ナディー
国境を超える前に、ミゲルにはやらなければならないことが一つだけあった。ナディーはとても頭がいいから、下手に嘘を言っても、すぐに見抜かれてしまうに違いない。しかし、本当のことを話したところで、彼女は納得するだろうか? ミゲルには分からない。
軍のジープにも、もう乗れなくなったので、ミゲルは歩いてナディーの家に向かっている。街中の至るところに、瓦礫の山が積み上げられていて、立ち並ぶ民間の壁には、銃弾で空いた穴が、星座のように並んでいる。つい一年前までは、活気に満ち、市場には人だかりができていたのに、今では見る影もない。ミゲルは足元に転がっていた木製の人形を手に取ると、外れかけた右足を元に戻そうとしたが、うまくいかない。そのうち諦めて、ミゲルはその人形を地面に戻した。
ソ連軍のトラックが、ミゲルの横を走り抜けていった。すれ違い様に、荷台に乗った兵士たちの一人が、大声で何かをミゲルに叫ぶと、全員がゲラゲラと笑った。ミゲルはロシア語が分からないので、何を言ったのかは分からなかったが、特に知りたいとも思わなかった。
ナディーは美しい女だ。「ボクシングなんて馬鹿みたいだわ」というのが口癖だったが、ミゲルが負け無しのチャンピオンだった頃から、彼女はいつもミゲルの側にいた。いつだったかミゲルは、「ボクシングが嫌いなら、どうして俺の側にいるんだい?」と聞いてみたことがある。男というのは、時としてそういう無意味な質問をしてしまうものだ。ナディーは笑って言った。
「側にいるんじゃないわ。私とあなたは繋がっているの。分かる? あなたが強い男で、ボクシングで名声を得ているから、好きなんじゃないのよ。例えばあなたが一文無しの乞食になったとしても、私はあなたと繋がっているの。あなたが誇りを捨てない限りね。」
ミゲルはナディーを抱き寄せて、キスをした。二人はいつも、人目を忍んで会っていた。ナディーの父親は、ボクサーだったミゲルのことを毛嫌いする、頭の固い、古風なイスラム教徒だった。もちろんナディーもミゲルも、イスラム教徒だったが、恋人を想う気持ちが、信仰を飛び越えて暴走するのは、よくあることだ。二人は愛し合っていた。
家に着いてもミゲルは、なかなかドアを叩くことができない。考えがまとまらない。それにドアを叩けば、きっと父親が出てくるに違いない。ドアの前で迷っていると、ドアの方が先に開いた。幸運なことに、出てきたのはナディーだった。
「ミゲル! 脅かさないでよ。どうしたの? そんなとこに立って? 昼間はダメよ。お父さんだって今家にいるし。さあ、こっちへ来て。」
「ナディー! 誰か来たのか? 話し声がしたが?」
家の中から父親の声がした。
「誰も来てないわ。お父さん。それじゃあ、ちょっと出かけてくるわ。あまり遅くはならないから。」
ナディーは、手招きをすると、一つ先の路地に入っていった。ミゲルもその後に続いた。
「どうしたの? 急に。話したいなら夜でもよかったのに。でも会いに来てくれて嬉しいわ。最近は、ソ連兵が前触れもなくやってきて、あれこれ聞くもんだから、お父さんも神経質になってるのよ。」
「すまない。ナディー。実は今夜、街を出ないといけないんだ。新しい任務があってね、しばらく戻れないんだ。」
「新しい任務? 急な話ね。今夜発たないといけないの? どうしてもっと前に話してくれなかったの?」
「命令が出たのが三日前なんだ。だから話す暇もなかった。すまない。」
「そう。仕方ないわね。それで、いつ頃帰ってくるの? 一週間? 一ヶ月?」
「分からない。本当に分からないんだ。一年になるかもしれないし、三年かもしれない。」
「ミゲル、一体あなたどこに行くの? 任務って何なのよ?」
「ナディー、それは言えないんだ。言えないけど、俺は必ず戻ってくる。戻って来たら、俺と結婚してくれないか? 今日はそれを言いに来た。」
ナディーはとても驚いたようだった。ミゲルは不安になった。しかしナディーはすぐに、いつもの笑顔に戻って言った。
「そう、分かったわ。どこに行くのか、何をするのかは言えない。だけど信用して欲しい訳ね。いいわ。信じてあげる。あなたが帰るまで待つわ。あなたの妻になりましょう。神に感謝します。」
抱き合う二人。
「ありがとう、ナディー。俺は必ず帰ってくるからな。」
「それはもう聞いたわ、ミゲル。気をつけてね。ダイヤモンドの指輪を買って帰って来てくれてもいいのよ。女はそういうのに弱いの。」
「分かった。必ず買って帰るよ。偽物だったら許してくれよ。」
別れのキスを交わし、ナディーは家に戻って行った。ドアを閉める間際に、もう一度だけミゲルの方を見て、彼女は微笑んだ。
帰り際、もう一度ソ連軍のトラックがミゲルの横を通り過ぎて行ったが、さっきとは違い、その荷台に乗った兵士たちは、疲れ果てたように、黙り込んでいた。あるいは、自分の故郷のことを考えているのかと、ミゲルは思った。国を出る自分も、あの連中と同じような顔をするのかと思うと、少し気が滅入ったが、ナディーのことを思い出し、帰ってきた時のことだけを考えることにした。
その夜遅く、ミゲルは国境を越えてパキスタンに入った。ラシールが用意した書類を見せると、何なく入国することができた。思えばこの国には一度も来たことがなかった。ラフマンはいつも、美しい国だといって自慢していたっけ? 落ち着いたらあいつを探してみよう。同じ軍にいるんだから容易いはずだ。
軍服を脱いで、民間人の格好をしたミゲルは、どこから見てもパキスタン人に見える。荷物を背中に背負い直し、ミゲルは夜明けの近い、街へ向かう一本道を、まっすぐ歩き始めた。
先にあるのは「希望」だけで、後に残してきたナディーもまた、その希望の中に含まれているんだと、ミゲルはその時、固く信じていた。