに答えた。
「良いけど、ここで洗うのは駄目。下の階ならどこで洗っても良いよ。但し、女子トイレに入る前に誰かに見つかったら、罰ゲームだからね。わかった?」
『うん!』
「そっかぁ。解ってくれたかぁ。じゃあ、ちょっと待っててね」
大橋は穂花の腕を離し、女子トイレの出入口を軽くノックした。
「トイレから出てすぐに誰かがいたら、その時点でゲームは終わりでしょう?いくらなんでもそれじゃあアホノカがかわいそうだからね。今廊下に人がいないかだけ教えてあげる」
大橋が話し終えると、ちょうど外からノックする音がした。
「今は誰もいないって。良かったね、穂花。あんたの顔すごく汚いからよぉく洗ってくるんだよ?」
穂花はか細い声で『うん』と言って、ゆっくりと出入口のドアを開けた。
大橋の言った通り、廊下には邪魔者が来ないように見張りをしている彼女の取り巻きを除けば、人っ子一人いなかった。
どの階にも、校舎内の東側と西側にトイレは男女共に一つずつ設置されているが、今いる西側からわざわざ教室の横を通ってまでして、東側のトイレに行く気にはなれなかった。
穂花は瞳の上を右腕で押さえながら、物音ひとつ立てないよう慎重に、静かに階段を下りて、西側三階の女子トイレへと向かった。幸い、途中で誰かとすれ違うことはなかった上、トイレの中に先客はいなかった。が、ほっと息を吐くこともなく、すぐに穂花は洗い場で頭から水を被った。顔に付いている糞尿の臭いは、早くも慣れ始めていたとはいえ、顔中がべとべとしていて気持悪かった。
一通り汚物を流し終えると、穂花は個室に鍵をかけて一人、声を殺して泣き続けた。
悲しかった。惨めだった。どうして自分がこんな目に遭うのか解らなかった。
辛くても、悲しくても、涙が出なくなってから、穂花は個室の扉を開けた。