2部
その日は明の3歳の誕生日から、一週間ほどたった日だった。美智子は、知ってしまった。
あの男が、美智子と明を捨てて出ていったのは、父の差し金だったことを。それ以来、美智子は父に対する激しい憎悪と、僅かな金のために二人を捨てて出ていった男への憤りに苛まれ続けた。父からの冷遇は止むことなく、誰も味方になる者もいない、ただ明を必死に守ることだけで自らを保っていたのだ。
そんな日常が、お嬢様育ちの美智子を壊していった。次第に心を病んでしまった。
どんなに冷静になるように努めても、ときおり襲ってくる激しい憎悪が美智子自身を蝕んでいた。やり場のない怒りが紅蓮の炎となり毎日、毎晩、我が身を焼き尽くす。苦しみと憎悪の連鎖が美智子の思考さえも奪ってしまった。わが子を守りたいと願う気持ちが、わが子を守るために自身の命を絶ち、この苦しみを承継させまいと考えるようになってしまったのである。
突き抜けるような青空の日、美智子は珍しく上機嫌で大神家へ赴いた。満開の桜の下で明を遊ばせていた。手入れのいき届いた緑の芝で大神家の使用人たちと明が遊んでいる時、美智子は父の書斎で首を吊った。
父への憎悪のあらわれだったのだろう。死に場所を父の書斎にしたなんて。
明は、その後親戚の家をたらい回しにされた。どこの家でも、厄介もの扱いだった。格式の高い家柄が、明の存在を表に出ないようにしていた。明の行き先をめぐって、伯父達が言い争うこともあったという。最終的に大神武の専属の運転手である内田夫妻が引き取ることになった。
明は、養子となり18歳までそこで育てられた。今は、一人で暮らしている。
大神武は、生前ほとんど美智子と明の話しをしなかったので、その心情は誰にもわからないが、用意した遺言に明あての財産があることから哀惜の情がうかがえる。
礼子は、途中ボッ~としながら、鈴木の話を聞いていたが。結局のところ、私に何の関係があるのだろうか?と、不思議だった。鈴木はそんな礼子の反応を確認して、間をおいてお茶で唇をしめらせた。アイコンタクトのあと、語気をやや強めて話しを続けた。
内田明は、心に傷を負ったまま少年期を過ごし、暗い表情のまま高校を卒業した。内田夫妻も本当に献身的であったが、明の心の氷は決して溶けることはなかった。高校卒業と同時に家を出ると、今のアパートで暮らし始めた。心配して尋ねてくる養親である内田夫妻には、どんな時でも笑顔を絶やすことなく接している。それが逆に明の心の影を感じさせる。
一人暮らしを始めてから、ますます引きこもるようになった。生活費は、明あての遺産を弁護士の鈴木が管理しており、毎月一定の金額の振込みがある。特別に必要な時には、申し出れば振込まれるようになっているが、ほとんど外出しないために、その必要もない。
明の暮らしぶりは、規則正しく、清掃もいき届き、アパートの入口の通路から玄関の前までいつも綺麗に掃除していた。毎朝6時に起き、昼食も夕食も決まった時刻にとり、就寝も午前0時には必ずベッドに入っていた。幼い頃から他人の家を転々とさせられた習慣なのであろう。養子として内田夫妻に引き取られたあとも、その頃の体験がトラウマとなっていた。キチッとした手のかからない良い子でいることが安心して生活をする術だと思い込まされていたのである。
明は、一日中パソコンに向かっていた。たしかに、規則正しい暮らしぶりであるが、引きこもっていることには変わりない。友達の居ない明にとってはネットだけが、唯一の世の中とのパイプだった。
明は、鈴木の事務所に必ず2度メールを送る。それは、鈴木との約束であった。
鈴木は明が幼少の頃に2度会っていた。最初は、生まれてまもないとき、2度目は伯父の家に預けられていたとき。養子に入ってからは、月に1度。大神武の顧問弁護士であり個人的にも親交が深かったため、仕事である以上に気にかけていた。もちろん、遺言執行者としての立場と、大神家の顧問弁護士としての職務をも兼ねている。
鈴木は礼子に、一日に2度送られてくる、メールの記録を見せた。
「どうぞ、半年前からの記録ですが。……大丈夫ですよ。この通信記録は公開を前提にしてますから。本人も承知してます。」
「はぁ……」
礼子は、パラパラとその通信記録に目を通した。メールのほとんどが1行で、朝は『おはようございます』。夜は『おやすみなさい』だった。しかも、毎日計ったように同じ時刻。5ヶ月前、4ヶ月前、3ヶ月前と見ていくと、次第に2行になり3行になり、近況を綴るようになってきた。
「どう思いますか?」
礼子は返事に戸惑っていたが、
「で、これと私がなんの関係があるのですか?」
と、思ったことをそのまま尋ねた。
鈴木は、あらたまって礼子の目を見て切り出した。
「気を悪くなさらないで下さい。まず第一に私どもは、あなたが遺産を目的に彼に近づいたのでは。と、疑ってました。」
「はぁ――。」
礼子の顔色が変わった。
「それは、大変申し訳なかったと思います。調査をして、また、今日お会いして我々の思い違いだと確信いたしました。」
鈴木は、更に礼子の目を見据えていた。愛想笑いが、まだ疑いの余地を残していることを物語っていた。
「それで、先ほどお見せした通信記録ですが。最近のメールで、あなたと旅行に行く計画を練っていると、書いてあったでしょう。そういう事実は?」
「あ、はい。たしかにそうです。旅行に行こうと……。まだ計画段階で……。」
鈴木は、ニコッと笑って、
「その件で来ていただいたんです。」
「え! そのことだったんだすか?」
「はい、旅行のことなんですが、これから言う二つの約束を、守ってもらうことを条件とさせていただきますが。よろしいですか。」
礼子は、そんなことよりも、遺産狙いで近づいたと思われていたことが、腹立たしかった。
(きっと、まだうたがっているわ……)
「二つの約束ってなんですか?」
と、不機嫌そうに尋ねた。
「一つ目は、一日に必ず2度連絡を入れること。電話でもメールでも構いません。二つ目は、その際に何処に居て、次は何処に行く予定なのかを知らせること。」
「そ、それだけですか?」
「そうです。」
鈴木は事務的な態度で、
「では、出発の日時などが決まりましたら、事前に連絡をお願いします。」
「あ、はい。」
「それから、費用は明君が全部出すと言ってますので。」
「あ、いえ。私も、ちゃんと出しますから……。」
(遺産狙いなんかと思われたんだから、お金のことはちゃんとしないと)
「いえ、必要な費用は用意いたしますので、使い道を報告して下さい。」
鈴木のたたみかけるような言い方に、少しムッとしながら返事をした。
「はい。」
そんな礼子を気にもせずに続ける。
「それと、私の個人的な意見ですので、忘れていただいて結構ですが、先ほどのメールの記録をお見せした通り、彼はあなたと知りあってからずいぶんと前向きになりました。あんなに、ふさぎ込んでいた彼が。私あてのメールでも近況を綴ってくるなんて。今迄なかったことです。彼は、あなたと出会い、あなたを通じて変わろうとしているのでは……と、思えてならないのです。」
鈴木の態度がさっきの事務的な態度から変わっていた。
(このおじさんも、やっぱり優しい良い人なんだ)
「明くんをよろしく頼みます。」
礼子に向かって頭を下げていた。
「はい……。」
礼子は、何かを背負わされたような気がして心が重かった。
(だって、旅の目的地は……。)
礼子と明の計画した旅の目的は……。その目的地は、礼子の死への旅立ちの地だった。
(私の旅の目的は、自殺をするための場所探しなのに……)