火事で父と家を失った娘は、目打ち一本で草履屋に居場所を得ました
熱い、と口にする前に、右足が裸になった。ぷつん、と切れた前坪が火の粉を散らし、草履だけが燃える板戸の前へ置いていかれた。
つぐみは片方だけ草履を履いた足で走った。父が昼間に挿げてくれた緒だったのに、役に立ったのは表へ出るまでの十歩ほどで、鼻緒というものは案外、恩を忘れるのが早い。
「お父っつぁん!」
返ったのは、梁の折れる音だった。つぐみは戻りかけ、倒れた道具箱の口から一本だけ転がった目打ちを拾い、そのまま表へ押し出された。
家は焼けた。父は戻らなかった。
ひと月たっても、つぐみは人の顔より先に足元を見た。焼け出されても、その癖だけは焼け残ったらしい。ありがたくない残存品である。
前を行く男は右の踵を外へ逃がし、井戸端の女は左の前坪ばかりを潰している。あの締め方では三日で皮が剥ける、あちらは緒が緩すぎて坂で脱げる——勝手に目が拾うくせに、直してやろうとは思えなかった。
懐には、焦げて縮んだ前坪が入っていた。逃げたあと、裸の右足で道へ戻り、灰の端から拾ったものだ。取り出せば煤が指につくので、確かめるのは日に一度まで。一度でも多い。わかっていて毎日やる。
もう片方の手には、父の目打ちがあった。柄は煤けても先はまっすぐで、つぐみよりよほど、これから何をするか知っている顔をしている。
その朝、目打ちに連れられて着いたのは、古い草履屋の前だった。軒から下がる草履は日に焼け、店先の端には、売られるのを忘れたようなひと足が斜めに重なっている。
つぐみは敷居の外で足を止めた。店の奥から、白い頭がひょいと出た。
「買うのかい」
「買う銭はありません」
「そうかい」
白い頭は引っ込んだ。追い払われたものと思って三歩離れたところで、また声がした。
「粥ならあるよ」
つぐみの腹が返事をした。人間の口より、腹のほうが世渡りに向いている。
* * *
老婆は葛と名乗り、欠けた椀につぐみの分の粥をよそった。芋の端が二つ入っていたので、これはただの湯ではない。芋二つぶん、たいへん立派な朝飯である。
「名は」
「つぐみです」
「そうかい」
葛が尋ねたのは、それだけだった。どこが焼けたとも、誰を亡くしたとも、昨夜どこで寝たとも聞かない。つぐみは用意していた短い答えを、ひとつも使えずに粥と一緒に飲み込んだ。
問い詰められるより、よほど落ち着かない。値のついていない親切は、いくら返せばよいかわからないのだ。麻一束か、藺草二把か、それとも一生か。相場表が欲しい。
粥が空になると、葛は奥の戸を顎で示した。開ければ三畳の間に、畳んだ布団と小さな行灯が置いてある。
「今夜だけ、でしょうか」
「さあね」
「では、三日ほど」
「好きにおし」
葛はもう銭箱のほうを向いていた。受けた恩の勘定を始める隙すら与えないとは、商いとしてかなり乱暴である。
店先には草履が積まれていた。編みのよいものもあれば、日に焼けたものもある。どれも緒が固く、前坪を指で押しても、干した餅のように戻ってこない。
「これ、売り物ですか」
「ひと足二十四文」
「全部?」
「値は同じだよ」
つぐみは積まれた草履を見た。二十四文が十年ぶん。麻なら何束になるのか、藺草なら何把になるのか、粥なら芋がいくつ浮くのか。数えかけてやめた。数えたところで固い前坪はやわらかくならない。
葛はひと足を持ち上げようとして、隣のひと足まで崩した。指先が草履を探り、目はその少し手前を見ている。
「目が霞むんだよ。緒までは見えない」
それきり葛は、崩れた草履を積み直した。手探りで向きを揃え、崩れる前と同じところへ、同じように置く。
店は開いている。けれど草履は、客の足へ出ていかない。
つぐみは懐の前坪を指で押さえた。こちらは焦げて縮み、店のものは古びて固い。似た者同士を並べても、一文にもならなそうだった。
夜、奥の三畳に横になると、敷居の向こうから葛の咳が一度だけ聞こえた。つぐみは目打ちを枕元に置き、懐の前坪は出さなかった。
明日の朝には出ていこう。そう決めたのに、腹はもう、次の粥の芋を数えていた。
* * *
翌朝、つぐみは店先の草履を一足ずつ裏返した。編み目、台の厚み、緒の傷み。十年ぶんを直す気はない。そんな大仕事を引き受けたら、三畳の借り賃が一生ものになってしまう。
いちばん軽く、台がまだ乾き切っていないひと足を選んだ。失敗しても、一人ぶんで済む。朝からたいへん後ろ向きだが、後ろを確かめるのも職人の仕事である。
つぐみは古い前坪の結び目を解いた。固まった緒を少しずつ抜き、草履の穴へ目打ちを差す。父の柄は手の中に収まり、先だけが迷わず藺草を分けた。
新しい緒は店の隅の箱にあった。麻は古くても芯まで死んでいない。つぐみは必要な長さを測り、撚りを戻さぬよう指へ掛けた。
前坪を通す。裏で結ぶ。左右の緒を引き、履いたときに親指と人差し指の間へ食い込みすぎない高さまで戻す。父なら一度で決めたところを、つぐみは三度引いて二度緩めた。
四度目を引きそうになり、手を止めた。直しすぎれば緒が痩せる。怖がって触り続ける手ほど、品物には迷惑なものはない。
挿げ終えたひと足を、店先の端へ置いた。ほかの草履とは少し離し、踵をきちんと揃える。そこまでしてから、つぐみは奥へ引っ込んだ。
葛は火鉢の灰をならしていた。こちらを見ないまま言う。
「一足だけかい」
「はい」
「まだあるよ」
「見ればわかります」
むしろ見えすぎて困っている。固い緒が十足あまりも、直せ直せと並んでいるのだ。道具箱一杯の亡霊より始末が悪い。
「どうして一足だけなんだい」
つぐみは目打ちの煤を布で拭いた。先はきれいになったが、柄の黒ずみは落ちなかった。
「わたしの挿げた緒は、いつか切れます」
「草履の緒なら切れるだろうさ」
「わたしのは、早いかもしれません」
「そうかい」
葛は礼も慰めも言わなかった。たったひと足を勝手に直した娘へ、もう一度、火鉢の灰をならす音だけを返した。
つぐみは目打ちを布へ包み、三畳へ戻った。店先の端に草履を置いてきたせいで、自分の指まで表へ置き忘れたように落ち着かない。
もし誰かが履けば、その人の親指の間へ、つぐみの結び目が入る。歩くたびに引かれ、濡れれば締まり、乾けば痩せる。切れたとき、痛むのはつぐみではない。
だから一足だけ。それなら間違えても、一人だ。
朝のうちに、つぐみは勝手口から水を汲みに出た。帰ってきても、端の草履は同じ向きで置かれていた。
よし、と胸の中で言った。何がよいのかは考えないことにした。
* * *
昼を過ぎたころ、一人の客が店先で足を止めた。年嵩の女で、左の草履はまだ厚いのに、右は外側ばかり減っている。
「それ、履いてみてもいいかい」
葛が奥から「勝手におし」と答えた。つぐみは三畳の境まで出て、膝へ置いた布を握った。
女は端の一足へ足を入れ、店先を二歩進んだ。三歩目で右の踵が外へ逃げる。草履はついていこうとして、前坪だけが内へ引かれた。
「右へ倒れて歩きますね」
口が勝手に動いた。つぐみは布を握り直したが、一度出た言葉は緒と違って引き抜けない。
女が振り向いた。
「倒れてるかい、わたしが」
「右の草履だけ、外が減っています。膝ではなく、足首から逃げています」
「見ただけでわかるのかい」
「草履を見ました」
人の顔を見たわけではない。そこは大事だ。顔を見て年や暮らしまで決めつけるような真似は、草履屋の仕事ではない。
女は右足を浮かせ、古い草履の裏を見た。確かに外側だけ薄い。
「このごろ、長く歩くと右の小指が痛むんだよ」
「前坪が内へ寄るからです。こちらを少し締めて、外を逃がせば、ましになります」
「さっき挿げたんじゃないのかい」
「挿げました。足を見ていませんでしたから」
つぐみは草履を受け取り、店先へ座った。目打ちを穴へ入れ、右の横緒をわずかに緩める。左と同じに美しく揃えるより、その足だけに合う不揃いを作った。
「もう一度どうぞ」
女は履き、今度は表を六歩進んだ。右足が外へ倒れかけても、緒が指の根を締めつけずについていく。
「小指が当たらないね」
「草履が治したのではありません。痛ければ休んでください」
「はいはい。娘に叱られたよ」
女は笑い、二十四文を葛へ渡した。葛は銭を数え、いつもの銭箱へ落とす。硬い音がして、店先の端が空いた。
つぐみは空いたところを見ないように、女の古い草履を見た。あれなら緒を挿げ直しても台が先に尽きる。買い替えは正しい。二十四文は正しい。そういう勘定なら、いくらでもできた。
その晩は、葛が粥へ芋を三つ入れた。ひとつ増えたのが売上の取り分なのか、たまたま包丁から逃げた芋なのか、聞くのは野暮というものだ。
翌朝、つぐみは銭箱をそっと開けた。昨日までの銭の上に、二十四文が増えている。
二十四文。麻なら新しい緒を何足ぶんか取り、藺草なら台の継ぎに回せる。粥の芋なら——そこまで数えて、蓋を閉じた。
誰かが履くために払った銭だった。
つぐみは昨日と同じように、草履をひと足だけ選んだ。古い緒を抜き、目打ちで穴を起こし、新しい緒を挿げる。踵を揃え、空いていた端へ置く。
奥へ戻ろうとして、一度だけ前坪を押した。やわらかく沈み、きちんと戻った。
* * *
それからも、つぐみは毎朝ひと足だけ挿げた。翌朝も手が動くなら、もうひと足。それだけだった。
二日目のひと足は夕方までに消えた。三日目は残り、四日目に三日目と四日目の二足が出ていった。誰が誰へ薦めたのか、つぐみは知らないし、葛も言わない。
銭箱には二十四文ずつ増えた。増えるたび、つぐみは麻に換え、藺草に換え、芋に換えた。人の喜びまで値踏みする気はないので、そこから先は勘定外にした。
店先の端だけ、新しい緒の色が並ぶようになった。残っている草履も、前より少し背筋を伸ばして見える。品物に背筋などない。ないが、売れる隣に置かれれば藺草だって見栄を張る。
「おい、つぐみ!」
隣から麦六が入ってきた。声が大きいので、戸を開ける前から来店がわかる。差配の仕事には便利だろうが、朝寝には向かない男である。
麦六はつぐみの手元を見て、眉を寄せた。親指の腹には麻で擦れた赤い筋がつき、古い緒を引いた指先には細かな傷が増えていた。
「そんな仕事はもうおやめ」
結論が先に来た。理由はそのあとから、履き慣れない草履のようについてくる。
「焼け出されたばかりの娘が、朝から晩まで手を傷めることはねえ。葛さん、飯を食わせるなら休ませてやれ。働かせるなんざ——」
「朝から晩までじゃないよ」
葛は銭を数えたまま言った。
「一足だ」
「一足でも同じだ。まだ若いんだ、ほかのことをしたっていいだろう」
つぐみは言い返さなかった。新しい緒の先を撚り、目打ちの開けた穴へ通す。麦六の善意は声が大きく、こちらの返事がなくても、ひとりで部屋いっぱいに育つ。
父も、指を切った日は休めと言った。けれど翌朝になれば道具箱を開け、いちばん軽い仕事をひとつ寄越した。休めと働けは、案外、同じ口から出る。
「聞いてるのか、つぐみ」
つぐみは前坪を裏で結んだ。結び目を台へ収め、緒の高さを確かめる。それから踵を揃え、店先の端へ置いた。
端には昨日の一足がなかった。今朝、つぐみが起きたときにはあったはずなのに、銭箱の蓋はわずかに浮いている。
足元ばかり追っていた目が、一度だけ空へ上がった。軒と軒の間に、洗い立ての布のような青が細く掛かっていた。
「つぐみ?」
麦六の声で、目は店先へ戻った。つぐみは空いた端を指した。
「次が置けます」
「だから、そういう話じゃねえんだよ」
「そうですか」
麦六は口を開け、閉じた。葛は銭箱の蓋をきちんと押さえ、その上へ手を置いた。
翌朝も、つぐみはひと足を選んだ。麦六は止めに来なかったが、隣の戸口から、こちらを見ている大きな影だけはあった。
* * *
数日後、麦六は店先の草履を一足つかんだ。買うとも試すとも言わず、古い草履を脱いで足を入れる。結論を先に出す男が、ようやく自分の足を証人に呼んだらしい。
「それは踵を外へ逃がす人向けです」
「俺は逃がさねえ」
「では隣です。親指へ力を掛ける人向けなので」
「なんでわかる」
「麦六さんの草履は、親指の下だけ薄いです」
麦六は自分の古い草履を裏返した。薄い。声が大きくても、草履の裏までは言いくるめられない。
言われたひと足へ履き替え、店先を往復する。わざと強く踏み、踵をひねり、最後には片足で立った。草履の試し履きというより、橋板の検分である。
つぐみは口を挟まなかった。緒は足へ馴染み、親指の力を台へ逃がしている。結び目も沈まない。自分で確かめたことを、自分でもう一度疑う余地がなくなるまで、麦六に踏んでもらった。
麦六は草履を脱ぎ、前坪を引いた。次に裏返し、台を親指で押す。しばらく眺めたあと、鼻から大きく息を出した。
「これは減らねえな」
褒め言葉としては愛想がない。けれど草履屋には十分だった。
麦六は二十四文を銭箱へ入れた。止めた口で買うのは具合が悪いらしく、葛ともつぐみとも目を合わせず、そのまま隣へ帰っていく。
戸口を出る足は、来たときより静かだった。大声まで草履で直すことはできないので、そこは今後に期待しない。
葛は麦六の出たあと、店先に残る草履を見た。正しくは、霞む目で草履のあるあたりを見た。やがて腰を上げ、両手でひと足を抱える。
重いものではない。それでも葛は、敷居の前で一度持ち直した。
「葛さん」
「ここへ置けばいいのかい」
「端です。踵をこちらへ揃えて」
葛はつぐみの挿げた草履を店先へ運んだ。踵を逆に置き、つぐみの声で向きを直す。最後に前坪を押し、戻る感触を指の腹で確かめた。
「十年ぶりだよ」
葛は草履へ向けて言った。
「あの人がいなくなってから、わたしは店先を見てるだけだった」
礼も慰めも欲しがらない声だった。つぐみは「そうですか」とも言わず、次の古い緒へ指を掛けた。
葛はあの日、哀れだからではなく、十年ぶんの草履をまだ数えている目を見て、つぐみを奥へ上げたのだった。
つぐみは緒を抜いた。目打ちを差し、新しい麻を通す。葛は隣に座り、抜いた古い緒を束ねた。
毎朝ひと足だけだった仕事に、草履を運ぶ手がひとつ増えた。つぐみは数えなかった。数えれば何かの値に換えてしまいそうで、これは換えないほうがよかった。
葛が置いたひと足は、昼まで店先にあった。夕方にはなくなり、端に細い隙間ができた。
翌朝、葛はまた一足を抱えた。今度は踵を間違えずに揃えた。
* * *
半月たった朝、店先が空になった。十年ぶんの草履は一足もなく、軒下には日焼けした棚だけが残っている。
つぐみは棚板を指でなぞった。草履の形に埃の薄いところがあり、その輪郭まで消えるには、もう何度か雨風が要るだろう。
銭箱には二十四文が重なっていた。つぐみの頭なら喜んで麻や藺草へ換える勘定だったのに、その朝は数字が入ってこない。
直す草履はなくなった。粥と三畳の借り賃を返す役目も、これで終わったことになる。
つぐみは奥へ戻り、風呂敷を広げた。替えの着物を畳み、布に包んだ目打ちを置く。持ち物が少ないと旅支度が早い。たいへん便利で、まったく嬉しくない。
焦げて縮んだ前坪は、最後に懐へ残った。これは持っていく。どこへ行くにしても、父と家がなくなった夜を、置き忘れるわけにはいかない。
葛へ声を掛ける前に、風呂敷の端を結んだ。右を結び、左を持ち上げる。いつ出ていくかは考えていたのに、どこへ行くかは考えていなかった。
「何をしてるんだい」
葛が戸口に立っていた。手には粥の椀が二つあり、白い湯気が葛の顔を隠したり戻したりする。
「店先が空きましたから」
「見ればわかるよ」
「わたしの仕事も終わりました」
葛は椀を畳へ置いた。ひとつをつぐみのいつもの場所へ、もうひとつを自分の膝の前へ置く。
風呂敷の結び目に、つぐみの指が掛かった。葛はその手を見ず、粥の湯気を見た。
「ここにいなさい」
つぐみの手が止まった。
葛は重ねなかった。理由も、礼も、これから仕入れる草履の数も言わない。ただ、つぐみの椀へ匙を添えた。
店先は空で、直すものはない。明日になれば新しい荷が来るかもしれないし、来ないかもしれない。緒は濡れれば締まり、乾けば痩せる。父の挿げた緒だって切れた。
「わたしの挿げた緒は、いつか切れます」
「そうだろうね」
「だから、切れたらまた挿げます」
葛は「そうかい」と言って、自分の椀を取った。
参った。引き留めるなら、せめて麻何束ぶん働けと言ってくれればよかったのだ。ここにいろの五文字では、勘定の逃げ場がない。
つぐみは風呂敷の結び目から指を離した。懐へ手を入れ、焦げて縮んだ前坪を取り出す。煤はもうほとんど指につかなかった。
布をほどき、父の目打ちを畳へ置いた。その隣へ、焦げた前坪を置く。
懐へは戻さなかった。
葛の椀からも、つぐみの椀からも湯気が立っていた。今日は芋が二つずつ。合わせて四つなら、昨日までのつぐみは麻の長さへ換えたかもしれない。
つぐみは椀を両手で持った。葛が半分ほどすすっても、まだ口をつけずに持っていた。
「冷めるよ」
「はい」
返事をしてから、つぐみはひと口すすった。芋はやわらかく、粥は熱かった。
目打ちの隣では、焦げた緒が懐へ戻されるのを待っていなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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