首都高速 芝浦出口付近
夜勤の仕事に入るのは初めてではないが、その夜の仕事は、いつにも増してハードだった。池袋のビルの三十一階から降ろした荷物を、芝浦の新しいビルまで運ぶという内容だったが、搬出用のエレベーターが一機しか使えず、池袋を出発した時には、もう東の空が白み始めていた。
首都高速湾岸線に乗ってからずっと、芝浦でラフマンたちを待っている、電気工事の連中からの電話が、ひっきりなしに鳴っていた。彼らは、配置されたパソコンの接続作業をするために呼ばれているので、ラフマンたちの荷が届かなければ仕事にならないのだ。これまでも何度か荷物を運ぶのが遅れ、その度に謝っても、あからさまに嫌な顔をするそ彼らのことを、ラフマンはあまり好きではなかった。
「すいませんねー。いや、もう少しで高速を降りますから。はい、いや、本当に申し訳ありません。そんなことおっしゃらずに。超特急で向かいますから」
助手席に乗った平山が、業者からの催促の電話に何度も謝罪して、ご機嫌をとっている。電話越しに相手にお辞儀をする日本人の習慣が、ラフマンは未だに不思議でならない。携帯越しの相手にジェスチャーをする人々の姿が、とても奇妙で滑稽に見える。
「マズイっすね。ラフさん。こりゃあ着いたら速攻始めないと、何言われっか分かったもんじゃない。しかしあいつら俺たちがどんなに遅れても、ぜってー手伝わないんだよなー。まったく何様のつもりだよ。」
運転手の本田が、平山の電話に話し声が入らないように、小さな声でラフマンにそう囁いた。真ん中に挟まれたラフマンは、苦笑いで水筒に入った水を一口飲むと、ほとんど車の走っていない高速道路の標識に目を向ける。「湾岸線」「銀座」「目黒方面」「渋谷300メートル先分岐」今では何の苦もなく、漢字で書かれた標識を読むことができるし、街と街の位置関係も、だいたい分かる。しかし働き初めの頃は、車に乗せられて、あちらこちらを飛び回っていると、いったい自分がこの国のどこにいるのかが分からなくなり、無性に不安になったりしたものだ。
平山は、ラフマンが会社に入る前からずっと働いているベテランで、歳もラフマンよりだいぶ上だった。仕事での顔も広く、信頼も厚い。普段はあまり喋らない、無口なイメージだったが、客の前では「調子のいいおじさん」というキャラクターを演じきっていた。それは、平山が必要に駆られて手に入れた処世術であるのは、ラフマンにもなんとなく理解できたが、そういう生き方は多分、疲れるだろうなと、いつもラフマンは思っている。平山は、ラフマンに対してどちらかというと好意的に接してくれていたし、仕事の先輩として世話になってはいるが、ふとした瞬間、急に黙り込んだりする彼を見ていると、どちらが本当の平山なのかを、分かり兼ねるところがあるのは確かだった。
それとは対象的に、本田は底抜けに明るく、少年がそのまま大人になったような男だった。大人のような少年と言った方がいいだろうか。実際、年齢の若さもその理由ではあっただろうが、本質的に本田は物事を深く考えず、ポジティブに進むことができる男だった。
ラフマンが社員になったすぐ後に、アルバイトとして会社に入ってきた本田は、仕事が終わると自分が組んでいるバンドの練習に向かう毎日で、「いつか音楽の世界で売れて、この世界とはおさらばっすよ」といつも口癖のように言っていた。一緒に働き始めてすぐに、ラフマンのことを「ラフさん、ラフさん」と呼び、パキスタンがどんな国なのか、何を食べてるのか、女は綺麗なのか、というようなことを、どんどん訊いてきた。
普通なら、デリカシーのないと思われるようなことでも、本田の手にかかると、不思議とその嫌味は感じられず、相手に不快な印象を与えることもなかった。それはとても得難い才能だ。その才能が、音楽でも発揮されることを、ラフマンは切に願っている。
何度か本田に、バンドを見にきてくれと言われていたが、まだ彼の演奏を聞いたことはない。歌を歌うらしいが、日本語の歌というのは、どうも難しいので、なかなか足を運べない。いつのことだったかラフマンは、車の中に置きっぱなしにしてあった、本田の楽譜を見たことがある。
「Like birds fly」
そうタイトルがつけられていた。それを見て以来、いつか必ず本田の歌を聞きに行こうと、ラフマンは心に決めている。
「だめだ。あちらさんカンカンだよ。とりあえず、パソコン系の物を片っ端から上げていくしかないな。まったくやりにくいなあ。」
平山が電話を切ると、少し声のトーンを落としてそう言った。
「大丈夫っすよ、平山さん。あいつらのことなんて気にしないでやりましょうよ。こっちだってわざと遅れてる訳じゃないんですから。それにあいつらが文句言うのは、よおく考えたら筋違いですよ。」
「そうは言ってもな、なかなかそうはいかないのが世の中なんだよ。バランスが肝心だ。おい、その先左な。芝浦まで一五分で行くだろ。この時間帯なら」
「バランスですかー。俺にはよく分からないなー。ラフさんは分かります? パキスタンでもそういう、なんて言うんだろ、義理とか世間体とかいう感覚って、みんな持ってんすか? 俺は日本人だけだと思うなー。」
「おい、おしゃべりはそこまでな。搬入先の割り振りを確認しとくぞ。本田、お前はエレベーター前で荷捌きだ。俺とラフマンで、フロアの部屋ごとに手分けして運んでいくぞ。守衛室の前にエレベーターがあって…」
平山の説明を聞きながら、ラフマンは、本田の口にした言葉について考えている。今までそんなことを、意識したことなんてなかった。意識する暇もなかった。ボクシングが全てだった。それ以外のことには目も向けなかったし、周りに目を向けた時にはもう、全てが崩壊していて、消え去っていた。イスラムの教えが、あらゆる形にねじ曲げられ、国中にあらゆる正義が点在していた。
もちろん、ラフマンもイスラム教徒だったが、亡命する頃にはもう、とっくに信仰心を捨ててしまっていた。今では、メッカの方角を向いて跪くこともなければ、ラマダンに入ることもない。祈りの時間にはワイドショーを見て、ファミレスでハンバーグを食べるのだ。それでいいのか悪いのかは、ラフマンには分からない。分からないが、それが自分の「現実」なのだ。失った時間は、もう戻らない。
「じゃあ、いっちょやりますかー、ラフさん。あと一踏ん張りですから。やっつけちゃいましょうよ!」
本田がそう言いながら、ウインカーを左に出す。芝浦出口。この出口で降りるのも初めてじゃない。
ラフマンはもう一度水筒の水を飲む。どうせそれも、一瞬で汗になって消えてしまう。やがてその汗と一緒に、過去もすべて消えていってしまうのかな。ラフマンは、ふとそう考えた。