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決闘  作者: 青井鳥人
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芥子の花 1996年日本

 ラフマンは、注文したハンバーグステーキに添えられていた、丸い人参のソテーを、さっきから何度もフォークでひっくり返している。波打つようなギザギザの切れ目が入った方を表だとすると、裏面ののっぺりとした平面には、ハンバーグの油がべったりとくっついて、テカテカと光っている。とてもそれを口に運ぶ気にはなれない。テカテカ、クルクルと鉄板の上で何度も回る人参を見ているうちに、幼い日の記憶が紐解かれていく。パキスタンの村で、大人たちが栽培していた、芥子の花。人参の色と形が、思い出したその芥子の花に、よく似ていた。

 

 池袋。午後一一時。

 『ジョナサン』にはラフマンたちの他に数人の客しかいない。これから深夜にかけて、長時間居座り続けるために、彼らは皆、仕切りのないソファー席に、空気の壁のようなものをこしらえている。自分達だけの空間をそこに作って、少しでも居座りやすくしている。

 昼間は、店の慌ただしさでまるで聞こえない、安っぽいオーケストラのBGMが、その空気の壁に頼りなく跳ね返りながら、店の中で浮遊している。客たちは、その空間を手に入れるために例外なく、午後十時以降に、10%割増しの料金を払う。

 大学生らしき男が一人と、若いカップルがちらほら。その中の一組のカップルが、さっきからラフマンたちの席を見ては、こそこそと何か囁き合っている。恐らく日本人の早苗とラフマンが、同じ席で向かい合っているのが物珍しいのだろう。今ではれっきとした日本人なのだが、ラフマンは、数年前まではパキスタン人だった。苦労の末、やっと日本国籍を手に入れた。

 しかしそんなことを、そのカップルが知るはずもない。だからといって、彼らの目の前まで行き、空気の壁を破り、「やあ、こんばんは。僕、こう見えても日本人なんです。勘違いのないように」と説明する必要もない。当然と言えば当然だ。それに、そんな視線にも、ラフマンは慣れっこだった。

「時間、まだ大丈夫? 夜勤っていっても、まだ暑いから気をつけてね。水筒は忘れてないわね? まったく会社もヒドいわ。いきなり日勤の後に、夜勤で入れなんて。せめて事前に知らせてくれないかしらねえ。」

「大丈夫だよ。こうやって仕事があるってことは、幸せなことだ。それに夜勤の後はよく眠れるから好きなんだ。昼夜が逆転してすまない。って社長は言ってたけど、僕はなんだか平気なんだ。幸い体力には、まだ自信がある。こういうの、なんて言うんだっけ? ええと、『昔取ったキネヅカ』だっけ?」

 日本に来て、もう十六年になる。今では流暢に日本語を話せたし、そうやってことわざまで持ち出せる。体力に自信があるのは、パキスタンにいた頃、ライトミドル級のボクサーだったからだ。将来も有望視されていた。しかし、度重なる紛争が続くうち、ボクシングを続ける環境は、どんどんなくなっていった。世界タイトルなど夢のまた夢で、国全体が戦争へ向かって突っ走っていた。

 日本に亡命してきた時、ラフマンはこれから自分がどうなるのかなんて、何一つ分からなかった。自分は一度死んだのだという考えを、消すことができなかったし、それが消えないことを、望んでいるような自分も、確かに存在していた。ひょんなことから、今の会社での仕事を得た時も、ラフマンは、ろくにその内容も聞かなかった。

 

 要町にある『有限会社飯田商店』は、主に会社のオフィスの移転業務を請け負っている会社だった。ビルから運び出した、デスクやらパソコンやらを、同じビルの違うフロアに運ぶこともあれば、丸の内のビルから運び出した荷物を、千葉の奥地まで運ぶこともあった。ビル自体が改装する時は、昼間の時間帯で作業を行ったが、直前まで業務を続けるような会社の移転は、夜間に作業をしなければならなかった。しかも、次の日には通常業務が行える状態に、夜中のうちに戻さなければならない。移転する距離にもよるが、夜間の作業は過酷を極めた。日勤を終えた後に、夜勤に入るラフマンの身を、早苗が心配するのも無理はない。

「ラフマン、困ったことがあったら何でも言え、金以外はなんとかしてやるから。なんてな。わはは!」

 飯田商店の社長、飯田は、ラフマンのことを、いつも何かと気にかけてくれていた。ラフマンが昔ボクサーだったことを知ると、自分も昔、プロを目指してたんだぜ。と言って、ラフマンの知らないボクサーの名前を口にした。そして、そいつらと同じジムだったのだと、今でもよく自慢話をする。

 見た目は豪傑で、山男のようだったが、飯田は繊細で、人に気配りを欠かさない。ラフマンの日本語が、まだおぼつかない頃にも、積極的にコミュニケーションを取ってくれたし、飯を御馳走してくれることもしばしばだった。

 早苗は飯田商店で事務員として働いていて、飯田が時折、その席に彼女を誘い出した。初めは何も話さなかった早苗だったが、機会を重ねるうちに、少しずつラフマンとも話をするようになった。やがて早苗とラフマンが結婚することになり、それを機にラフマンは日本国籍を取った。これまでアルバイトという立場だったが、正式に飯田商店の社員になった。新しい名前も手に入れた。

 結婚を報告した時、飯田は手を叩いて、我がことのように喜んだ。式を挙げる金などなかった二人のために、会社の事務所でささやかなパーティーを開いてくれた。従業員だけの小さなパーティーだったが、ラフマンは涙が出るくらい嬉しかった。

 社員になったとはいえ、ラフマンの稼ぎだけでは暮らしていけない。早苗は事務員として会社に残った。今でもラフマンは、飯田に強い恩義を感じている。だからいくら仕事がキツくても、我慢できる。

 夜勤の時間まで、仕事を終えた早苗と落ち合って、遅い夕食を食べるのは、決まってこの『ジョナサン』だ。池袋の外れの、家までの帰り道にあるこの店でこうやって食事をするのが、いつからか、二人の習慣になっている。

 その日もいつもと変わらない食事のはずだった。しかしラフマンは、ハンバーグに添えられていた、丸い人参を見てから、ずっと昔のことを考えている。軍の資金源のために密輸される芥子を、村の奥に密かに作られた、広大な畑で栽培していたこと。村中の大人達が、銃を持った男たちに、奴隷のように働かされていたこと。逃げ出す者や逆らう者は、虫ケラのように殺されていったこと。強い者だけが生き残る。そう信じて軍に志願したこと。そこで出会ったボクシングに魅せられ、のめり込んでいったこと。

 あの試合の前日に空爆があって、とうとうあいつと決着をつけることができなかった。あの男のことを、ラフマンは思い出している。アブドゥル・ミゲルのことを。


以前、この話を出版してみないか?と言われたことがあります。

その時はお断りしたのですが、もう一度、この場を借りて発表してみたいと思います。

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