あの日の君
空のオレンジ色がアスファルトの水溜りに浮かんでいる。
朝から降り続いていた雨は放課後にはすっかり止んでいた。
寸劇での約束は無効。期待していた分、落ち込んてしまう。
(まあ、付き合っいるって関係でもないし、ましてや今日が初対面なんだから
いきなり一緒に帰るなんて出来過ぎた話だよな。)
それにしても、なんだかさっきから背中がツンツン痛い。
「正人、先に帰ったんじゃないのか。もうやめてくれ。痛い。」
僕はムッとして言ったつもりだが、正人はやめようとしない。
「騒ぐな…、騒いだらこいつでお前の背中を突き刺すぞ!」
僕の背中からハスキーな低い女性の声がした。それは正人の声ではない。
「そのまま正門へ向かって歩け。絶対に後ろを向くんじゃねぇぞ!」
僕はビクッとして女の声に従いゆっくりと前へ進んだ。一歩、二歩、三 歩、四歩…ん?
クスクスという笑い声に思わず後ろを振り向いてしまった。
「もしかして、水瀬、さん…?」
彼女は口元に指先を当ててクスクスと笑い続けていた。そして残念そうに、かつ、
かわいらしく文句を言った。
「もー、なんでこっちむいちゃうのよー。とってもスリリングだったのにぃ。もうもうっ!!」
彼女からしてみれば、この『寸劇』はスリリングだったかもしれないが、
僕にとってはこんなに至近距離で水瀬さんと向かい合っていることがスリリングでたまらない。
僕は緊張のあまり暫く言葉を失ってしまった。少しだけ沈黙が続く…。
水瀬さんが心配そうに僕に言った。
「ごめんなさい、怒っちゃった? 」
「あ、いや、そんな、怒ってなんかないよ。ちょっとびっくりしちゃって。
まさか雨上がってるのに水瀬さんと会えるなんて思ってなかったから。」
僕はやっと言葉らしい言葉を発することができて、少しだけ緊張がとけた。
でも彼女は僕の言ったことに対して不思議そうな顔をして言った。
「そういえば、どうして私の名前、知ってるの?
確か、今朝会ったときは名前を言っていないはずだけど。
もしかして同じ中学だった?
それとも近所に住んでるとか? あー、でもこれは違うかな。
近所に住んでれば同じ中学に通ってたと思うし。だとしたら、
実は過去に何らかの理由で引き裂かれた兄妹とか?
そして二人は運命の再開を果たしたのね。素敵だわー。」
どこをどうすればそのありきたりな韓流ドラマみたいな話に結びつくのか…。
(水瀬さんって結構面白い人だな)。
でも、聞いてもいないのに名前を知っているのは確かにおかしな話だ。
ストーカーなどと勘違い されてはたまったものじゃない。
僕は自分の名前と、なぜ水瀬さんの名前を知っているかを伝えることにした。
でも、僕がしゃべりだそうとしたそのとき、水瀬さんは「あ!」と何か閃いた顔をして言った。
「分かったわ。君は超能力者よ。きっと相手が何も言わなくてもわかるんだ。
名前なんか簡単に分かっちゃうんだね。すごいすごい! もしかして私の心の中、覗かれてる…」
覗けるものなら覗きたい。彼女は僕をからかっているのか? それとも単にこういう性格なのか?
「あの、自己紹介してもいいかな?」
「え、ああ、そうね。私は超能力者じゃないから君の名前わからないものね。 名前、教えて。」
「葛西雄輝。僕が君の名前を知っているのは友達から聞いたからなんだ。
敢えて言っておくけど僕は超能力者じゃないからね。」
「ごめんなさい、変なこと言ったね。お友達から聞いてるなら言わなくても分かると思うけど、
言うね。私は水瀬紗希。よろしくね。」
と言って彼女はスッと右手を僕に差し出した。僕の身体に再びスリリングな感覚が走った。
握手だよな。今日初めて会ったばかりだよな。なのにこんな自然に…。
気付けば僕の手のひらは汗でびっしょりになっていた。
急いで制服のズボンの腰のあたりで手のひらを拭き、水瀬さんの右手に触れた。
すると、水瀬さんの右手が僕の右手をにぎって握手の形になった。
「よろしくね。葛西くん。」
「よ、よろしく。」
握手なんて、今までの人生でしたことがあるだろうか?
欧米では日常茶飯事なのだろうが(←勝手な想像)。
そんな握手を水瀬さんと…。僕は水瀬さんに近づけた気がした。
◇
「葛西くんの家はどっち?」
「こっちの方だけど。」
「じゃあ方向は同じね。一緒に帰ろっか。」
これは夢かと疑った。現実だとしてもうまく出来過ぎた話だ。
もしかして正人が水瀬さんに仕込んだのか? これは罠か?
「どうしたの? やっぱりだめかな?」
水瀬さんは困った顔をして言った。だけど僕はこの状況が本物かどうかを確かめたくなった。
「水瀬さん…。水瀬さんは今日初めて会った男と一緒に帰るのは平気なの?
一緒に帰るにしても女の子と帰ったりするのが普通だと思うんだけど。どうして僕なの?」
水瀬さんはさらに困った顔をして言った。
「男の子とか女の子とか、そういうの、関係ないと思うの。葛西くんは面白そうだし、
たくさんおしゃべりできたらお友達になれるかなぁと思って。
葛西くんが迷惑だったらごめんなさい。私、ひとりで帰るから。」
「いや、そんな迷惑だなんて、そんなこと思ってないよ。嬉しいよ!!
すごく嬉しいよ。だって入学早々、こんな可愛い女の子と知り合えて、
いきなり一緒に帰ろうなんて言われたら嬉しいに決まってるじゃないか。
ていうか、朝出会ってから今まで水瀬さんのことで頭がいっぱいだったよ。」
思わず恥ずかしいことを口走ってしまった。
しまった!と思ったが、その心配は水瀬さんの笑顔で吹き飛んだ。
「可愛いだなんて言い過ぎよ。でも良かった。そんな風に思ってくれてたんだ。
ありがと。一緒に…、帰ってくれる?」
僕が大きく頷くと、水瀬さんはホッとした様子を見せた。
ゆっくりと夕日のなかを歩きながら僕は今朝の傘のことを話題にした。
「水瀬さんの傘、折れて残念だったね。」
「そうなの。あれ、すっごくお気に入りの傘だったんだ。中学二年のとき、ある人にもらったの。」
「ある人って?」
僕は『ある人』に反応してしまった。家族か? いや、違う。家族なら『お父さん』とか
『お兄ちゃん』とか言うはず。なのになぜ『ある人』と表現するのか?
「もらったと言うのは少し違うかな。正確には『貸してもらった』の。…んっ?
もしかして『ある人』って言うのが気になった? 」
「うん、かなり気になる。」
「試合が終わって帰ろうとしたら突然雨が降ってきてね。あ、試合っていうのは水泳の試合のこと。
私、中学の頃は水泳部だったから。天気予報では晴れだって言ってたから傘は持ってこなかったの。
スコールって感じの雨だったからすぐに止むかと思ってたんだけど全く止んでくれないの。
すごく困ったわ。そしたら、ある男の子が『僕は折り畳み傘があるからこれ使いなよ』
って言って私にこの青い傘を貸してくれたの。感激のあまり名前聞くの忘れてしまって。
お礼をしようと思ってもどこの誰か分からなくて。男の子に会ったのもその日が最初で最後。
せめてこの傘は大切に使わなくちゃって思って。すごく残念。折れちゃった。」
一本だけ骨のぶら下がった傘。思い出というものはこうもカンタンに壊れてしまうものなのか。
水瀬さんの切なさが僕にも伝わってきた。このあと、この青い傘はどういう運命を辿るんだろか。
「水瀬さん、その傘どうするの?」
「あの日の男の子にお礼を言ってから、どうするか決める。」
「でも、その男の子がどこの誰なのかが分からないんだよね。どうやってお礼をいうの?」
「探そうと、思う。」
「探そうったって手掛かりも何もないんじゃ難しくないかな。顔は憶えてるの?」
「うーん…。憶えてるような、憶えていないような…。」
じーっと、水瀬さんは僕の顔を見つめた。そんなに大きな可愛い目で見つめられるとかなりヤバイ。
僕は顔が熱くなり、手のひらは再び汗ばんできた。
「ぼ、僕も、その男の子探すの協力するよ。」
僕がその言葉を発した瞬間、水瀬さんの顔が不機嫌になった。
「君、憶えてないの?」
「え、どういう、こと?」
「まだ気付いてくれないかな。どういうことも、こういうことも、この傘を貸してくれたのは君だよ。
憶えてないの?あの日のこと。」
あの日のことと言われても、全く記憶にない。僕が中学二年のころは陸上部で、
確かに水泳部とは仲良かったけど、違う中学の水泳部の水瀬さんとは接点がない。
昔、青い傘は使っていたが、それを誰かに貸した記憶はない。非常に気まずい雰囲気になってきた。
僕の忘れっぽい性格が水瀬さんを傷つけている? いや、僕はそもそも忘れっぽいか?
と悩んでいる横で、水瀬さんは急にニッコリと微笑んだ。
「葛西くんが思いだしてくれるまでこの傘は大切にしておくね。今日は本当にありがとう。
私の家はこっちの方だから。また、明日、学校でね。」
少し悪いあと味を残しながら、軽くサヨナラをして僕たちはそれぞれの帰り道へと別れた。
僕と水瀬さんは過去に接点があった?
中学二年。水泳の試合。スコール。青い傘。
これらが水瀬さんと僕を結びつけるキーワード…。
昔の事を思い出そうとしているうちに、空のオレンジ色はすっかりその姿を変え、
夜の闇がすっぽりと覆いかぶさろうとしていた。