演説と孤独
(地方都市・市民会館)
市民会館の照明は、少しだけ明るすぎた。
人の顔を、均等に照らすための光だ。
神崎は壇上に立ち、一列目から最後列までを、ゆっくりと見渡した。
高齢者。
子どもを連れた母親。
作業着のまま来た男。
学生らしい若者。
不安の種類は違う。
だが、質は同じだ。
神崎は、マイクを握った。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、本当にありがとうございます。ご紹介に預かった神崎雄介です」
拍手。
この一文に、意味はない。
だが、意味がないからこそ、誰も疑わない。
「今、日本は、多くの課題を抱えています」
課題。
中身を言わなくても成立する、
便利な言葉。
神崎は、少し間を置いた。
「将来への不安、経済の停滞、教育、福祉、地域の衰退…」
観客の表情が、わずかに引き締まる。
来た。
不安を列挙するとき、人は「自分の不安」が呼ばれた瞬間に、無意識に頷く。
「私たちは今、何を信じればいいのか分からない時代に生きています」
ここで、少し声を落とす。
神崎は、この瞬間が一番好きだった。
信じるものがない、という宣言は、次に“信じていい何か”を差し出す前振りになる。
「だからこそ、政治は」
間。
「国民の不安に、寄り添わなければならない」
拍手。
かなり大きい。
神崎は内心で、拍手の強さを数値化していた。
七割。
悪くない。
「不安を切り捨てる政治ではなく、不安を見ないふりをする政治でもなく」
ここで、わずかに言葉を選ぶ。
「不安と共に、前に進む政治です」
拍手。
今度は、確信を含んだ音だった。
神崎は理解している。
この言葉は、何も約束していない。
だが同時に、拒否もしない。
最も安全で、最も人を安心させる言い方だ。
二列目の端に座る若い男は、
拍手をしていなかった。
神崎は、そのことに気づいていた。
拍手をしない人間は、敵ではない。
考えている人間だ。
「私には、魔法のような解決策はありません」
ここで、観客の警戒が一瞬、解ける。
「しかし、一人ひとりの声を聞き、一つひとつの不安を、政治の場に届けることはできます」
拍手。
神崎は、あえて“限界”を口にする。
限界を語る政治家は、誠実に見える。
たとえその限界が、最初から計算されたものでも。
「皆さんの不安は、決して、間違っていません」
この一文で、会場の空気が、完全に神崎側に寄る。
肯定。
不安は、否定されると怒りに変わる。肯定されると、信用になる。
「私は、その不安を引き受けるために、ここに立っています」
大きな拍手。
立ち上がる人もいる。
神崎は、深く一礼した。
完璧だ。
だが、若い男だけは、立たなかった。
彼は、神崎を見ていた。
拍手ではなく、観測する目で。
その視線を受けながら、神崎は思った。
この男は、言葉の意味ではなく、言葉の使い方を聞いている。
そういう人間は、少数だ。
だが、厄介だ。
拍手が鳴り止み、司会者が次の進行を告げる。
神崎は、もう一度だけ、会場を見渡した。
不安は、一時的に静まっている。
それでいい。
それが、今日の仕事だった。
だが、あの若い男の視線だけが、
なぜか、拍手よりも長く残った。
控室は、やけに静かだった。
演説会の後の空気というのは、いつもこうだ。拍手の残響だけが、遅れて壁に張り付いている。
神崎がネクタイを緩めていると、ノックもなくドアが開いた。
「失礼します」
若い男だった。
三十には届いていない。
スーツではない。だが、だらしなさもない。
「どうぞ」
神崎は椅子に腰掛けたまま答えた。
相手は一瞬、立ったまま迷い、それから向かいの椅子に座った。
「僕は高校で倫理を教えています。それと、小さな宗教団体で説教師もしています」
「忙しそうですね」
「ええ。でも、どちらも同じ仕事だと思っています」
神崎は少しだけ興味を持った。
同じ仕事。
「今日は、どういうご用件で?」
若い男は、少し息を吸った。
「あなたの演説を聞いていて、どうしても聞きたいことがありました」
「質問は嫌いじゃありません」
「本当ですか」
「ええ。答えるとは限りませんが」
若い男は苦笑した。
「あなたは、国民の不安に寄り添う政治と言いました」
「言いましたね」
「でも、それは本心ですか?」
神崎は、即答しなかった。
この手の問いは、急ぐと損をする。
「あなたは、どう思いました?」
「…正直に言います」
若い男は、少しだけ声を強くした。
「あなたは、不安を理解している人ではなく、不安を利用できる人に見えました」
神崎は、笑わなかった。
「鋭いですね」
「否定しないんですか」
「否定する理由がありません」
若い男の眉が、わずかに動いた。
「あなたは宗教学を学んだそうですね」
「よく調べていますね」
「宗教は、人を救うためにあると思いますか?」
神崎は、椅子にもたれかかった。
「救われたと感じさせるためにある、と言ったほうが正確でしょう」
「それは、欺瞞です」
「ええ」
即答だった。
「でも、人は欺瞞なしでは生きられない」
若い男は、首を横に振った。
「僕は違うと思います。人は、真実に耐えられる」
「本当に?」
「はい。だから教えています。だから語っています」
神崎は、その言葉を眺めるように聞いた。
若い。だが、薄くはない。
「あなたの生徒は、親の借金も、将来の不安も、世界がどれだけ理不尽かも、全部理解したうえで、毎日笑っていますか?」
若い男は、言葉に詰まった。
「…それでも、嘘を与えるよりは」
「嘘ではありません」
神崎は静かに言った。
「物語です」
「あなたのやっているのは、自分が勝つための物語だ」
神崎は、そこで初めて少しだけ目を細めた。
「それの何が悪い?」
「勝った先に、何が残るんですか」
沈黙。
この問いは、神崎が普段、自分に向けない種類のものだった。
「秩序です」
「それは本当に、人を救いますか」
神崎は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、信じることが人を強くすると信じている」
「はい」
「私は、信じることで人が壊れるのを、何度も見てきた」
「だから、信じないんですか」
「だから、距離を取る」
若い男は、少しだけ前に身を乗り出した。
「でもあなたは、誰よりも信仰の構造を理解している」
「ええ」
「それなのに、自分だけは、外に立っている」
神崎の胸に、小さな違和感が生まれた。
「卑怯だと思いますか」
「…いいえ」
若い男は、はっきり言った。
「しかし、孤独だと思います」
その言葉は、批判でも、非難でもなかった。
ただの感想だった。
神崎は、しばらく黙っていた。
「あなたは、信じ続けてください」
ようやく、そう言った。
「あなたのような人がいるから、私の仕事が成立する」
「それは、褒め言葉ですか」
「現実です」
若い男は立ち上がった。
「僕は、あなたを否定しません」
「それはありがたい」
「でも、あなたが一度でも信じてしまったら、あなたは今より、ずっと苦しくなる」
ドアが閉まったあと、神崎はしばらく、動けなかった。
論破はできた。
勝つ言葉も、用意できた。
それでも、「孤独だと思います」その一言だけが、頭の中に残り続けていた。
(衆議院・非公開協議の日)
政治というのは、公明正大に決まるものではない。
神崎は、そのことを二十代の終わりには理解していた。
国会の廊下は、いつも静かだ。
静かで、きれいで、そして、何も残らない。
ここでは、議事録に残らない言葉だけが、現実を動かす。
会議室に入ると、すでに数人が席についていた。
官僚。
党幹部。
名前を出せば新聞に載る人間ばかりだ。
「今日は短く済ませたい」
誰かがそう言った。
神崎は内心で、少しだけ笑った。
短く済む話ほど、重い決断を要される。
議題は一つだった。
ある法案の修正。そして、その裏にある“処理”。処理、という言葉は使われない。
だが、全員が同じ意味で理解している。
理想的すぎる活動家がいる。現場で支持を集め始めている。放置すれば、制度が追いつかない。
だから、流れを変える必要がある。
「神崎さんは、どう思われますか」
視線が集まる。
この瞬間が、神崎の仕事だった。
誰かの意見に賛成するでもなく、反対するでもなく、決まっていく空気を言語化する役。
「現行案のままでは、混乱が長引く可能性があります」
事実だ。だが、それだけでは足りない。
「今は、国民が分かりやすい区切りを求めている」
その言葉が出た瞬間、数人がわずかに頷いた。
区切り。
便利な言葉だ。
中身を問わず、納得だけを提供できる。
誰も、その活動家の名前を口にしない。
だが神崎の頭の中には、はっきりと顔が浮かんでいた。
孤独だと思います。
あの一言。
個人の声は、ここでは雑音だ。
それが政治の論理。
「リークの件ですが」
官僚が、資料をめくりながら言った。
「週明けで問題ありません」
問題がない、とは、倫理的に問題がないという意味ではない。
政治的に処理可能、という意味だ。
神崎は、口を開いた。
自分でも驚くほど、声が静かだった。
「少し、時間を置いてはどうでしょう」
空気が止まった。
「理由は?」
「今、実施すると彼は『殉教者』になります」
宗教学者としての知識が、無意識に口をついて出た。
「殉教は、最も強固な物語を生む」
誰かが、舌打ちをした。
「神崎さん、我々は宗教をやっているわけじゃない」
「いいえ」
神崎は、はっきりと言った。
「我々は、ずっと宗教をやっている」
沈黙。
この部屋の誰もが、反論できなかった。
なぜなら、全員がそれを知っているからだ。
会議は、結論を先送りにして終わった。
勝ちでも負けでもない。
だが、神崎は理解していた。
これは異常だ。
今までの自分なら、もっと早く、もっと自然に、処理に同意していた。
それが、秩序を守る最短ルートだったから。
廊下を歩きながら、神崎は自分に問いかけた。
なぜ、今回は違う。
答えは、もう出ている。
顔が浮かぶからだ。
名前がある。
声がある。
生き方が、見えてしまった。
政治は、人を記号にすることで成立する。
だが今、一つの記号が、どうしても人間に戻ってしまう。
神崎は、携帯を取り出した。
秘書の番号。
「…すまないが、もう一つ、確認してほしいことがある」
「何でしょう」
「例の若者と、観測者たちの接点だ」
一瞬の沈黙。
「本気ですか」
「本気だ」
神崎は、ゆっくりと言った。
「これは偶然じゃない」
理想主義者。
物語を信じない怪物。
そして、自分。
三つが交わるとき、秩序は必ず揺れる。
神崎は知っている。宗教史でも、政治史でも、それは例外なく、そうだった。
窓の外では、国会の屋根が夕日に沈んでいた。
あの光景を、神崎は何度も見てきた。
だが今日は、少し違って見えた。
これは、世界を守るための政治なのか。それとも、自分が誰かを守るために、世界を歪める政治なのか。
その区別が、もうつかなくなっていた。
神崎は、ネクタイを緩めた。
九回裏。
ツーアウト。
送りバントに匹敵する策はあるのだろうか。




