表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
決闘  作者: 青井鳥人
4/9

花屋敷

 初めて二人だけでデートをしたのは、浅草の『花屋敷』だった。どうしてそこに行こうと決めたのかは、思い出せない。普段暮らしている、池袋界隈を離れたいと早苗が言ったような気もするし、浅草には行ったことがないと言ったラフマンの意見を聞いて、そうしたような気もする。二人は休みを合わせて、地下鉄を乗り継ぎ浅草に向かった。都営線の電車は車両が狭く、車内は混み合っていた。

 思えば早苗も、ほとんどこの街には来たことがない。ラフマンが珍しそうに下町の商店街を眺めて歩くのと同じように、早苗もまるで異国の街に来たような感覚で、街を歩いていた。浅草寺を経由して花やしきの前に着くまで、二人はほとんど会話らしい会話はせずに、駅で一つずつもらった、浅草の地図を眺めてばかりいる。周囲から見ても、日本人の早苗と、中東系のラフマンが並んで歩く姿は、珍しく見えたに違いない。すれ違う観光客が、時折振り返って、早苗たちを見ているのが分かった。

 日曜日だということもあって、花屋敷は混んでいた。入場するのにも、ずらりと行列ができていて、乗り物に乗るにも、だいぶ待たないといけなかった。二人は少しどこかで時間を潰して、行列が収まるを待とうということになり、場外馬券場が見下ろせる場所にある、小さな喫茶店に入った。

「なんだかすごい人ね。日曜日だってことを考えてなかったわ。どこか違う場所にすればよかったかも。ごめんなさい。」

「謝らなくてもいいですよ。僕、こういう機会がないと出かけないし、この街はとても活気があって、お店を見ているだけでも面白いです。連れて来てくれてありがとう。」

「そう。よかった。」

 早苗はそう言ってまた黙ってしまう。飯田に紹介されて、少しづつ話をするようになったとはいえ、ラフマンと何を話していいのか、早苗にはまだよく分からない。

 それは、ラフマンが日本人でないことも関係しているのだろうか? そうだ。関係は、ある。パキスタンという国が、どういう国なのかを、早苗は全くと言っていい程知らなかったし、もちろん行ったこともない。それどころか、早苗は日本を出たことすらないのだ。そんな早苗にパキスタンの国を想像することなど、出来るはずもない。ラフマンが見てきた物と、早苗が見てきた物との接点というものが、全く見つからない。

 社長にけしかけられてデートに来てみたものの、どうしたものかと、早苗は思いを巡らせている。そんな早苗を見越したのか、ラフマンが口を開いた。


「早苗さん。僕の国が、どんなところかなんて、想像もできないでしょう? 信じられないと思うでしょうが、僕もあまりよく覚えていないのです。おかしな話です。確かに生まれて育った国なのに、どんな国だったかを説明しようとすると、言葉にできないんです。父も母も早くに死んでしまって、兄弟もいない。親戚の家に預けられてからは、友達もあまりできなかった。ボクシングを始めて、親しい仲間はできましたが、今はバラバラになってしまって、行方も分からない。僕の国での思い出は、そのボクシングしかないんです。いろんなことがあったはずなのに。おかしな話ですよね。」

 早苗は、急に話し始めたラフマンの日本語が、とても上手いことに感心してしまった。言葉の選び方も丁寧だった。そして「父と母と早くに死に別れて」という言葉に、思わず反応してしまう。

 早苗は孤児だった。父と母が幼い頃離婚し、父はすぐに、病気で死んでしまった。母は幼い早苗を、お荷物のように疎ましく思っていて、育児そのものを放棄した。見兼ねた親戚のおばさんが、早苗を引き取ったが、早苗はそのおばさんの子供と、どうしてもそりが合わず、結局施設に預けられることになった。その頃にはもう早苗は、身内のごたごたに巻き込まれることにうんざりしていて、施設に入って一人になることは、むしろその時望んでいたことだった。

 これまで早苗は、孤児であることを弱みに感じるような生き方はしてこなかったが、自分から人にそれを話すようなこともなかった。しかしラフマンが包み隠さず自分のことを話してくれたのを聞いて、早苗も無性に自分のことを、ラフマンに話したくなった。

「ラフマンさん」

「呼び捨てでいいですよ。」

「え、ああ、じゃあ、ラフマン。私もよく幼い頃のことを覚えていないの。でもほんとは見ないようにしているだけだと思う。蓋をしている限りは、悲しくなったりはしない。でも完全には蓋ができないように出来ているみたいで、時折無性に寂しくなることがある。そんな時私は、昔からずっと使っているシーツにくるまって眠るの。その匂いを嗅ぎながらね。そうするといつの間にか寂しさは消えてる。この大好きな匂いだけを覚えていればいいって言い聞かせるの。自分に。だから、今言ったあなたの言葉の意味はよくわかる。」

「そうですか、パキスタンか日本かなんて、あまり関係ないのかもしれませんね。世界共通なんです。そういう喪失意識ってやつは。」

 早苗は思わず笑ってしまった。

「そんな言葉まで知ってるの? 『喪失意識』変な人ね。使う機会なんて、そうないでしょうに。」

「昔からそうなんです。余計な言葉ばかりを覚えてしまう。確かに、使う機会は少ないですね。」

 そう言ってラフマンも笑った。窓から外を見ると、馬券場にいつのまにか人だかりができ始めている。最終レースのオッズが出た頃なのだろう。そろそろ花屋敷の人混みも、落ち着いたかもしれない。ラフマンは汗をかいて、水滴が流れ落ちているアイスコーヒーのグラスを紙ナプキンで拭きながら、「そろそろ行ってみますか?」と早苗に言った。

「そうね、そろそろいい時間帯かも。ねえ、ラフマン。一つお願いがあるんだけど。いいかしら?」

「何ですか?」

「私だけあなたを呼び捨てにするのは、対等じゃないと思うの。だからこの店を出たら、私のことも『早苗』って呼んで。敬語はなしよ。いいかしら?」

 早苗がそう言うと、ラフマンはニッコリと笑って頷いた。

「オッケー。わかりました。この店を出たらそうしましょう。」

 支払いを済ませて、店の狭い階段を降りると、ちょうど最終レースが出走したところだった。人々は食い入るようにレースを映したスクリーンを眺めている。

 先に店を出たラフマンが、階段の最後の二段をジャンプして地面に降りると、早苗を見上げて言った。

「早苗、道がよく分からないんだ。悪いんだけど案内してくれない?」

 早苗は微笑んで、「ついて来て」とラフマンの手を取った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ