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歌結びのネセスティ





 ガタンゴトンと電車に揺られ、流れる外の風景をボーっと見る。

 四角く区切られた車窓からは眺める風景は空と山と川、それから家屋と田園。ローカル線のこの電車の座席はボックス仕様になっている。

 学校帰りのこの時間は乗客もまばらで、4人掛けのボックス席を占領できる。鞄を隣の席に投げ捨て、耳にイヤホンを付ける。

 飽きるほど聴いているプレイリストの一曲目を流す。

 自分の好きなアーティスト達の歌が何曲も流れ、あるアーティストの歌が聴こえてきた。生前に母さんがよく鼻歌を歌っていた歌だ。そんなことすっかり忘れていたが、テレビで昔の歌特集の歌番組を見ていた時に初めて曲名を知った。

 そして、歌詞も……

 それからすぐにCDを借りてきた。改めて全部の歌詞を聴くと、母さんの葬儀の時にも流れなかった涙が流れた。

 なんて綺麗で温かく優しい歌なんだと思った。それからは毎日この歌を聴いている。

 その曲を聴いていると、車窓に必ず一人の少女が現れる。いや、その歌を聴いていると

ではなく、俺がいつも同じ時間に電車に乗り、同じ順番で音楽を聴いているからそう思うだけか……

 彼女から見れば、いつも通りに彼女の生活をしているに過ぎないのだから。

 初めはただの風景だった。その次は人通りも少ない道なのに人がいるな、ぐらいだった。毎日そんなことが続いているのに気づいてからは彼女の横を電車が通り過ぎる僅かな時間で、ただ何となく見るようになった。

 少し離れているので彼女の顔がどんなものかはわからない。

 そんな習慣がしっかり日常になった今日この頃。そろそろいつもの彼女が車窓に……彼女だ。しかし、今日はいつもと様子が違う。

 こちら側に背を向けて蹲っている。

 どうしたのだろう……腹痛なのだろうか? そんな風に思考が巡る。その内に彼女の姿が見えなくなった。あの道は人通りも少ないし、もしも重い病気だったら、と思うと居ても立ってもいられなくなった。

 彼女の小さな背中が何故か母さんの姿と重なったからだ。

 隣の席に投げ捨ててた鞄を強引に掴むとドアの前へ走る。

「くそっ、次の駅はまだかよ……」

 田舎だから駅の間隔が遠いのはわかっているが、つい口から声が漏れる。

「ふぅ……」

 冷静になるために深呼吸をする。その時になってようやく母さんの好きだった歌が再び聴こえてきた。頭が冷えたところで、電車が駅のホームに入っていく。

 彼女が蹲っていたところまで全力で走ればそんなに時間はかからないはずだ。そう自分

に言い聞かせて電車のドアが開いた瞬間にスタートダッシュをする。

 駅員が目を見開いて俺を見ているが、今はそんなことを気にする余裕もない。定期を見せて改札を走り抜ける。

 駅舎を出て彼女のいる場所までの道程を頭の中で確認する。

「……よしっ」

 俺は全力で走る。もし彼女が気まぐれで、ただしゃがんでいただけならばそれで構わない。俺の考えが杞憂で終わるのならばそれが一番良い。

 だけど、もし万が一があったら……このセカイは何が起こるかわからないのはよく知っている。セカイは良いことも悪いことも一緒くたに送ってくる。

 だから―――          俺は後悔しないために走る。




 ■◇□◇□




 走ること十分というところか……

 喉は乾いているし胸の動悸も激しい。けど、ようやく視界に彼女が映った。まだ蹲ったままだが倒れてはいないことに一安心する。

 だが、俺が彼女を見てから十五分ぐらい経ってると思うけど……まだ蹲っているのは本当にどこか具合が悪いのか?

 俺が膝に手を当てながらそんなことを考えていると、彼女が立ち上がった。

「?」

 遠目でよくわからないがお腹を抱えている。腹痛かとも思ったがその様子も見られない。そのまま彼女は山の中へと消えていった。

 呼吸は大分回復してきた。とりあえずこのまま帰っても釈然としなさそうだから彼女の後を追うことにした。

 彼女が蹲っていたところまで歩いていくと道路に車が急ブレーキをした跡が残っていた。血痕も少量だが道路に付着している。俺はすぐ横の山に視線を向ける。

 そこには草木で目立たないがけもの道のようなものがあった。どうやら彼女はこの道を通って行ったみたいだ。

 俺もそのけもの道に足を踏み入れた。

 登山をするために造られた道ではないから歩きにくい。何故彼女はこの道を? とも思ったが歩いて少しすると大分歩きやすい道になった。入り口の方だけだったようだ。

 しばらく歩いても彼女の後ろ姿は見えず、道に迷ったのかと焦りが出てきた。しかし、俺が見る限り道は一本道だった。どこかで分かれ道を見逃したのだろうか……

 空が静かに夜の帳を下ろしているのに気付き、引き返そうかと真剣に考え始めた時、山の中の少し拓けたところに出た。大した距離は歩いてないが、全くの未知な場所を歩いてきたことに精神的な疲労を感じていたようだ。思わず安堵するが、肝心の彼女をまだ見つけていないと辺りを見回す。

 すると、そこには彼女の姿が―――

「……」

 ―――瞬間、目を、ココロを奪われた。

 彼女の周りの、空間/セカイが煌めいている。彼女の周りに形成される仄かな光の円舞曲/ワルツ。例えるなら、そうセカイが彼女を祝福しているかのようで……

 息を呑んだ。あまりの美しさに。まるで一枚の絵画のようで。

 時間にすれば一瞬だが、それは永遠に感じられた。

 やっとのことで我に返る。そこでこの場所が小さな川辺になっていって光が蛍の光だと気付いた。しかし、まだどこか非現実/ユメの中。

 自分の立っている場所がふわふわしているようだ。

 そこに至って頭を振り、歩みを進める。訪問者に気付いたのか彼女が視線をこちらに向けた。

 その目は驚きに満ちていたが、拒絶の意志は見られなかった。それに安堵して歩みを進

めていく。近づくにつれて彼女の顔が鮮明に見えてきて―――

 ―――時が、止まった/進んだ。

 黄昏時のセカイに、儚いまでに美しい彼女によって思考が止まり、自分の中の何かが動いた。

「あなたは……?」

 まだ距離があるのに透き通るような声。なにか返さなくてはと、思っても上手く言葉が出てこない。

「……」

「……こんにちは。どこかの誰かさん」

 彼女は返事を返さない俺を見ても不審がらずに挨拶をしてくれる。そこでようやくいつ

もの調子を戻せた。

「こんにちは。どこかの誰かさん」

 俺の言葉に彼女は微笑みを持って返してくれた。俺は一瞬、戸惑いながらも彼女の元へと足を運ぶ。近づくにつれて彼女の膝元の上にいるモノ……というか生き物に気付く。

 きつねだ。それも小さな子ぎつね。しかし、その子ぎつねはぐったりしている。

 俺の視線に気付いたのか、彼女の表情が曇る。

「この仔……どうも車に轢かれちゃったみたいなんです」

「……その子ぎつねはもう……?」 

「はい……永い眠りについたみたいです。まだ、これからたくさんの楽しいこと、辛いことがこの仔にはあったのに……」

 彼女はそう言って子ぎつねの毛並を撫でる。その姿は哀憐/慈愛に満ちていた。どうやら車窓から見えた彼女は、道路で轢かれた子ぎつねを抱えこんでいたようだ。

「……」

「ね……」

 彼女はもう走り回ることは叶わない子ぎつねを優しく地面に横たえさせた。




 □◆□◇□




 彼女が子ぎつねを撫でる姿はまるで聖母のようで、ただ立ち尽くすしかできなかった。ふと思い出したかのように彼女はこちらに視線を向ける。

「えっと……あなたはどうしてこんなところに?」

「え? えぇっと……」

「あ、別に問い詰めたいわけじゃないんです。ただ、ここは普通にしてたら来るような場所じゃないから不思議に思って……」

 何て言っていいかわからずに言いよどむ俺の姿を見て、彼女は手を軽く振り、ただ不思議そうな顔をして首を傾げた。そんな一つ一つのが動作に感情/ココロが揺り動かされる。

「実は―――」

 下手をしたらストーカー扱いされそう行動の果てにここへ来たことを伝える。嘘を吐いた方が、とも思ったが、彼女には嘘偽りなく誠実でありたいと思った。

「そうだったんですか……」

 彼女は特に嫌悪感も見せずに、ただ事実として俺の行動を受け入れてくれた。そのココロの在り方が嬉しかったけど、それに甘えるのも良くないと思った。だから……

「けど、謝らせてくれ。勝手に君の後を追いかけてきて……」

「いえ、他人のことを心配してくれた上での行動に謝罪の言葉はいらないと私はそう思います。むしろ……こんな私のことを心配してくれてありがとうございます」

 こんな私を見つけてくれて……

 消え入るような独り言。彼女の言葉は俺に向けたモノではなかったみたいだが、風の気紛れか、弱々しくも確かな言の葉となって届いてきた。

「……そっちに行っても良いかな?」

「えぇ、どうぞ」

 俺は彼女のすぐ傍まで歩み寄る。付かず離れずの位置で腰を下ろす。既に太陽は役目を終え、空を照らす役目を月にバトンタッチしている。

 改めて彼女の顔を正面から見て息を呑む。月明かりと夜空を舞うかのような蛍/星の光に照らされた彼女の顔。

 言葉にできない。想いを理解できない。どうして自分は見知らぬ少女にこんなにも―――          わからない。加速し続ける鼓動が、静まらない揺動が、わからない。

 向けられる穏やかな微笑み。

「……? どうかしましたか?」

「あぁ、ごめん。なんでもない、よ」

 首を傾げた時に揺れた長く滑らかな黒髪に、雪のように白い肌。俺の顔を覗き込むような二つの瞳は見る者を惹き込まずにいないだろう。

「そうですか……」

 彼女はそう言って視線を子ぎつねに移した。

「その子ぎつねは……」

「……あのまま道路にいても可哀そうだったから、どうせなら生まれた山で眠って欲しくて……それにこの仔は私の友達だったから」

「え? 友達……?」

「はい、友達です。いつもこの辺りで日向ぼっことかしてたんです。その内この仔を探してお母さんも来ると思いますよ」

 悲しげな表情で彼女は子ぎつねの頭に手を乗せる。しばらくして彼女の言葉通りに親ぎつねが茂みから顔を出した。親ぎつねは我が仔の様子がおかしいことに気付いたのか威嚇している。

「何か威嚇してるな……」

「知らないあなたがいるから警戒してるみたいですね……大丈夫! この人は悪い人じゃないから」

 前半の言葉は俺に、後半の言葉は親ぎつねに向けて彼女は声をかける。すると、親ぎつねは先ほどまでの警戒心など無かったかのように大人しくなり、静かに近づいてくる。

「ごめんね……私が見つけた時にはもう……」

 もう息をしていない我が仔の姿に、親ぎつねが悲しげな鳴き声を出して子ぎつねの顔を舐める。

「うん、悲しいね。昨日まではあんなに……はしゃいでたのにね」

 彼女はそう言いながら涙を流す。

「この子ぎつねにお墓作ってあげよう」


 静かになく彼女の姿を見て、子どもの死に悲しむ母親を見て、自然と言葉が出た。

「……はい。お母さんもそれでいいかな?」

 俺の言葉に彼女は頷く。そして、彼女は親ぎつねにも確認を取る。不思議なことに彼女の言葉を理解しているのか、親ぎつねは返事をするように頷いた。




 □◇■◇□




「……」

「……」

 俺と彼女の二人と親ぎつねで子ぎつねに黙祷を捧げる。

「ありがとう。あの仔にお墓を作ってくれて」

「いや、俺にはそのぐらいしかできないから……」

 黙祷を終えた彼女が静かにそう言う。けど、俺はその感謝の言葉を素直に受け取れなかった。

「いいえ、それで充分です。あの仔もきっと天国で喜んでくれてますよ」

「……そうだといいな」

 でも、彼女の言葉が本心からだとわかったら、自然とそう思えた。すっかりと暗くなっているが、俺たちセカイは月明かりと蛍たちの光で満ちている。

 母ぎつねは俺たちにお礼を言うかのように鳴くと、茂みの中へと姿を消して行った。

「うん、またね」

「……さっきから思ってたんだけど、君は動物と話せるの?」

 彼女の言動を見ていたらそう思った。現実にはあり得ないかもしれないが、彼女なら動物と話すことができるのでは、と思ったからだ。

「いいえ、話せませんよ。でも、そうだったら素敵ですね。そしたら、友達とたくさんお

話ができますから。私のはただ相手がそう思ってるんじゃないかっていうのに語りかけてるだけですから……」

「そう、だな……」

 彼女の言葉はどこかに陰があるように感じた。それはまるで―――

「だって、私にはあの仔たちしか友達がいませんから……」

―――あぁ、そんな寂しげな微笑みをしないでくれ……

「そんな顔しないでくれ……」

「え? そんな顔って?」

「今にも泣きそうな顔してるぞ」

「っ……」

 俺の指摘に彼女は左手を頬に当てる。さっきまで素手でお墓を作ってたから頬に土が付く。

「……そうだ。俺と友達になってくれないか?」

「え……?」

「どうかな?」

 俺は鞄からハンドタオルを取り出して、彼女に言葉と共に渡す。

「嬉しいです。こんな私と友達になってくれて……」

 彼女は笑顔を見せてハンドタオルを受け取ると、そのままボロボロと涙を流し始めた。

「あ……」

「大丈夫、です。これは嬉し涙、ですから……ぐすっ、でも、友達が“ひとり”いるってすごいですね」

「?」

「だってそれは―――」

 ハンドタオルに埋めていた顔を上げ、見せる/魅せる彼女の笑顔は綺麗だった。

「―――“ゼロ”じゃないんですから」

 彼女の声は歌うようで、とても耳に気持ち良かった。

「そうだな……はは、やっと笑ってくれた」

「ふふっ……ごめんなさい」

 彼女の口から出た謝罪の言葉。けど、それは穏やかなものだった。安堵した表情に、微かに揺れる長い睫毛。

 総てが満たされていくのを感じる。今まで生きてきた日々が、この瞬間だけは色褪せている。

「でも、びっくりしました。今まで誰も来たことなかったこの場所に人がやって来たから」

「うっ、それは……迷惑だった?」

 頭をふるふると振る彼女。それに伴って揺れる長く綺麗な黒髪が月の光に照らされる。

「いいえ、さっきも言いましたが……私はあなたの行為を責めたりはしませんよ。むしろ、私の心配をしてくれて嬉しかったです」

「いや、俺は……自分が後悔したくなかっただけなんだ」

「でも……」

 俺の言葉に彼女が食い付く。それを俺は、俺の言葉/想いで遮る。

「それに、君のお蔭でこんなにも綺麗な場所があるってわかったから……俺にもお礼を言わせてくれ。―――ありがとう」

「ここは、ね……私の一番のお気に入りの場所なんです」

 俺の言葉に彼女は嬉しそうに微笑む。

「そうか……だとしたら悪かったかな? 俺が足を踏み入れてしまって」

「いえ、いいんです。そんなこと気にしないでください……だってここは、この場所は―――」

 彼女は立ち上がり、川辺へと歩く。そして、長い髪を舞わせて振り返る。

「―――辿り着いた総ての人への、セカイからの祝福だって……そう私は思っていますから」

 その姿が、声が、ココロの在り方が、彼女の姿がたまらなく愛おしくなった。あぁ、そうか。俺は―――

「それなら……俺はこれからも、ここに来てもいいのかな?」

 ―――君に逢いに来ても良いかな? 君を好きになっても良いのかな? ―――

「―――それは、もちろんです。私はいつでもここであなたを待っていますから……」

 彼女のことが、彼女に逢うために今まで生きてきたんだと知った/感じた。

「普段は私、ここでぼーっとしているだけなんで、いつでも大歓迎です」

「……」

「……ずーっと長い間、本当にぼーっとしてるだけなんです。あ、でも……動物さんたち遊んだりもしてますよ」

「そうやって独りでいるのは好きです。ここでしか会えない友達も、感じられない空もセカイも……大好きです」


 でも……

 時々、ほんのたまにですけど、退屈な時があります。

 寂しい時があります。思うことがあります。

 私は本当にこの、セカイに参加しているのだろうかって……


 彼女の瞳は空しさを映して、月と星の輝きに満ちる優しい空を見上げる。自分の存在を確かめるように体を抱きしめて呟くココロの言葉/悲鳴。

 笑顔を強がる哀しみが、痛いまでにわかりすぎて、どこまでも儚くて。この瞬間にも消えてなくなりそうな彼女の存在をこのセカイに繋ぎ止めたくて、俺は彼女の手を握る/掴む。

「俺は…生きて、このセカイで…生きてて、君も生きてる。そして、俺もセカイに参加したくて……でも、参加する為には努力だって必要で、それをしたいって思ってる。だから、君も―――」

「―――はい、頑張ってみようと思います」

 俺の言葉は彼女によって遮られた。でも、それを不快に思うことはない。だって、それは彼女のホントウの言葉/想いだから。

「そっか……」

 俺の言葉はこれで充分だった。




 □◇□◆□




 俺が彼女の言葉/決意を聞いて安堵していると、不意に繋いでた手が彼女の両手に包まれる。

「ありがとうございます。私の言葉を聞いてくれて」

「え?」

「私は今まで言葉が、こんなにも……何の意味も持たず、力も無く、届かないまま死んでいくというのならば……もう二度とカタチになんかしたくないって、そう思ってたんです。でも、あなたは私に―――          もう一度、言葉の素晴らしさを教えてくれた」

「……」

「だから―――」

 不意に重なる視線。どこか希望に満ちた光を宿す瞳。その光は今まで彼女が負ってきたココロの傷が癒された証なのだろうか……

「―――ありがとうございます」

 今まで見た中で最高/最愛の笑顔。それが彼女の人生の中で一番のモノだと何故か確信できた。その笑顔が眩しくて、彼女の全部が欲しくて、抱きしめて、髪に触れたくなった。

 この胸に疼く総ての想いを伝えたいとココロが命じる。その果てに何が待ってるのか、

今の俺にはわからない。でも、後悔はしない。

 もうこの想いに歯止めなどかからない、かけられない。そんなもの、このセカイで彼女に逢った瞬間にもう壊れていたのだから。

「そして、どうか願わくば、私を……この優しくも残酷で、甘美な魅惑に満ちたこの永久(とわ)の虚無なセカイの呪縛から私を救い出して下さい」

 彼女の穏やかに紡がれるココロの叫び。今にも消えそうな小さな微笑み。けど、それは……偽り。擦り減って消えてしまいそうな平静/日常の残滓が見せるモノ。

 空っぽの切ない何かが、響く。

「……俺には何もできないよ。お伽噺の王子のようになんかね」

「そう……ですよね」

 端正な顔に広がっていく、微かな悲しみの色。彼女の瞳が絶望の闇に囚われていく。自虐的な微笑み。彼女のココロが黒く染まっていく。

 そんな姿を見て、ぎりっと奥歯を噛み締めた。そんな顔を君にさせたわけじゃないんだ。でも……目を逸らさないと決めたんだ。

 言葉に意味を持たせ、力を込めて、君に届けるためにカタチにすると……俺は言葉を戸惑わないことに。

「だって、俺は―――          君のことを知らない。名前も、いくつなのかも、どこに住んでいるかも、好きなことも……」

「あ……」

「……君をここに縛り付けている、過去も」

 俺の言葉に彼女の瞳が大きく見開かれた。揺れる瞳にはうっすらと光る宝石のような涙/雫。

「……」

「だから、救えない。差し伸べる手なんか偽りだから……慰めの言葉は嘘になるから、分かち合えない苦しみなんか悲しいから……」

「そう「ありがとう」

 彼女の言葉を奪い、告げるココロからの“ありがとう”という気持ち。彼女の顔に安堵の微笑みが浮かんだ。

「こんな俺を選ぼうとしてくれて」

「あっ……」

 繋いでいた手を引き寄せて彼女を抱きしめる。柔らかな彼女の温もり。耳元に響く、(かす)れた小鳥のような声。絹のような肌の感触。さらさらの黒髪。

 後悔はなかった。

「でも、それをするのはもう少し待ってくれ……こんなにも広いセカイの中で一つの中から一つを選ぶんじゃなくて、たくさんの中から俺を選んで欲しいんだ。だから―――」

 彼女の手が戸惑いながらも、ゆっくりと俺の背中に回るのを感じた。

「―――ゆっくりで良いから、どんなに時間がかかっても、一つ一つわかり合っていこう。このセカイの片隅で始まった出会いを大切に続けていこう」

 泣いている彼女も綺麗だと思ったけど、俺は君が笑っている顔を見たいから……

 でも、それは今この瞬間だけじゃなくて、ずっと隣で見ていたいから……

 彼女の瞳が俺を捉える。その瞳には、もう絶望の色は無い。

「……はい」

 彼女は柔らかく微笑んだ。

 今まで遠慮がちだった彼女の小さな手のひらに力が籠る。影が一つになる。鼻孔をくすぐる甘い匂いに、思考がくらくらする。

「そうすれば、きっと君の過去も、後悔も、吹っ切れるさ」

「……ありがとう、ございます」

 顔を上げる彼女の頬に零れる一条の涙。けど、狼狽えることはなかった。その涙に込められた本当の意味/気持ちを知っているから。

「お礼なんかいらないよ。俺は自分のために言ってるだけだからさ」

「自己中ですね」

 俺の言葉に彼女は可笑しそうに笑う。その笑顔が愛おしくて、冗談めかした照れ隠しをする。

「そうさ。もし、俺のことを選ぶんなら大変だぞ?」

「ふふ……そうかもしれませんね」

 はにかむような、悪戯めいた瞳。新しい彼女の一面を見られた気がする。

「けど、君も自己中でいいんだよ。周りのことなんか気にし過ぎるな。俺には我儘を言ってくれて構わないんだから」

「本当ですか?」

 甘えるような、試すような、彼女の問いかけに微笑みを持って返す。

「あぁ、女の子の我儘を聞くのは男の甲斐性だからな」

「なら、最初の我儘を聞いてもらってもいいですか?」

 彼女は背中に回していた手を外し、俺の胸を押して離れる。それを拒絶だとは思わなかった。だから、俺も一歩下がり彼女の我儘/願いを聞く姿勢になる。

「何なりと」

「お話しませんか? 眠くなるまで。お互いの明日が始まるまで時間はたっぷりあるから……」

 彼女の我儘はとても魅惑的で、俺はそれに抗う方法なんかないと思った。いや、むしろそれは俺が望んでいたモノ……

「もちろんだとも」

「ふふ、ありがとうございます。あ、自己紹介がまだでしたね。私の名前は水瀬優里。水の瀬の優しい里と書いて水瀬優里です」

「俺の名前は花咲夏海。花咲く夏の海って書くんだ。女みたいな名前だろ?」

「そうですね……でも、とても綺麗な名前だと思いますよ。夏海くん」

「……ありがとう。優里」

 月明かりと蛍の光が満ちるこのセカイに、二つの幸せに満ちた微笑みが舞う。

 俺と優里はお互い何を話すでもなく、静かに川のせせらぎに耳を傾ける。話したいことはたくさんあるけど、今はこの倖せに浸りたかったから。




 □◇□◇■




 ふと耳に流れるは母親の鼻歌―――いや、違う。

「優里?」

「あ、ごめんなさい……耳障りでしたか?」

「いや、その歌……」

「この歌……綺麗なメロディーに温かくて優しい歌詞で、私の一番のお気に入りの歌なんです。だから、機嫌が良い時とかよく歌っちゃうらしいんです」

 知ってる。母さんの好きだった歌なんだから……

「もし良ければ、続けてもらってもいいかな?」

 照れるように俯く彼女に歌の続きを頼む。

「え、はい……じゃあ、今度は歌いますね。是非、歌詞も聴いてみてください」

 幻想的なセカイに溢れる彼女の旋律に涙が出そうになる。まるで、セカイが今この瞬間を祝福してくれているようで、夢の中にいるみたいな非現実感/幸福感にココロが満たされる。

 俺の後悔を、彼女の歌/存在が癒してくれる気がした。いや、それは気のせいじゃなくて……




 だって、それは、優しい――――――




        ――――――“セカイの歌”





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