血色の大地 1986年 パキスタン
軍用のジープには、ミゲルも含めて、四人の男たちが乗り込んでいる。舗装されていない道は、容赦なく車を上下に揺らしたが、皆それには慣れていたので、文句を言う者はいない。文句どころか、さっきから誰一人、口を開かない。
基地から訓練施設を往復するだけの毎日だ。ミゲルは吸いさしのタバコを外へ放り投げると、立てかけた銃に手をかけた。幌のないジープに乗せられた銃は、直射の日光を存分に浴びて、熱を持っている。
外に広がるのは、見渡す限りの芥子畑だ。銃を持った兵士が何人か見張りに立っていて、ミゲルたちの車を見ると、よくわからない言葉で何かを叫んだ。多分、タリク人なんだろう。あいつらは息が臭いから嫌いだ。一面に咲いた芥子の赤い花が、眼前に咲き乱れる様は、まるで銃で撃たれた大地が、血を流しているように見える。
もう五年経つ。ミゲルはパキスタンの軍の管轄下に置かれた「特殊部隊」に配属され、訓練を受けていた。どうして軍の組織なのに、基地から離れた、こんな郊外で訓練をするのかはミゲルには分からなかったが、ラシールの言葉を借りれば、これは極秘の任務なのだから、そういうこともあり得るのだろうと、何となく考えていた。軍に志願し、ラシールからもらった書類を差し出すと、まるで初めから決まっていたかのように、入隊できた。以来、「その日のために」という合言葉の下で、訓練を受けてきたが、「その日」は何を意味するのかは、ミゲルには分からなかった。
分からないまま、五年が過ぎてしまった。ナディーはどうしているんだろう? 彼女は待つと言ってくれたけど、何の連絡もできないまま、もう五年も経った。手紙を書くことも禁止されていたし、あっちからの便りも、何もない。もっとも、ミゲルのいる場所すら彼女は知らないのだから、それも当然だ。
ミゲルは母国の状況を、噂でしか聞くことができなかった。ソ連軍は相変わらず駐留を続けていたが、長い期間の戦闘にも関わらず、アフガニスタンのゲリラを壊滅できない状況に、ソ連本国では、これ以上の駐留を疑問視する声も上がっているらしかった。しかし、すべては噂でしかない。ミゲルはまだ帰ることができない。ナディー。君に会いたい。それだけだ。
散々探し回ったが、ラフマンの行方は、とうとう分からなかった。入隊してすぐに、ミゲルはラフマンの行方を探した。軍にいたはずの彼は、ある日突然姿を消し、誰もその行方を知る者はいなかった。
ゴードンというアメリカ人の指導官が、一時期、一緒にスパーリングをしていたことがあると言っていたが、彼はそれ以上、何も話そうとしなかった。「お前もボクシングやるのか?」と聞かれたが、ミゲルは「ボクシングなんて知らない」と答えた。どうしてだろう? 何故かミゲルは嘘をついた。
この国に来れば、ラフマンとも再会し、もしかしたらボクシングがまたできるかもしれないと、ミゲルは初めは考えていた。しかし、今ではもうボクシングのことなんて、考えることもあまりない。ジープに乗った他の兵士たちと同じように、ミゲルは毎日ジハード(聖戦)のためにという言葉を叩き込まれ、それ以外のことを考えている暇もない。いや、そんなことはない。ナディー。君に会いたい。
ジープはもうすぐ訓練所に着く。着いたらまた、同じことの繰り返しだ。いつかも分からない戦いの為に、地獄のような訓練が毎日繰り返されるのだ。精神だっておかしくなる。この五年間で何人かの兵士が脱走を企て、全員が失敗し、銃殺刑にされた。見せしめのために公開されたその処刑を、ミゲルも見たことがある。異常に興奮した男たちが、縛り付けられた脱走兵に向かって、代わる代わるツバを吐いていた。最後に何か大声で脱走兵が叫んだが、さるぐつわをされていて、聞き取れなかった。あるいは、その男もタリク人だったのかもしれない。
銃声が響いて、撃たれた男は、うつ伏せに倒れた。溢れ出した血が、土に滲みていくのが見えた。芥子の花だ。あれは芥子の花と同じ色だ。ミゲルはふとそう思った。
軍の費用のほとんどをまかなっている麻薬の金を、この芥子の花が生んでいる。この花が、よりたくさん大地を覆えば覆うほど、戦いは激しくなっていくのだ。最後にナディーと交わした会話を、ミゲルは今でもよく覚えている。
「ダイアモンドを買ってきてくれてもいいのよ。」
そう彼女は言っていた。今、ミゲルが彼女に持ち帰れるものといえば、この芥子の花くらいだろう。血色の花。裏切り者の花。
その日の訓練を終え、宿舎に戻ったミゲルを、思わぬ客が待っていた。埃まみれになった身体を、水場で洗い流している時、後ろから肩を叩かれた。ラシールだ。
「久しぶりだな、ミゲル。生きていたか。」
ミゲルは拭いていた布を慌てて投げ出し、「気をつけ」の姿勢をとる。
「大佐。お久しぶりです。いつこちらへ?」
ラシールはそれには答えず、水場に置いてあったボロボロの椅子を見つけると、いつかミゲルが部屋の中で見たように、どっかりと深く腰を落とした。「その日」が来たんだ!とうとう国へ帰れる! ミゲルは姿勢を崩さないまま、心の中でそう叫んでいた。
「長い時間がかかってしまった。ミゲル。お前は戦士として、これから国へ戻るのだ。そのための訓練は、十分に受けたはずだ。アフガンを我々の手に取り戻す日は、もう目の前だ。ソ連軍は神によって粛清されるだろう。」
ラシールの言葉を聞きながら、ミゲルはナディーのことしか考えていない。帰れるのだ! 彼女に会える! 結婚の約束を、彼女は覚えているだろうか?
「一週間後に国へ入れ。軍ではなく、新しい組織として、ソ連軍を追い出す。」
「軍には戻らないのですか?」
ミゲルは不思議に思い、そう尋ねた。
「そうだ。我々は長い時間をかけて、準備を進めてきた。そしてすでに組織は国内のゲリラを掌握しつつある。ソ連軍がいなくなった暁には、軍ではなく、我々の組織が国を統治するだろう。時は来たのだ。ミゲル。ジハードのな!」
ミゲルにはよく分からなかった。新しい組織? ゲリラを掌握? どういうことなのだろう。
「ミゲル。お前はただ私に従えばいいのだ。悪いようにはしない。国へ帰ればお前は英雄だ。首都を奪回した戦士なのだからな。」
ミゲルにはそれ以上は聞けなかった。ラシールが立ち上がる。
「それじゃあ国で会おう。お前はもう立派なタリバンの兵士だ。」
「タリバン?」
「そう、それが我々の名前だ。やがてすべてを手に入れ、神の名のもとに、世界に広がっていく。」
タリバン? それが俺の名前か。まあそれならそれでいい。ナディー! 待ってろ!
今すぐ会いにいくからな! ミゲルはダイアモンドの代わりに、ナディーに持ち帰れる物を、探さなくてはと思った。しかしいくら考えても、ミゲルの頭に浮かぶのは、絨毯のように大地一面に咲き乱れる、赤い芥子の花だけだった。