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決闘  作者: 青井鳥人
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神の名のもとに  1981年 アフガニスタン

「大佐殿、それは命令でありますか?」

 ミゲルは踵を合わせたままの姿勢を崩さずに、思い切ってそう口に出した。目の前の大きなデスクに、どっかりと腰を降ろしている男が、ギロリとミゲルを睨んだ。口髭をたくわえた初老のその男は、ゆっくりと腰を上げると、デスクの上に置かれた地球儀を、指でクルクルと回した。

「私の言葉が聞こえなかったか? アブドゥル・ミゲル。ボクシングで頭の回路がイカれてしまったか? 私は命令など出してはいない。これは神が命じた使命なのだ。分かるかね?」

 男はそう言うと、ミゲルの正面に立ち、デスクの上に腰掛けた。

 三日前に、司令部からの召喚状がミゲルの元に届いた。その頃ミゲルは、介入してきたソ連軍の指示で、市街に潜む反政府軍の分子たちを捕えては、ソ連軍に引き渡していた。表向きは、アフガニスタン軍を支援するという形だったが、実際は全ての実権を、ソ連軍が握っていた。ミゲルが呼び出された司令部でも、ロシア語が飛び交い、ロシア人の将校たちが建物をすっかり占拠していた。ミゲルが大佐と呼んだ、ハミード・ラシールも侵攻によって、実質的な地位は剥奪されてはいたが、侵攻ではないというソ連軍の言い訳のために、お飾りの形で司令部に残されていた。

「ミゲル、お前のことは聞いている。お前は強い男だ。神によって選ばれた男だ。神の子には、果たさなければならない義務がある。それを避けて生き続けることは、できないのだ。この国の現状を見ろ。あんな奴らにこの国の統治を、任せてはおけない。神の教えより、ウォッカの方が大事な野蛮人どもだ。今は忍耐の時だ。しかし、いつかこの国を、我々の手に取り戻さねばならんのだ。」

 ラシールはそこまで言うと、ミゲルの脛を軽く蹴った。

 ミゲルは不可解だった。もちろん、内政に干渉し、軍部を牛耳っているロシア人たちのことは、ミゲルも嫌悪している。ついこの間も、ソ連軍のある部隊が、反政府分子を捕え、そいつらを裸にし、街の真ん中で小便をかけて見せしめにしてから、銃殺した。その一部始終を、ミゲルは見ていた。殺されたのは、ミゲルと同じアフガン人であり、ついこの間まで、同じ街に住み、同じ店で食事をしていた人々だった。

 軍人として、国家の政策には従わなければならないが、一体この国で何が起きているのか、ミゲルにはさっぱり分からなかった。我々の手に、この国を取り戻さねばならないというのは、ミゲルにも理解できる。しかしそのために、軍を抜けて国を捨てろというのはどういう事だろう? 

 ラシールの命令は、軍を今すぐに離れ、秘密裏のうちに国境を越えてパキスタンに入り、軍に志願しろというものだった。

 その頃のパキスタンは、ソ連軍に対抗するアメリカを受け入れ、実質上アフガニスタンとは対立する形をとっていた。仮にパキスタンがソ連軍を撃退したとしても、支配がソ連からアメリカに移るだけで、アフガニスタンには戻らない。幸運にもアメリカが寛容な国で、アフガン人の手に内政を任せたとしても、そこにはパキスタンの政府が敷かれるだろう。どちらにしても、アフガニスタンは消えてしまうのだ。同じアラブ人ならばその方がまだましと考えることもできるだろうが、ミゲルは国が消える事には我慢がならない。アフガン人としての誇りもある。

「私はアフガン人です。いくら同じアラブとはいえ、国を捨てるのには正直、抵抗があります。それに、パキスタン人としてこの国に攻め入り、ソ連軍を追い払えたとしても、私には我々の手にこの国が戻るとは思えません。」

 ミゲルがもう一度、踵を合わせたままの姿勢を崩さずにそう言うと、ラシールは低い声で「ククク」と笑った。

「驚いた。ただのボクシング馬鹿ではなかったようだな。頭の回路はしっかりしているようだ。だがな、ミゲル。お前は何も考えなくてもいいのだ。パキスタンとの話はついている。お前の想像もつかないくらい先のことまで、綿密に、計画は立てられているのだよ。お前は軍人だろう? 違うか? 軍人ならば上官に言われた言葉が、全て絶対であることくらいは分かるだろう? お前は何も考えなくてもいいのだ。考えるのは私の仕事だ。」

 ラシールはそう言うと、ミゲルの頬を軽くはたき、立ち上がると、書棚の中から何やら色々な書類の入った袋を取り出した。

「必要なものはここに揃えてある。お前はもうパキスタン人だ。言うまでもないが、これは極秘事項だ。少しでも外に漏らせば、お前は二度と軍には戻れないし、探し出して銃殺にする。分かったな。準備が整い次第、国境を超えろ。連絡は取り合わなくてもいい。必要な情報は全てお前の元に届くだろう。いいな? 以上だ。」

 ラシールはそう言うと、再び腰を降ろした。ミゲルは、しばらくそのまま動けなかったが、廊下からロシア語の会話が聞こえたのを合図にするように、姿勢を解き、ドアに向かう。部屋から出る前に、もう一度ラシールの方に向き直り、敬礼をする。

「アラーは偉大なり!」

「アラーは偉大なり」

 ラシールも座ったままそう言ったが、もう何か別のことを考えているようだった。

 車が街に入り、周りにもソ連軍は見えなくなった。ミゲルは大きくため息をつく。ワイパーの音がしているが、それは雨ではなく、窓にこびりついた砂埃を払う音だ。

「パキスタンか。」

 しかしミゲルは、自分が負った任務のことではなく、ラフマンのことを考えている。あれ以来、あいつとは会っていないが、もしかしたら、これでもう一度会えるかもしれないな。決着だって、まだついていないんだ。いつか必ず、あいつを倒すと誓った。ミゲルはハンドルに添えた右手を軽く握ると、外の砂埃に向かって、パンチを打つ真似をした。長いことリングに立っていないと、体も怠けてきているのが分かる。

「ラフマン、待ってろよ。いつか必ずな。」

 ミゲルは声に出してそう言った。



 服を脱いで、上半身だけ裸になったラフマンは、鏡に写った自分の身体を眺めている。ボクシングで鍛えていた頃と比べると、だいぶ脂肪もつき、腹はたるんでいる。肉体労働をしているおかげで、実際の年齢よりは、たくましく、筋肉もついているように見えるが、昔はもっと鋼のような筋肉を纏っていた。

 ラフマンは両手を拳の形に握ると、鏡に向かってファイティングポーズをとる。脚が武器だったラフマンは、左手を腰の辺りに構える「ヒットマンスタイル」を自分の型にしていた。最後にグローブを着けたのは、いつのことだろう? もう思い出せない。何発か鏡に向かってジャブを出す。しかしすぐにラフマンは、諦めたようにポーズを解くと、そそくさと服を着る。何をやっているんだろう? 俺は。

 早苗は仕事に出ていて、夜勤明けのラフマンは、家に一人きりだ。普段なら、昼過ぎまで疲れ果てて眠り続けるのだが、その日はなぜか早く目が覚めてしまった。冷蔵庫を開けて、ビールを取り出し、テレビのスイッチを入れると、「笑っていいとも」が始まったばかりだった。テーブルの上に置かれたグラスには、早苗が出かける前に飲んだオレンジジュースが、半分くらい残されていて、先週出たばかりの女性誌が開いたままで置かれ、右肩が軽く折られている。ラフマンは早苗が座っていたのであろう場所に座って、ぼんやりとテレビを眺める。

 戦争が始まった時のことを、ラフマンはよく思い出せない。日本に来るまでの記憶がすっぽりとなくなってしまったんだと、これまでは思っていた。しかしそんなはずはない。記憶は確かにラフマンの頭の中に眠り続けていただけで、ふとしたきっかけで不意にその姿を現した。ミゲルのことを思い出していたら、それがきっかけになり、連鎖するように、ラフマンとの記憶が色を帯びてきた。

 

 ミゲルとの試合がなくなってすぐに、アメリカはパキスタンに近づいてきた。周囲はたちまち慌ただしくなり、街は殺伐とし始めた。ラフマンは、アフガニスタンとの戦いに派兵されることを覚悟したが、実際は違っていた。パキスタンとアメリカは、アフガニスタンの国内のムジャヒディン(反政府ゲリラ)の援助を行う形で、アフガニスタン内部で、戦争を完結させようとしていた。政治的な思惑までは、ラフマンには分からなかったが、これまでとは明らかに異なる光景が国内で見られるようになった。軍の訓練所では大勢のアラブ人が集められ、訓練を受けていた。中にはパキスタンの国内から志願して、その訓練を受ける者もいた。ラフマンが受けた命令は「自国の防衛」だったが、国内で戦闘がない以上、あまりやることはなかった。

 そんな時、アメリカ軍から派遣されてきた指導官の一人と親しくなった。ジム・ゴードンという男だ。ゴードンもボクシングをしていたということもあり、基地の中でラフマンはスパーリングの相手をするようになった。ゴードンはラフマンの才能に気付き、アメリカに来ないかと申し出た。有難い話だったが、ラフマンは迷っていた。国が戦争の中にあるのに、それを無視して逃げ出すのは許されることではない。もし国を出たら、二度と戻れないだろう。亡命者となるしかない。それに、もしかしたらどこかで、ミゲルとの約束を果たせていないことが、気に懸かっていたのかもしれない。

 しかし結局ラフマンは、ゴードンの申し出を受けることになった。大きな声では言えなかったが、この国にいても将来は見えないし、ジハード(聖戦)と言って、銃を突き上げて叫ぶ連中にも、正直うんざりしていた。ラフマンは、ただボクシングがしたいだけだった。

 ゴードンが用意したルートは、日本を経由するものだった。日本の基地にしばらく身を隠し、ほとぼりが覚めた頃にアメリカに入る。それが彼の作戦だった。深夜、飛び立つアメリカ軍の軍用機に乗り、ラフマンは長い時間をかけて日本にたどり着いた。しかしその後、ゴードンから手紙が届いた。アメリカへの入国許可がどうしても下りないと、彼は書いていた。

「今さら君は国に帰ることは出来ない。こんなことになって、本当に申し訳ないと思うが、日本に亡命してくれ。いつか必ずアメリカで会おう。」

 彼からの手紙にはそう書かれていた。それ以来、彼とは会っていないし、連絡もない。今となっては、アメリカに渡る気持ちもなくなってしまった。同時にボクシングに対する情熱も。

 

 ラフマンは早苗が残していったオレンジジュースのグラスを手に取ると、一気に飲み干した。あれから長い時間が経ったが、今は早苗もいる。日本という偶然訪れた国で、家族を持っている。自分は幸運だったし、幸せなのだ。そう思って生きてきた。しかし何故だろう? 何故、今になってミゲルのことを思い出すのだろう? パキスタンを飛び立った時に感じた、あのどうしようもない不安を、なぜ今、自分は思い出しているのだろう? 

 電話が鳴り、ラフマンは我に返る。グラスを置き、電話に出ると、それは飯田だった。

「休みのところすまないな。実はちょっと話があってな。電話じゃなんだから、夕方会社に来れないか? なに、あんまり時間は取らせないからさ。」

 ラフマンは壁の時計に目をやる。

「わかりました。四時には行けるようにします。早苗とその後、一緒に帰りますから。」

「すまない。大丈夫、そんな深刻な話じゃないんだ。すぐ終わるよ。じゃあ後でな。」

 ラフマンは受話器を置くと、飯田の話を予想してみた。しかしまるで見当もつかない。諦めてもう一度椅子に座ると、早苗が読んでいた雑誌をパラパラとめくった。もちろんそこにも、飯田の話が何なのかは書かれていない。

「それではお友達を紹介してください。」

 テレビの中の司会者がそう言った。

「ミゲル。アブドゥル・ミゲル。」

 ラフマンは心の中でそう答えた。


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