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決闘  作者: 青井鳥人
7/9

運命

 ラフマンが事務所に着いた時、ちょうど早苗が帰り支度を整えているところだった。小さな事務所の中には、デスクが五つしかない。入り口のドアを開けると、すぐ目の前に四人がけのテーブルがあって、その真ん中には、「飯田商店」とラミネートされた文字が貼り付けてある。飯田はそこを「応接室」と読んでいたが、仕切りも何もない、パイプ椅子が四つだけの空間では、応接も何もないよね。と、ラフマンと早苗は、よく言い合っていた。

「あら? どうしたの? 夜勤じゃないわよね? 迎えにきてくれたの?」

「いや、社長に呼ばれたんだ。なんか話があるんだって。もう上がり?」

「うん。早めに上がっていいって。社長が。長くなりそうなの? すぐ終わるんだったら、ここで待ってるけど?」

「ちょっと分からないな。ジョナサンで待っててよ。長引くようなら電話するからさ。」

 そう言ってラフマンは事務所の奥にある、ガラスの上半分が半透明になっているドアを見た。そこにもラミネートされた文字で、「社長室」と書かれている。

「そう、分かった。じゃあ後でね。」

 そう言うと早苗は、ドアを開け、事務所を出て行った。ふと早苗の席に目をやると、デスクの上に、黒いカチューシャが置いたままにされている。早苗が忘れていった物だ。ラフマンはそれを手にとり、ポケットにしまった。

「カチューシャってアラビア語みたいな響きだけど、もともとはそっちの言葉なんじゃないの?」

 いつか早苗にそう聞かれたことがあった。しかしラフマンは、そんな言葉を聞いたことがなかったし、パキスタンの女たちがそれをつけていたかどうかも、よく覚えていなかった。

「おう、ラフマン。来たか。悪いな、休みなのに。こっちで話そう、入りなよ。」

 いつのまにか「社長室」のドアが開き、飯田が顔を出していた。ラフマンは「はい」と言って、部屋の中に入った。


「社長室」の中には飯田の席一つだけしかない。デスクの上には、パソコンが一つ、平積みにされた大量の書類(請求書のコピー、決算書、ゴルフコンペの日程表、そんなものだ)、小さいデジタルの時計、それとその時計より少し大きな地球儀が置かれている。透明なデスクマットの下には、今年十六になるという飯田の娘の写真が何枚か挟んであり、それと同じくらい大事そうに

「身体髪膚之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」

 と、大きく書かれた紙も挟まれていた。ラブマンにはその言葉の意味は分からなかったが、要は娘のために頑張らねば。という意味なんだろうと、なんとなく思っていた。部屋に似つかわしくない、黒のソファセットが部屋の約半分を占めていて、忙しくて家に帰れない時、飯田はよくそこに横になって眠っていた。

「まあ座ってくれ。何か飲むか? 俺は酒を飲むけど、お前も飲むか?」

「いえ、お酒は。大丈夫です、ありがとうございます。」

「そうか、じゃあ、ちょっと失礼して。」

 飯田はそう言ってラフマンを座らせると、部屋の隅にある小さな二段式の冷蔵庫から、ビールを一つ取り出してきた。以前「応接席」で飯田がお客さんの相手をしていた時に、「早苗ちゃん、奥のバーから冷たい物をお出しして。」と言われて大笑いしそうになったと早苗が話していたのを思い出して、ラフマンは笑いそうになるのを、必死でこらえた。

「最近はどうだ? ラフマン。早苗ちゃんとも、うまくやってるのか? 早く子供の顔でも見せてくれよな。子供はいいぞ。いや、本当だぞ。」

 飯田はそう言って、ビールの缶を開けて旨そうに音を立てて飲んだ。

「ありがとうございます。早苗とはうまくいってます。子供は、いつかは作りたいです。でも、もう僕も年ですし、なかなか難しいですね。」

「何を言ってんだよ、お前は。お前が年なら、俺はもう爺さんだぜ。いつまでも現役でいるぜ。っていうくらいの心意気がないとダメだよ。ボクサーだったんなら、分かるだろう? ハングリーさをなくしちゃいけない。」

 飯田はそう言うと、ソファの横に貼られた、来月行われるタイトルマッチのポスターを見上げた。飯田は今でも時折、試合を見に後楽園まで足を運んでは、有望そうな選手に目を付け、時には少額ではあるが、そのスポンサーを買って出ていた。ラフマンは何度も観戦に誘われていたが、その度に理由をつけて断り続けていた。

「さて、本題に入ろうか。実はお前に頼みがあってな。南のことは知ってるよな? あいつんとこな、最近経営が悪くてな。来月会社をたたむことになったそうなんだよ。従業員のことを考えて、その前に全員を解雇するらしい。そうすりゃ、失業保険がすぐ出るからな。苦しい決断だとは思うが、どうしようもないことだってある。」

 南工務店は、ラフマンたちが荷を運び出した後に、そのビルのフロアの解体と内装をを請け負う会社だった。ラフマンも何度か、飯田と南という男が話しているのを見たことがある。飯田より少し若い、痩せていて、笑う時に手を叩く癖のある男だった。

「ところが南がな、会社をたたむ前に、外国人を一人受け入れる手続きを取っててな。今になって、今更受け入れられないとは言えなくなっちまったらしいんだ。そこで俺んとこに連絡が来た。俺のとこで、その外国人を受け入れてくれないかって言うんだ。俺は以前も受け入れて、育て上げた実績がある。あ、お前のことな。入管も俺んとこだったら、その実績を買ってすぐ許可が下りるだろうって南は言うんだ。でも正直に言えば、うちにも今、もう一人従業員を増やす余裕はあまりない。仕事だって減ってきてるしな。だけどなー、断れなかったよ。南のためっていうのもあるんだが、俺の中のもう一人の自分がさ、ハングリーにいけ! って言って聞かなかった。」

 飯田はそこまで言うと、もう一口ビールを口にする。

「仕事がなきゃ、自分でとってこなくちゃあな! そうだろ? ラフマン!」

「はい。頑張ります。」

 ラフマンは南のことを、どう言っていいのかが分からず、それだけ答えた。

「そこでだ。うちはその外国人を受け入れることに決めた。そいつの教育係をお前にやって欲しいんだ。日本で慣れない生活が始まれば、いろんな不安だってあるだろう。使い物になるまで、そのケアも含めて、面倒をみてくれないかと思ってな。」

「教育係? そんな。僕には無理ですよ。仕事だって、まだまた覚えないといけないこともあるし、第一、その人とコミュニケーションが取れるかも分からない。国が違えば文化は全く違います。僕は社長と早苗がいたからなんとかなりましたが。」

「だから、そいつにも同じように、手を差し伸べてやって欲しいんだよ。それにな、そいつはお前の国に近いとこの出身なんだよ。だからお前にお願いしてるんだ。えーと、どこだったかな、そう、アフガニスタン。確か隣の国だろう? 言葉だって分かるだろう。どうだ? 引き受けてくれないか。この通りだ。」

 そう言って飯田は頭を下げた。ラフマンはしばらく何も言えずに、考え込んでいたが、これまでに飯田に受けた恩を思うと、断ることなどできなかった。

「分かりました。あまり自信はありませんが、出来るだけやってみます。」

「そうか! ありがとよ、ラフマン。いやー、よかったよかった。俺も協力するからさ。早苗ちゃんにも話しておいたほうかいいだろうな。今日にでも話しておいてくれ。あ、早苗ちゃん待たせてるのか? 悪い悪い。話は以上だ。ありがとうな、本当に。」

 飯田は安心したのか、残りのビールを一気に飲み干した。それを見届けてからラフマンは「じゃあ失礼します」と言って席を立ち、部屋を出ようとしてから、もう一度ソファに座ったままの飯田の方に振り返った。

「あの、社長。その人、アフガニスタンのどこの生まれだって言ってました?」

「え? そこまではちょっと聞いてなかったな。なんでだ? 何か問題があるのか?」

「いえ、問題はないです。ただ、地域によって言葉が多少違うことがあるので。まあ、分かるとは思いますが。」

「そうか。今度南に聞いておくよ。そうそう、名前は分かるぞ。どこだっけな。ちょっと待て。」

 飯田はそう言って、デスクの引き出しから何枚かの書類を取り出した。そして指で文章をなぞっていくうちに、何かを見つけたらしい。

「あったあった。これだ。ええと、ミゲル。アブドゥル・ミゲル。って名前らしい。」

 ラフマンは言葉を失ってしまう。

 ミゲル! あのミゲルなのか? まさか!

「どうした? 知り合いなのか? この男と。」

「いえ。違います。ただ似た名前に聞き覚えがあったので。」

「そうか。じゃあ頼んだぞ、ラフマン。なあに、そんなに難しく考えなくてもいいんだ。気楽にな。じゃあまた明日な。」

 

 会社を出て通りに出たラフマンは、混乱している。ミゲルが日本に? なぜだ? いくら考えても分からない。早苗がジョナサンで待っている。しかしどうしても足が動かない。山手通りを流れていく車を目で追うのが、ラフマンには精一杯だった。


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