夏の魔物
速水蓮は、特別な子どもではなかった。
クラスで一番賢いわけでも、一番足が速いわけでもない。
先生の話をよく聞き、宿題を忘れず、時々、少しだけ変わった意見を言う。
その程度だ。
算数は好きだった。
答えが一つに収束するところが気に入っていた。国語も嫌いではない。
登場人物の気持ちを考える問いは、なんとなく腑に落ちた。
「どうしてそう思ったの?」
先生に聞かれると、蓮は少し考えてから答えた。
「だって、悲しそうだったから」
それ以上、うまく説明できなくても、間違いだと言われることはなかった。
友だちの輪の中では、聞き役になることが多かった。
誰かが泣けば、そっと隣に座り、理由を聞くでもなく、ただ同じ時間を過ごす。
誰かが怒れば、その怒りの裏にある困りごとを、なんとなく察してしまう。
それは能力というほどのものではない。
ただの、気づきやすさだった。
放課後、友だちと帰る道で、喧嘩が始まりそうになると、蓮は自然と間に入った。
「まあまあ」
そう言って、笑う。
理由を考えているわけではない。
このままだと、嫌な感じになると、本能的に知っていたからだ。
大人から見れば、「空気が読める、いい子」だった。
家でも同じだった。両親の機嫌が少し曇ると、話題を変えたり、邪魔にならない場所へ移動したりする。
夜、布団に入ると、蓮はよく今日の出来事を思い返した。
誰が笑っていたか。
誰が楽しそうだったか。
それらを思い出すと、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
世界は、理解できるものだと思っていた。
人は、話せばわかるものだと。
少なくとも、自分が知ろうとすれば。
戦うことも、人を利用する必要もない。
速水蓮は、この時点ではまだ、怪物でも悪魔でもなかった。
ただ、他人の気持ちが少しだけ気になる、どこにでもいる十歳だった。
このとき彼は知らない。
その「気づきやすさ」が、やがて合理と結びつき、鋭すぎる刃になることを。
そして、水の底で手に入れる静けさが、彼をそれまでの世界から、ゆっくりと引き離していくことを。
その日は、よくある夏の日だった。
速水蓮は、川べりで石を投げていた。
水面に跳ねた数を数えながら、友だちの笑い声を、少し離れたところで聞いていた。
特別なことは何もない。いつもの放課後。いつもの帰り道。
だから、最初の異変にも、すぐには気づかなかった。
「あっ」
短い声。驚きと、困惑が混じった音。
蓮が顔を上げたとき、川の中央で、女の子が不自然にもがいていた。
足がつかない場所に、入り込んでしまったのだ。
一瞬、時間がずれた。
誰かが叫ぶより早く、誰かが大人を呼びに走るより早く、蓮の身体は前に出ていた。
考えは、あとから追いつく。
危ない。でも、今なら届く。
靴を脱ぐこともなく、川に飛び込む。
冷たい水が、膝、腰、胸へと一気に上がる。
流れは想像より強く、足元が、すぐに不安定になる。
「大丈夫、つかまって」
声が震えたのは、水の冷たさのせいだけじゃない。
女の子の腕を掴んだ瞬間、彼女の恐怖が、はっきり伝わってきた。
息ができない。沈む。怖い。
その感覚が、そのまま胸に流れ込んでくる。
次の瞬間、流れに足を取られた。
身体が傾き、視界が回転し、川底の色が近づく。
水が口に入る。咳き込もうとしても、できない。
肺が痛い。頭が熱い。心臓が、壊れそうな速さで打ち続ける。
怖い。
はっきりと、そう思った。
死ぬ、という言葉が、初めて具体的な形を持つ。
そのときだった。
音が、遠ざかった。
水の流れる音も、自分の心臓の鼓動も、すべてが、一段向こうに引っ込む。
代わりに、思考だけが、すっと浮かび上がる。
暴れたら沈む。このまま掴んでいれば、彼女も沈む。流れに逆らうな。
恐怖は、消えていない。ただ、脇に置かれている。
まるで、「今は使わない」と決めた道具のように。
視界が澄む。水の流れが、一本の線になる。
岸との距離、角度、自分の身体が耐えられる時間。
速水蓮は、その瞬間、理解してしまった。
怖くても、考えられる。
怖さを、止めなくてもいい。
腕の力を抜き、流れに身を任せ、角度を変える。
誰かの手が、水の外から伸びてきた。
引き上げられたとき、肺が悲鳴を上げ、世界が一気に戻ってくる。
水を吐き、咳き込み、地面に手をつく。
女の子が泣いている。
大人の声がする。
誰かが「よくやった」と言った。
でも、蓮はそれどころじゃなかった。
胸の奥に、奇妙な感触が残っていた。
あの、水の底の静けさ。恐怖の中にあった、
冷えた、澄んだ場所。
今のは、何だ?
それは、誇らしさでも、達成感でもない。
自分の中に、知らない部屋ができた感覚だった。
蓮は、濡れた服のまま、川を見つめていた。
もう戻れない、という予感だけが、
なぜか妙に、はっきりしていた。
この先、また同じ静けさが必要になる日が来る。
そのとき、自分はきっと、迷わず、あそこへ行ってしまう。
翌朝、速水蓮はいつもより早く目が覚めた。
身体は重い。
喉の奥に、まだ水の味が残っている気がする。
それでも、熱はなく、息もできる。
生きている。
布団の中で、その事実を確かめるように、
蓮はしばらく天井を見ていた。
怖い、とは思わなかった。
ただ、静かすぎると感じた。
学校へ向かう道は、昨日と同じだ。
同じ電柱、同じ曲がり角、同じ時間帯。
友だちと合流し、他愛ない話をする。
「昨日さ、ニュースになってたよ」
誰かが言った。
「川で溺れた子、助かったんだって」
胸が、わずかに動いた。
でも、それだけだった。
よかった。
その感情は確かにある。
けれど、昨日までの『よかった』とは、質が違う。
教室に入ると、担任が少しだけ改まった声で危険な行動ではあったが、という前置きの後。速水蓮の英雄的行為を称賛した。
視線が集まる。
名前が呼ばれ、軽い拍手が起きる。
蓮は、立ち上がり、小さく頭を下げた。
胸は高鳴らない。
顔も熱くならない。
代わりに、教室全体の空気が、手に取るようにわかる。
安心。好奇心。少しの嫉妬。
「自分だったらできただろうか」という不安。
それらが、一斉に流れ込んでくる。
蓮は、眉をひそめた。
昨日までは、こんなふうに感じたことはなかった。
わかる、というより、形が見える。
感情が、教室の中に並べられている。
休み時間。
机に戻ると、友だちが言った。
「すごいよな。怖くなかった?」
その言葉に、蓮の中で、何かが微かに動いた。
怖かった。でも、途中から違った。
説明しようとしたが、言葉が見つからない。
「…ちょっと、怖かった」
そう答えると、友だちは満足そうに頷いた。
その瞬間、蓮は理解してしまった。
正解の答えを、選んだと。
昼休み、校庭で小さな言い争いが起きた。
ボールの取り合い。
些細な、いつもの衝突。
昨日までなら、
間に入って「まあまあ」と言っていたはずだ。
だが、今日は違った。
蓮は、一歩引いて見ていた。
誰が、引けないか。
誰が、引いたら傷つくか。
誰が、声を荒げると周囲がどう動くか。
全部、わかる。
そして、どうすれば、一番早く終わるかも。
胸の奥が、ひやりと冷える。
使ってしまえば、楽だ。
その瞬間、あの水の底の静けさが、薄く、戻ってきた。
蓮は、深く息を吸った。
使わない。
それだけを決める。
理由はない。
まだ、早い気がした。
結局、別の子が仲裁に入り、喧嘩は自然に収まった。
放課後、校舎を出ると、昨日と同じ風が吹いていた。
同じ景色。
同じ空。
それでも、世界は少しだけ、透けて見える。
速水蓮は歩きながら、はっきりと自覚していた。
もう、前と同じには戻れない。
そして、自分はいつか、あの静けさを「使う日」を選んでしまう。
そのとき、それを止めてくれるのは、
きっと他人じゃない。
自分自身だけだ。
それから、速水蓮は少しだけ忙しくなった。
誰かが困ると、名前を呼ばれるようになったからだ。
「速水、ちょっといい?」
休み時間。
廊下。
放課後。
内容はどれも些細だった。
言い争い。
順番決め。
誰が悪いか、という話。
以前なら、自分から関わりに行っていたはずだ。
今は、呼ばれてから動く。
それが一番、角が立たないとわかってしまった。
蓮は、必要以上に話さない。
声を荒げない。
相手を責めない。
ただ、状況を一つずつ並べていく。
「それ、先に言ったのは誰?」
「じゃあ、今ここで揉めると、どうなる?」
「先生に聞かれたら、説明できる?」
問いは、誰にとっても正しい。
気づけば、その場は静まっている。
暴力も、泣き声も、必要なくなる。
「助かった」
「ありがとう」
感謝の言葉は、前より増えた。
でも、胸の奥は、少しずつ冷えていった。
「速水さ」
昼休み、机に肘をついたまま、同級生の一人が言った。
「あいつらの揉め事どう思ってる?」
冗談めかした口調だった。けれど、視線は鋭い。
蓮は、一瞬だけ言葉に詰まった。
本音。
胸の奥で、反射的に浮かんだ答えに、自分でもわずかに驚く。
どうでもいい。
その感覚が、冷たく、澄んでいて、あの静けさに近いことが、なぜか嫌だった。
蓮は、少しだけ間を置いてから言った。
「解決したんだから、終わりだろ」
いつも通りの答え。一番、角の立たない言い方。
それで終わるはずだった。
「…ふうん」
同級生は、すぐには頷かなかった。
少し首を傾げ、蓮の顔を、まっすぐ見る。
「それ、本音じゃないだろ」
空気が、ぴたりと止まった。
「前の速水なら、『もう少しお互い話した方がいい』とか言ってた」
蓮の喉が、わずかに鳴る。
「今はさ」
同級生は、声を落として続けた。
「正しいけど、興味がないみたいだ」
胸の奥に、何かが刺さった。
怒りでも、恐怖でもない。
当てられたという感覚。
「…何が言いたいんだよ」
蓮は、自分の声が少し低くなっていることに気づく。
「別に」
同級生は、肩をすくめた。
「たださ、速水、最近『こっち』見てない」
指先が、宙を指す。
「人じゃなくて、場を見てる」
沈黙。
蓮は、何も言えなかった。
否定も、肯定もできない。
「それ、便利だと思うけどさ」
同級生は、最後にそう言って立ち上がった。
「…疲れない?」
その一言を残して、教室を出ていく。
蓮は、しばらく席を立てなかった。
胸の奥で、あの静けさが、ゆっくりと形を変える。
見抜かれた。
しかも、『アレ』を使ったわけでもないのに。
初めて、自分自身が露わになった。そんな感覚だった。




