前編
2052.5.29
☆ ☆
井ノ下琴絵はEX-8000、通称エクサメットを装着してネットの海を放浪していた。
このメットは誕生日に買ってもらったお気に入りである。今の時代、ネットサーフィンにメットは欠かせない。外部の雑音や無駄な視覚情報を一切遮断し、自分だけの世界に没入することができる。
琴絵が最近気に入っているのは、音楽や動画を無料で再生できるサイトだった。公式配信だけでなく、ユーザー個々人が自作の動画をアップすることもできる。琴絵の友人もいくつか動画を製作していた。彼女自身は、自分の好きなアイドルグループのライブやPVの動画を巡回するのが至福の時間だった。大学一年生にもなって、とよく言われるが、このミーハー嗜好は死ぬまで続くだろうと自覚している琴絵である。
「う~ん、やっぱり疑似ライブ動画は世紀の発明だよね~」
驚くなかれ、この「疑似ライブ動画」、メットで360度の視界を確保することで、本物のライブに参加しているかのような感覚に浸ることができる優れモノである。サラウンド機能をふんだんに利用した立体音響は、下手したらそこらのライブハウスをはるかにしのぐ。
今日も一通りライブを満喫した琴絵は、暇つぶしに面白い動画を探しサイトの巡回を始めた。もしかしたら友人が何かまたアップしているかもしれない。そう思い、何気なく友人のハンドルネームで検索してみる。カタカタカタ、と目には見えない手元のキーボードが軽快な音を立てた。
エンターキーを押すと一瞬で何十という動画のサムネイルが表示される。その多くは友人のライブ動画など当たり障りのないものだったが、その中に妙に目に留まるものがあった。
「あれ? これって……」
それは琴絵のよく知る友人、仮に名前をY子としよう、彼女が下着姿で映っている画像だった。なんだ、これは? Y子が製作した動画だろうか。不審に思った琴絵は実際にクリックして動画を再生する。それはまぎれもなく、Y子の着替えの映像であった。部屋の中で上着を脱ぎ、下着姿になったのち、パジャマに着替える一部始終を、真横から余すところなく映している映像だ。投稿者名は「マスク・ザ・タートル」となっている。
「何……、これ……」
あの子、何やっているんだろう。まさか、怪しい商売に手を染めたのでは。不安になった琴絵は、もう一度動画を再生する。
しかし、琴絵は妙な事に気付いた。彼女はどうやらカメラを全く意識していないようなのだ。そこにカメラが存在していることすら知らないかのように、鼻歌さえ歌っている。
「これって、まさか……」
盗撮映像……?
じんわりと背中に嫌な汗がにじむのを感じた。琴絵はさらに関連動画を検索する。すると、似たような内容の動画が次々に現れた。若い女性たちが着替えをしたり、部屋でくつろいでいるような映像。読むだに吐き気のするような、下卑たコメントが数多くついている。琴絵は震える手を必死に抑えながら、カーソルを動かしていった。
そして、ただでさえ目を疑う光景が広がっているリストの最後尾に、極めつけの動画を発見する。一人の若い女性が、体育館の更衣室で下着姿になっていく映像。
「うそ、これって……この、着替えしてるのって、もしかして……」
――私?
井ノ下琴絵は失神した。
☆ ☆
2052.5.30
☆ ☆
「なるほどなるほど」
天王寺ミハルはメモを取りながら頷いた。いかにも探偵っぽい鳥撃ち帽を被ってみてはいるが、頭が小さいのでぶかぶかだ。残念ながらこれより小さいサイズが無かったのだ。
「ねえ、ミハルちゃん。これって犯罪だよね……」
消え入りそうな、震える声で琴絵が訴えかける。見るともうすっかり涙目だ。かわいい。ううん、じゃなくて、こんなに気が小さくてか弱い琴絵ちゃんを盗撮するだなんて、絶対に許せない。ミハルは思った。
「もちろん犯罪に決まってるよ! というか琴絵ちゃんを泣かせた時点でもうそいつは死刑確定だからね。私がやるから間違いない」
「いやミハルちゃん、そういうことじゃなくて……」
ここは私立C大学、電脳科学研究科の一室である。別名「裏沢深夜探偵事務所C大支所」。ミハルが勝手に名付けた。
私立C大学一回生であるところの井ノ下琴絵は、同じくC大学一回生であるミハルが所属する研究室へと、今回の事件について相談に来たのだった。ミハルだけではなく、この研究室には彼女の信頼する有能なる先輩たちが多く出入りする。
ちなみに天王寺ミハルは天才少女との呼び声の高い私立探偵、裏沢深夜の助手である(自称)。ただ、残念な事に一番頼りになる深夜は現在、操作を依頼された事件があるとかでアメリカへ飛んでいた。他の先輩たちもそれぞれに忙しいらしく、今研究室には琴絵とミハル、そして酷く無口なメガネ女子、同じく一回生の本条まりもの三人しかいなかった。そしてまりもは話を聞いているのかいないのか、ずっとパソコンにかじりついて何かやっている。友だちの一大事なんだから、もうちょっと真剣に話を聞いてくれてもいいのに、とミハルはちょっと悲しい気がした。
「そのY子ちゃんも琴絵ちゃんも、ビデオを撮られた覚えはないんだよね?」
「うん、もちろんそんなことされてたら着替えなんてしないし、そもそも私ビデオとか撮られるの嫌いだもん……」
「ううん、だとするとどこかにカメラが仕掛けられていたとしか……」
琴絵の着替えが撮影されていたのは、大学付属の体育館の更衣室だった。かなり古い体育館で、更衣室には使い古しのボールやらマットやら机やら、果てはテレビまでもが隅に寄せて置いてあったため、カメラを隠すスペースには事欠かなかった。
「Y子ちゃんは家の中に隠しカメラを置かれていたことになるんだね。そうなると、犯人は彼女の家の中に忍び込んでカメラをしかけたわけだ。うわ、怖っ!」
「Y子ちゃんは実家暮らしだから、たいてい家にはお母さんがいるらしいし、その、たぶん忍び込んでカメラをしかけるのは無理だと思う……。かなりセキュリティがしっかりしてるおうちだし。だから、普通ならあれは自分で撮ったとしか思えないんだけど……」
「あるいはY子ちゃんの部屋に入ることができる、Y子ちゃんにとって親しい者の犯行、か……」
「でもでも、他にもこういうビデオは何件もアップされてるし、たぶんY子ちゃんは関係ないよ。何か特別な、手口があるんだと思うよ……」
「なるほどねー。とんでもない奴だね! そのマスク・ザ・タートルってのは!」
「そういえばミハルちゃん、マスク・ザってどういう意味だろう?」
「さあ」
「『マスクを被った亀』という意味」
それまで黙ってキーボードを打っていたまりもがぼそりと口を開いた。手は止まっていないし、視線をミハルたちによこすこともない。
「犯人は、のぞき行為の別名、『出歯亀』とかけて自らをマスク・ザ・タートル、つまり亀男と名乗っているのだと思われる。ちなみに出歯亀という言葉自体は、江戸時代に助平で有名だった男、『出っ歯の亀太郎』から来ているため、実際には亀とは直接関係はないのだけれど」
「へぇ~。さすがまりもちゃん」
ミハルがふんふんと感心する。どっちにしろ変な名前である。琴絵が心配そうにこっちを見ていた。
「ねえ、ミハルちゃん、これってやっぱり警察の人に届けた方がいいのかなぁ」
「そうだねー、どっちにしろ私たちが届けなくても、被害者の女の子のうち誰かが届けると思うし……。警察が情報をたどればすぐに犯人に行きつくんじゃないかな。……むー、だけど、それにしても許せない! 私の琴絵ちゃんを晒しものにするなんて!」
「え、ええと、私ってミハルちゃんのものだったんだ……」
「確かに警察に届ければ操作を開始してはくれるだろう。だが、この動画はすでにネットに乗ってしまった以上、消えることはないかもしれない。誰かが保存していて、またいつそれが人々の間で受け渡しされるかわからない」
「そ、そそそ、そんなぁ……」
じわぁ。琴絵の目に見る見る涙が溜まっていく。かわいい。じゃなくて、こんな純粋な琴絵ちゃんをこんなにも悲しませるなんて、本当に本当に許せない。悪辣非道とはまさにこのことだ。ミハルは思った。
「あーっ、やっぱり許せない! まりもちゃん、なんとか犯人の足跡はたどれないの? 私自ら一発パンチを食らわせてやらなきゃ気がすまないよ! キーッ!!」
「今やってみてはいる。だけど、おそらくは無駄。相手はなかなかのキレ者らしい。足のつかないアカウントで動画を投稿している」
「むむう、敵もさるもの、ってやつだね」
「そんなところ」
ちなみに彼女、本条まりもは、プロ顔負けのハッカーである(自称)。まあ本当にハッキングができるかどうかはともかくとして、この中でネット事情に一番詳しいことに間違いはない。この事件の捜査には、彼女の腕が不可欠だ。たぶん。
「とにかく、次の被害者が出ないように、この『マスク・ザ・タートル』のアカウントは運営に報告しておく。警察にも被害届を出す。そしてできる限り、奴が逃亡する前に、このアカウントから得られる情報を得ておく。同意を」
「おおお~、なんかすごい、まりもちゃん本物の捜査官みたい~……」
「ふふん」
満足げな顔をするまりも。なんとなく機械じみている彼女だが、やはり褒められると嬉しいらしい。彼女の指は、口の動きをはるかに凌駕するスピードで英数字を紡いでゆく。ミハルと琴絵は、その手際に感嘆のため息をもらしながら、彼女の作業を見守っていた。
「んっ」
突然まりもが低い声を上げた。
「どうしたの、まりもちゃん?」
「気付かれた」
画面に物凄いスピードでコードが並んでゆく。明らかにまりもが打ったものではない。ミハルは背筋を冷たいものが這っていくかのような感覚を覚えた。このネットの先に、誰かがいるのだ。
「強制終了をする」
「え、えっと、電源を引き抜けばいいのかな?」
「お願い。LANケーブルも全部取って」
「わかった! 任せて!」
ミハルは力の限り、目についたコードというコードをぶち抜いた。だが、一向に画面が消える気配はない。
「どういうこと……、残留電源の消費モードに切り替わっているとしても、ネットへの接続は絶ったはず」
カタカタカタカタカタカタ。依然として数字列は打ちだされ続ける。ミハルはなんだか怖くなり、琴絵とはっしと抱き合ってその光景を見守っていた。
カタカタカタカタカタカタカタ。
「まだ? まだ電源が切れないの?」
「この型のパソコンなら残留電源は20秒程度で消費し切る。あとせいぜい10秒程度」
カタカタカタカタカタカタカタカタ。
「怖い……、は、早く!」
カタカタカタカタカタカタカタカタ。
5、4、3。
カタカタカタカタカタカタカタカタ。
2、1。
カチッ。
パソコンの画面がブラックアウトする瞬間、そこには何かが映し出された。
ミハルの目に狂いが無ければ、それは、たった今、このPCを覗き込んでいた、3人の顔。
「なっ……、わ、私たち?」
ギュゥーン。
やっとのことで電源が落ちた。ミハルと琴絵はヘナヘナとその場に崩れ落ちる。
「い、今の、なんだったのぉ……」
すでに琴絵はポロポロと涙を流していた。多少のことでは動じないミハルも、先ほどの、自分たちを映した映像にはぞっとした。まるで、パソコンの向こうから、「マスク・ザ・タートル」が、こちらの様子を舐めまわすように見つめているような、そんな気持ち悪さが全身をねっとりと包んでいた。
「……やられた。さっきのコード……」
「え、ど、どうしたのまりもちゃん?」
恐る恐るミハルが尋ねる。普段は表情らしい表情のないまりもが、珍しく険しい顔をしていた。
「奴はコードで私にメッセージを送っていた。ハッキングの手際の良さに対する賞賛と、さらに上をいく自分の腕の誇示。最後に奴は言った。『お前たち全員の顔を覚えたぞ』と」
「ええっ!?」
「そ、それじゃあやっぱり、この部屋のどこかにも監視カメラが……」
「あり得る……。私たちが向こうを調べる以前から向こうがこちらを警戒していたとすれば、タダ者じゃない」
「ひ、ひいいいいっ」
琴絵だけでなく、ミハルもすっかり涙目になってしまった。まさか深夜のいない間に、こんなとんでもない化け物を相手にする事態に陥るとは。ミハルは自分の不運さを呪った。
その時、トントン、と扉をノックする音が響いた。ミハルと琴絵は揃って3センチほど飛び上がった。なんだ、来たのか。もう来たのか、マスク・ザ・タートル。こっちにゃ覚悟も何もできてないぞ。でも来るなら来いや、こんちくしょう!
破れかぶれで扉に向かってファイティングポーズ。だが、予想に反して、扉の向こうから聞こえてきたのは「いるのか? 入るぞ~」という呑気な聞き慣れた声だった。
「あ、陽先輩だ」
陽先輩というのは、ミハルの先輩である大学2回生、水無口陽一のことである。ミハルは全身の力が一気に抜けるのを感じた。
「開けるぞ~、って、何だ何だ。なんで真っ昼間からそんなジャッキー・チェンみたいなポーズをとってるんだ。ミハル」
「なんで陽先輩は……、いつもいつも大事な時にいないんですか~!?」
「う、うわわ!? 何だよ、何があったんだ!? おい、琴絵さん、まりも、説明してくれよ、どうしちゃったんだよこいつは!?」
ミハルが陽一に飛びかかっていく。ようやく室内に弛緩した空気が漂った。
「……なるほどなぁ、そいつは手強いな」
その晩、ミハルは衛星通信で裏沢深夜と会話していた。テレビ電話なので、多少画質が荒くはあるが、ともあれ深夜の顔を見て会話ができている。ほんの数週間会っていないだけなのに、もうずいぶんと離れ離れになっている気がした。
ちなみにメットを用いれば、より鮮明に、まるで目の前に相手がいるかのような臨場感をもって通信会話が可能なのだが、昼間のことがあったせいで、メットを被ってネットの世界に浸るのは気が進まなかったのだ。
「結局、研究室から隠しカメラは見当たりませんでした。マスク・ザ・タートルがどこから私たちを撮影したかも不明です」
「ふぅん。警察にも届けたんだろうな」
「もちろん届けましたけど、結局届ける前に逃げられちゃいまして。動画もアカウントも削除されていましたし、まりもちゃんが保存していた証拠もすべて破壊されていました。おかげで、事件の存在を示す手掛かりは私たちの証言のみ。警察の人たちもちょっと困ってる様子で、陽先輩も色々と警察の人に説明はしてくれたんですけど……正直、完全に敗北した気分です! 今回の敵は、かなりの腕を持つハッカーでもあるようですよ~」
「そのようだな。私がいなくて本当に大丈夫か?」
「正直言うと、深夜先輩にはいてほしいですけど……」
ミハルは思わず弱気な声を漏らす。この十年に一度現れるか現れないかの天才少女・裏沢深夜は、いつでもミハルにとって頼りになる先輩だったし、誰よりもカッコイイ、憧れの存在だった。
だけど、そんな彼女に憧れているからこそ、いつまでも彼女の背中を追いかけているだけではいけない。いつまでも、彼女の超人的な能力にぶら下がるような、助手の立場に甘んじていてはいけない。そんな焦りもミハルの中には生まれていた。
「…………大丈夫です。今回は私一人で、琴絵ちゃんを守って見せます」
「お、いい心がけだ。師匠として嬉しいぞ」
深夜は画面の向こうでニコニコしている。ああ、たとえ手を貸してくれなくとも、今この笑顔がすぐそばにあったとしたら、どんなにか力強いだろう。
やっぱり、心細いものは心細い。だけど、やるしかない。
「私はもう1週間はこちらを動けない。今私が手掛けている事件もなかなか興味深いものでな。申し訳ないが、そちらは君たちだけで何とかしてくれ。――無事を祈ってるぞ。それじゃあな」
あっけなく二人の通信は終わった。もう少し話していたかった気もするが、忙しそうな深夜の邪魔をしたくもなかった。とにかく、こちらのことはこちらで何とかするしかない。その晩、ミハルは頭の中を色々な事が渦巻いて、なかなか寝付くことができなかった。