4部
明は自身の生い立ちを、すすんで話すことはなかった。それは時折、会話の中で断片として出てくるものを繋ぎ合わせて知るしかない。礼子にとっては、明の壮絶な幼少期を想像すると、同情の念が湧きおこり優しくしてあげたくなるのだが。明の会話はいつも、その深い悲しみが憎悪となり底知れぬ孤独感に明自身を破壊しかねない衝動を感じる。だからこそ、そのエネルギーに同調しないように、優しくするよりも突き放すことがある。
それは礼子の母性の表れなのかもしれない。明もそれを感じているのか、時に母親にすがりつく子供のように素直になり、落ち着きを取り戻す。
「明くん、本当に楽しそうだね。」
〔うん、旅なんかしたことないから。考えるだけでも楽しいよ。礼子さんは?〕
「ふ~ん」
〔礼子さんは、楽しくない?〕
無邪気な明を見ると、不思議な感覚に襲われる。礼子の死への旅立ちを楽しんでいるようすではないが、本当に『死ねるの? 本当に自殺できるの?』と、問いかけられている気もする。また、それと正反対に『もう死なないで、旅を楽しもうよ』と、言っているようにも。そして、なによりも明自身がなにかからの救いを求めているようにも感じた。
礼子は、複雑な思いを自らの体内でぐちゃぐちゃに混ぜあわせ、その得たいのしれない合成物に飲み込まれそうになる自分が心地良かった。
怠惰に日々を過ごす、何も感じない日々に慣れていくために。死にたいと願う衝動をより確かなものにするために。
明と会うのは、いつも一時間ぐらいが限界だった。平静を装いながらも、何かが心を揺さぶってしまうからだ。二人で決めた目的には必要のない何かが……。
そのせいなのか、別れ際には意地悪なことを言ってしまうこともある。
さっきの明の質問に対して、冷ややかな態度を取った。
〔ねえ、礼子さん。旅は嫌いなの?〕
「そうね、好きじゃないかもね……」
〔そ……そうなんだ……。」
「明くんがメールじゃなくて、私とちゃんと話が出来れば楽しくなるかも……。」
〔……それは、すぐには……無理だよ……〕
「じゃあ、楽しくない旅になるね……」
〔……なら……ちょっと、頑張ってみるよ。〕
礼子は、明の返事が以外だった。あきらかに拒絶するだろうと思っていたが〔…頑張ってみる…〕の文字に何やら胸が締め付けられる思いがした。この子は、少しづつ変えようと努力している。それに比べて、私は何だろう。いつも、うつむいて逃げてばっかりで……。
礼子はしばらく黙って考えていた。いや、明に考えさせられていたのかもしれない。
(この世間知らずの引きこもり男が……。私よりも一回りも年下の子供が……)
〔どうしたの急に静かになって?〕
礼子は、何だか腹立たしくなってきた。こんなまともな会話一つ出来ない子供に、振り回されているなんて。
「また、明日ね!」
と、言い捨てて。立ち上がった。明は、いつも通り窓の外を見ながら黙ってうなずいていた。
いつものように、礼子が先に立ち去る。そんな風景が、今日だけは変わっていた。
「うん」
明が、かすかに。でも、はっきりと返事した。
立ち去ろうとした礼子の足が止まった。でも、振り返ることなく、右手を軽く上げてバイバイした。うるんだ目を見られないために背を向けたまま歩いていった。
(何でだろう。どうしてだろう。私に何を求めているの……)
翌日、礼子は明からメールに誘われて公園で会うことにした。いつもは喫茶店や美術館などの屋内で会っているのに珍しく外だった。
明と待ち合わせしてる公園は、住宅街の中の小さな公園だった。幼児用のすべり台と、これもまた小さなブランコだけの公園。
突き抜ける青空の正午すぎ。平日の人影のない公園のベンチに座り、明がスケッチブックを広げていた。
約束の時刻のずいぶん前から来ていたのだろうか、無心に鉛筆を走らせて絵を書いていた。礼子に初めて見せる姿だった。
礼子は感心しながら見つめていた。
「へー。明くん絵をかくんだね。何をかいてるの?」
明は、携帯をポケットから取り出そうとしたが、スケッチブックを礼子に見せて、
「雲」
と、小声で答えた。
礼子は、その雲の絵を食い入るように見ていた。
技術のことはわからないが、素晴らしいと思った。何かを引きつけるようなものを感じた。人との接触を極端に嫌う明のことだから、誰にも教わったことなどないだろう。なのに、この絵は……。
真っ白な紙に、大空を漂う白い雲。それが、一本の鉛筆で見事に描きだされている。
「すごい。上手いのね!」
明は、なかなか会話が出来ないのか、黙って鉛筆を走らせていた。
「いつから、書いてるの?」
顔を上げて礼子を見て首をかしげた。何かを自分で喋ろうとしているようだった。
「明くん、無理しなくていいのよ。メールでもいいのよ。少しづつでいいから。時間かければいいから……。」
「うん」
と、声にならないような小声でうなずくと、再び鉛筆を走らせた。
「明くん、ありがとう。頑張ってるのね。」