静かなる開戦
腐っている。
だが、その匂いを口にする者はいない。
会議室には整った資料が並び、整った言葉が並び、整った責任回避が並ぶ…
「検討します」
「引き続き議論を」
「全社最適の観点で」
それらは一見理性的で穏当だが、実のところ何も決めないための呪文だ。
誰も間違っていない。
誰も責任を負っていない。
だから何も前に進まない。
この会社は負けている。
市場にではない。
競合にでもない。
自分たちの覚悟に負けている。
それに気づいた瞬間から、俺はもう以前の俺ではいられなかった。
皆、分かっている。
数字は落ちている。
顧客は離れ始めている。
若手は静かに転職サイトを見ている。
だが誰も言わない。
生活があるからだ。
家族があるからだ。
人間関係があるからだ。
波風を立てれば、自分が損をする。
沈黙は安全だ。
しかし沈黙は共犯だ。
俺はその沈黙の中で、自分の輪郭が薄れていくのを感じていた。
このままでは、俺もこの会社と同じになる。
腐敗を見ながら、何もできない人間になる。
それが、何よりも怖かった。
敵はどこにいるのか。
競合他社か?
経済環境か?
時代の流れか?
違う。
敵は構造だ。
責任を曖昧にする評価制度。
成果を平等に薄める文化。
挑戦を異端扱いする空気。
失敗を許さないくせに、成功を称えない組織。
本当の敵は“曖昧さ”だ。
俺はノートにそう書いた。
曖昧な目標。
曖昧な評価。
曖昧な責任。
曖昧さは優しい。
だが優しさは、組織を弱くする。
独立とは何か、と考えた。
会社を辞めることか。
起業することか。
違う。
独立とは、評価軸を自分で持つことだ。
上司の顔色ではなく。
会議の空気ではなく。
過去の慣習でもなく。
勝ちの定義を、自分で決めること。
その瞬間、俺は理解した。
会社の中で独立することは可能だ。
そしてそれは、
会社を出るよりもはるかに難しい。
動けば嫌われる。
変えれば叩かれる。
目立てば潰される。
それは分かっている。
だが、何もしないことの方が恐ろしい。
無力に慣れること。
敗北に慣れること。
言い訳に慣れること。
それは緩慢な死だ。
戦争は衝動で始めるものではない。
俺はまず数字を洗った。
利益率。
回転率。
固定費。
人員配置。
評価制度。
感情ではなく、構造を握る。
怒りは一瞬で燃え尽きる。
だが設計は持続する。
夜、帰宅しても眠れなかった。
もし失敗したら?
部下を巻き込むことになる。
孤立するかもしれない。
評価を落とされるかもしれない。
干されるかもしれない。
それでもやるのか。
自分に何度も問いかけた。
答えは変わらない。
やる。
なぜなら、このままでは確実に負けるからだ。
負けを受け入れた組織に未来はない。
翌週の会議。
俺は静かに口を開いた。
「この部署は、今期から評価基準を明確化します。」
一瞬、空気が止まった。
「数字は全員に公開します。
失敗も隠しません。
言い訳は禁止します。」
誰かが小さく笑った。
「そんなの続かないよ」
俺は言った。
「続けるからやるんです。」
怒鳴らなかった。
威圧もしなかった。
反論も求めなかった。
ただ、決めた。
その瞬間、俺は独立した。
辞めたわけではない。
裏切ったわけでもない。
だが従属もしていない。
会社を戦う集団にするため、
俺は会社の中で戦争を始めた。
剣は抜かない。
旗も掲げない。
血も流れない。
だがこれは戦争だ。
敵は曖昧さ。
武器は数字。
戦場は組織。
そして俺はもう、沈黙の共犯者ではない。
これが、静かなる開戦である。




