18
穂花の前に、例の男がいつもの格好で現れたのは、電車を降りて、改札口を抜けてからのことだった。
沸き立つ怒りを糧として、穂花はすぐにでもサングラスの男を捕まえたかった。しかし……。
『跡をつけているのかどうかも判らない、曖昧な状態の相手を捕まえても、言い逃れをされるだけだよ』
千秋の言葉に従い、わざと十分近く歩き続けた後、小学校の近くの人通りの多い歩道で、穂花は唐突に振り返り、後ろを歩く男の左腕を黒いコートの上から右手で握りしめた。男をあっさり捕まえることができたからなのか、不思議と怖くはなかった。むしろ、恐怖心よりも男に対する憎しみのほうが強かった。
こいつが原因で弟は苦しんでいる。こいつが原因で私は千秋と二度と会えなくなっていたかもしれない。こいつが原因で……。こいつが原因で!
俯き、怒りのあまり手を震わせる穂花を、黙って見下ろすサングラスの男。男は先程から無表情で、何を考えているのか穂花には読み取れない。
「間宮なの?」
穂花はゆっくりと顔を上げ、サングラスの男を睨みつける。
「私に何の用?」
「……」
男は何も答えない。
「何で黙ってるの?何か言ってよ!」
穂花は苛立ち、男が被っている黒い帽子を、震える左手で払いのけ、サングラスを奪い取り、真横の車道に向かって投げ捨てた。
とうとう顕になった男の顔は、予想していた間宮の醜い顔ではなく、穂花が見慣れた意中の少年の顔だった。
男の顔を恐る恐る目にした穂花は、怒りの形相を一瞬にして笑顔に変えた。
「もう、びっくりさせないでよ。面白くないよ、千秋」
穂花が右手で掴んでいた腕の力を緩めて笑みを浮かべると、男は寂しそうに穂花に笑って見せた。
「僕はそんなにあいつに似てるかな、穂花」
自分を名前で呼んだことと、男の声から穂花は今話している相手が遠山千秋であることを確信した。
「はぁ、びっくりした。それで、何?その格好。変態おやじの嗜好?」
「違うよ。この格好は僕が僕として生きていることを証明する道具だよ」
「また変なこと言って……。おやじに吹き込まれたの?」
「『おやじ』って何のこと?」
「仕事だよ。千秋の仕事」
「仕事?あぁ、売春ならとっくに辞めたよ。親にいつまでこんなことさせるんだって脅したら、あっさりもうしなくて良いって。勝手だよね」
千秋はつまらなさそうに答えたが、穂花はもう彼が他人に傷つけられることがないのだと知り、飛び跳ねてしまいたいくらい嬉しかった。
「そうだったんだ。良かった……」
「そんなことより、穂花、僕は間宮に似ているの?」
「え?」
一瞬どうして千秋が間宮のことを知っているのだろうと穂花は思ったが、彼もこの界隈に住んでいるのだから、名前くらいは聞いたことがあるのかもしれない。
誤解とはいえ、随分失礼なことを言ってしまった。穂花が慌てて大げさに否定してみせると、千秋は何故か全てを諦めたような表情で視線を落とし、白いガードレールの上に腰掛けた。
「残念だった?」
「え?何が?」
「君の言う『サングラスの男』が間宮ではなくて『僕』で、残念だった?」
「そんなことないよ。むしろ嬉しかったよ」
「ふぅん。何で?」
「それは、千秋だからだよ」
「ん?意味が解らないんだけど」
「だから、つけているのがサングラスの男でも間宮でもなく、千秋だったから、嬉しかったの」
穂花にしてみれば、恋文を渡したような気分だったが、千秋は不快そうな溜息を吐いた。
「穂花、まだ気付いてないの?僕がサングラスの男だよ」
「えぇ?……なんちゃって。驚くとでも思った?本当、千秋の冗談ってつまらないよね」
高鳴る動悸を必死に抑える為、穂花は空いたほうの手で握り拳を作り、くすくす笑った。
「冗談なんて言ってないよ」
「それが冗談だって、後から言うんでしょ?」
「穂花、君がここまで間抜けだとは思わなかったよ」
「間抜けって……。千秋は酷いことを言うんだね」
「穂花、もう忘れたの?僕は君に今日は仕事だって言ったんだよ?」
意図的に泣き顔を浮かべる穂花を無視して、千秋は言った。
「だから、今から前とは別の仕事場に向かってるんでしょ?それくらい解るよ。馬鹿にしすぎ」
「認めたくないんだね」
千秋の鋭い指摘に、穂花はどきりとした。
確かにそうかもしれない。とぼけてしまうのは千秋がストーカーだったことを認めたくないからなのかもしれない。
千秋を見ると、どうしてもサングラスの男と姿が重なって見えてしまう。今思えば、サングラスの男と千秋の背丈はほとんど変わりがなかった。もしかしたら本当に千秋がサングラスの男なのかもしれない。しかし、しかし、どうして千秋が私の跡をつけるのだろう。穂花の中には一つの疑問が生まれていた。
「そんなことないよ。だって、そもそも千秋が私の跡をつける理由なんてないでしょ?」
そのように言えば、穂花は千秋がいつものように『へへ』と笑って『ばれた?』とでも言ってくれると思った。が、穂花の予想に反して、千秋はただ黙って数回頷いただけだった。
「そ、そうだよね。千秋がストーカーになんかなる訳ないよね」
千秋の曖昧な頷きを、穂花は肯定しているのだと必死に自分に言い聞かせた。しかし、千秋は穂花の現実逃避を赦してはくれなかった。
「違うよ。僕は何も穂花の話に頷いた訳ではないよ。君にはちゃんと理由を話さないと納得してもらえないと解ったから頷いたんだ」
「理由って、何?」
「僕が小学生の頃に、下校途中、それまで面識のない男に犯されたことは知ってるよね?」
穂花は『うん』と言って頷く。
「うん。でも、僕が誰に犯されたかは知らないよね。僕を犯したのは、君がさっきまでサングラスの男の正体だと思っていた、間宮だよ」
間宮の名前が出た瞬間、穂花は雷に打たれたような、厭な心地がした。
「うそ……」
「え?」
「うそ……だよ。だって、だって、間宮は女の子を犯して捕まったんだよ。どうして千秋が?」
「それはもう解ってるんだろ?穂花が間宮に最低なことをされたのに、世間にはそのことが露見されていないように、僕も表立って騒がれることはなかったんだ。尤も、穂花は自分の意志で黙っていたみたいだけど、僕は間宮が赦せなかったから、同級生や家族だけでなく、警察にも間宮にされたことを正確に話したよ。結局、警察は僕が嘘を吐いていると言って、動いてくれなかったけど、少なくとも間宮が一人は男を犯したのは事実だよ。僕は何一つ嘘を吐いていないし、僕の記憶は偽りではないのだからね」
一瞬の沈黙。その僅かな間、千秋はつまらなさそうに中空を見つめる。
「ごめん。少し話が逸れたね。間宮に犯された時から、僕は日に日に性格が歪んでいった。そして、今では、穂花のスカート……」
「……スカート?」
「どうしてだか解らないけど、変装して、跡をつけながら穂花のスカートを見ていないと、苦しくて、死にたくなってしまうんだ。だから……」
「だから、私の跡をつけていたの?」
それだけの理由であれば、穂花は千秋を嫌いにならないと思った。お願い、頷いてと、願っていると、想いが伝わったのか、千秋は首を縦に振った。
よかった……。と、穂花が安堵するのも束の間、頷いた直後に千秋の口から出てきた言葉は、氷のように冷たく、静かで、研ぎ澄まされた刃物ように鋭く、尖っていた。
「仕方ないよ。僕達は狂っているんだ。狂っているからこそ親しくなれたんだ」
穂花は不謹慎だと思いながらも、声を出して笑ってしまった。穂花には、なんだかんだで千秋の冗談は愉快だと思えていた。しかし、なぜ今千秋を失ってしまうかもしれない緊張状態の中で、笑いが込み上げてくるのか解らなかった。
「はは、意味が解らないよ、千秋。ちゃんと説明してよ」
歪な笑みを浮かべて話す穂花を、千秋は不思議そうに一瞥し、視線をアスファルトの上に落とす。
「売春は、四年くらい前に辞めたよ。本当は、僕は穂花と会うまで、中学生の時からずっと、授業が終わったら何もすることがなかった。退屈だった。毎日毎日、湿ったベッドの上で横になって、一人空を見上げてた。子供の頃はよく、雲と会話したよ。僕には人間の友達が一人もいなかったからね、雲だけが僕の友達だった。でも、高校生にもなると、それも飽きてしまった。だから、もっと面白いことをしようと思って、僕は今年の四月に、気の合う仲間を探したんだ。そして、知り合ったのが穂花だよ。僕は初めから自分と似たような人と親しくなりたかったから、自己紹介で『セックスなんて大嫌いです』って言ったんだ。そんな風に言えば、僕と似たような人が、僕に近付いて来ると思ったから」
「でも、千秋は性を嫌悪していた。私とだって少しでも触れたら……」
穂花は右手で千秋の腕を握り締めていたことに気付き、慌てて放した。
「僕はセックスやセックスを連想させることが嫌いなだけで、変態なんだよ、穂花」
千秋は幼子を諭すような優しい声で穂花に言った。
「どうして、そんな嘘を吐くの?誰かに脅されてるの?」
現実を受け入れられない穂花の最後の悪あがきを無視して、千秋は黒い柵に囲まれた校舎に悲しそうな目を向けた。
「小学生の頃、僕のあだ名は『変態』だった。見知らぬ男に犯された、本来被害者である僕が、なぜかいつもみんなから変態と呼ばれていた。どうやら、僕が自ら望んで間宮に犯されたのだと周囲の人間は判断したらしい。僕は同級生や家族があまりにも馬鹿馬鹿しく見えたから、誤解を解く気にもなれなかった。でも、強がっているだけで、暴言を吐かれて、傷ついていない訳ではなかった。学校にいても、家にいても、変態と呼ばれ、僕はいつしか自分が本当に変態なんじゃないかって、思うようになった」
「誰が、何と言おうと、千秋は変態じゃないよ。私の大切な友達だよ」
「ありがとう。穂花はそう思ってくれていたんだ。でもね、自分は変態じゃないって、否定し続けるのには、気力が必要だった。いつの日か、幼い僕は否定するのに疲れてしまったんだ。それからは、周りが言うように、自分は変態だと思うようになった。初めは抵抗があったけど、すぐに気にならなくなった。肯定すると、途端に目に映る世界の色が変わった。例えるなら、僕はずっと黒く塗りつぶされたキャンバスの中にいた。けれど、肯定することによって、その真っ暗闇の世界が突然真っ白に変わったんだ。嬉しかったよ。世界を何色にするのも、全てが僕の自由になった。変態と認めることで、僕は安らぎを得た。いや、あれは『安らぎ』なんていう優しいものではなかった。恍惚感って言うのかな?とにかく、凄まじい快楽を僕は手に入れたんだ。小学生の時は、薬物中毒になる人間の気がしれなかった。でも、今なら何となく解るよ。それが錯覚だとしても、耐え難い苦しみから解放されることができるのであれば、あれほど気分が良くなるなら、誰にどんな目で見られたって構わない。いや、構わないと思っていた。例え、僕がストーカーであることが知られても、穂花に化け物を見るような目で見られても、僕は楽しいことを手放す気はなかった。だけど、もう辞めた。君の跡をつけるのも、君と話をするのも、今日で終わりだ」
「そんな。どうして?私だったら千秋につけらていても構わないよ」
「ありがとう、穂花。でも、前から決めてたんだ。正体がばれたら、君の元から離れるって」
「千秋、辛いなら、私のこと、頼って良いんだよ」
「ふふ。僕も君の心の闇を取り除いてあげたかった。信じてくれないだろうけど、本当にそう思ってたんだ。僕は、穂花のことが好きだったから。救ってあげたかったんだ。でも、仕方ないよ。僕たちは狂っているんだ。狂っている人間にできることは、同じように狂っている人間と親しくなることだけ。狂っている人間には狂っている人間を救うことはできない。救うことができるのは、正常な精神を持った医者だけだ」
確かに、これらが演技でなければ千秋は倒錯している。
もはや千秋がサングラスの男であることを、穂花は認めざるを得なかった。
「そんなことないよ」
ストーカーだった千秋が怖くない訳ではない。『狂った人間を助けることができるのは医者だけだ』という千秋の考えを、表面上だけでも否定するだけの話術を穂花は持っている訳ではない。しかし、これだけは言っておきたかった。
「一人にならないで、一緒に生きていこうよ」
一時的な自己満足で終わることも知らず、穂花は千秋の目を見て言葉を紡いだ。
穂花とて、悪気があった訳ではないのだが、彼女の紡いだ言葉は、毒となって千秋の心を傷つけ、内気になった彼との距離を更に広げてしまった。
「一人……か。そうだね。僕は一人なのかもしれない。自分が男なのか女のかも解らない間抜けな人間。それが、遠山千秋。でも、結局僕の体はどこからどう見ても男になっている。だから、僕は男なんだ。いつまでも否認してはいられない。いつかは向き合わないといけない訳だし……」
千秋は穂花に羨望の眼差しを向け、すぐに視線を逸らした。
穂花は自分にとって世界で一番大切な人を失うかもしれない状況にいたが、不思議と悲しくなかった。もっと言えば、ロボットのように、何も感じていなかった。脳が麻痺し、心が凍結したかのように、穂花の感情は一時的に死んでしまっていた。
「僕は元々、自分と同じような過去を持つ、同年代の同性の友達が欲しかったんだ。君みたいに、僕の周りには男に犯された同性の仲間なんていなかったから、初めは単純に君が羨ましかったよ。でも、いつの日か、僕は君に嫉妬するようになっていたんだ。僕と違って君は簡単に、その気になればいつでも間宮に犯された同性の仲間と親しくなれるんだからね」
「私達だって、仲間だよ」
穂花は小声でぽつりと呟いた。
聞こえたのか聞こえなかったのか、千秋は穂花の言葉を無視して、小さくため息を吐いた。
「はぁ。僕はまた疲れてきたよ。もう、帰るね」
穂花が投げ捨てた帽子とサングラスを拾うことなく、千秋は穂花に背を向け、前方の緩やかな傾斜を下って行った。
ふと、小さくなった千秋の後姿を見て、穂花は彼の着用している黒いコートが疎らに白く汚れていることに気付いた。その白い汚れを指差して、穂花の目の前でランドセルを背負った二人の少年が無邪気に笑っていた。
いつの間にか太陽は沈み、闇が空を浸蝕し、街灯の光が夜の訪れを知らせていた。
穂花は明日からどのように千秋と接していけばいいのか、悩み、考え巡らせながら帰路についた。