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第4話 ケシカケ

 数日間が過ぎ、授業中でも休み時間でも、藍の頭の中にはあの夜の光景がちらついていた。碧先輩の目、触れ方、萌黄との距離感――どれも忘れようとしても消せない。

 

「先輩って、自由すぎて怖い……でも、気になって仕方ない。」

 

 小さくつぶやいた藍の胸は、日ごとにざわつきを増していた。

 

 昼休み。学校祭が近づいたクラスの騒がしい雰囲気が、友人の少ない藍の孤独を際立てる。騒がしさから逃げるように、人がほとんど来ない古い南校舎の屋上に登る。屋上に吹き込む風は柔らかく、抜けるように青い空は天蓋のようで逆に息が詰まりそうになる。けれど、藍の胸のざわつきは静まるどころか、むしろ増していた。数日前の夜、碧先輩と萌黄の姿を目撃して以来、心の奥に残る小さな影は日に日に濃くなっていた。柵に近づき、街並みを眺める。いつも大きく見えていた建物が小さく見え、ひどく小さな瓶へ閉じ込められたような気持ちになった。


「あれ?藍ちゃん?」


 遠く背後の方から、誰かが自分を呼ぶ声がした。優しく柔らかい、温かみのあるその声に聞き覚えがある。間違いない、碧先輩だ。ぞくっと背中の産毛が逆立つ。あの夜の、試すような狡猾な視線が私を射抜いた傷口は、未だに癒えていない。ギシギシと固まって軋みそうな身体を無理矢理動かして振り向くと、私がよく知っている、目に柔らかい光を湛えた碧先輩がいた。寒いからだろうか、黒いタイツで包まれた足は、きらきらと日光を反射していた。こんなところにわざわざいるのだから、きっと他に誰かいるのだろうと思ったが周りにだれかいる様子もない。どうやら先輩1人のようだ。


「お昼?せっかくだし、一緒に食べようよ。」


 碧先輩は自分が座っているベンチのすぐ隣をぽんぽんと叩き、座るように促す。上手く断れず、言われるがまま座ってしまった。柔らかい日光に温められた空気が、碧先輩の香りをふわりと運ぶ。風に吹かれて髪が顔にかかるたび、碧先輩の視線が胸に刺さる。穏やかな表情に少し身体が緩んだが、無意識に手を重ねると指先が微かに震えていた。


「ほら、藍ちゃんも少し食べてみて。お腹空いてるでしょ?美味しいよ。」

 

 碧先輩は楽しげに言いながら、自分のサンドイッチを半分差し出す。藍はためらいながらも手を伸ばし、ふんわりと柔らかいパンに軽く触れた。


「……先輩って、本当に自由ですよね。」

 

 思わずこぼれた言葉に、碧先輩は少し首をかしげ、悪戯っぽく笑う。口の中で野菜とソースが混ざり合い、少し頬がほころんだ。碧先輩がずいっと顔を近づけてくる。


「藍ちゃんさ、萌黄ちゃんとかが羨ましいんでしょ?」

 

 耳元で囁かれるその声に、藍は思わず顔を逸らす。思わず吹き出しそうになった。頬を染める藍を、碧先輩は楽しむかのようにじっと見つめていた。


「私……怖いけど、やっぱりそれでも……。気になっちゃうんです。」

 

 ぽつりと漏れた消え入りそうな言葉に、碧先輩は嬉しそうに笑みを広げる。そして、手の甲にそっと触れ、軽く握る。握力はほんの少し強めで、逃げられない感覚を残す。手を引こうとする素振りを見せると、ぎゅっと更に握られる。熱くなった藍の手の熱が、ひんやりと冷たい先輩の手に少しずつ奪われている。短く切りそろえられたつやつやとした爪が、今だけは鉤爪の様に見えた。


「ふふ、藍ちゃんって正直だね。」

 

 碧先輩の笑みは優しい。けれどその優しささえ、藍を逃がさぬ檻の一部のように思えた。全身を支配する圧に抗えず、胸はどくどくと早鐘を打ち、頭の中は先輩で埋め尽くされていく。


 そのまましばらく、二人は無言で昼の屋上に座っていた。風が二人の間を吹き抜け、時間がゆっくりと過ぎる。藍は胸のざわめきを抑えようとするけれど、碧先輩の存在はますます強く、どうしても視線を逸らせない。


「藍ちゃん、ねえ……私と一緒にいると、楽しい?」

 

 唐突な問いに、藍は一瞬言葉を詰まらせる。心の奥で芽生えるのは、背徳的な快感と、逃げられないドキドキ。

 

「……はい、楽しいです。」

 

 思わず答えたその声に、碧先輩は柔らかく微笑み、目を細めた。その微笑みは優しいけれど、どこか計算された距離感を含んでいた。藍の心はざわつき、恐怖と好奇心と嫉妬が交錯する。昼の屋上は、ただの昼休みではなく、二人だけの小さな世界になっていた。

 

 碧先輩は不意に立ち上がったかと思うと後ろから肩越しに藍へと近づき、髪をそっと撫で、首筋に指先が触れる。思わず息をのむ藍。耳元で囁く声は甘く、でも胸を押さえつけられるような圧があった。


「この間の夜のこと、まだ覚えてるでしょ?」


 立ち上がろうとする藍の手を、碧先輩は後ろから覆いかぶさるようにして軽く握る。背中に密着した、柔らかく大きな2つの熱源が心と体に絡めとろうとする。眼の端に時折入り込む、笑みを浮かべたその顔は無邪気で、けれど藍の全身を捕まえる力を捕まえて放さない。昼の光に照らされても、ぽっかりと開いた穴に落ちくぼんだように逃げ場はなかった。


「真白とか萌黄とか、羨ましいんでしょ?」


 言葉の端が藍を挑発する。藍の胸はぎゅっと締め付けられる。嫉妬、恐怖、好奇心――混ざり合った感情が全身を駆け巡る。数日前の図書室で あの日の夜図書館で、目撃した異常な光景が、再び心に浮かぶ。背面から頬を撫でられる。優しく、そして時折強く。先輩の身体が、今まで一度も感じた事がない様な熱を持ち始めていた。


「先輩の心は、どこにあるの……?」


 思わず漏れたその問いに、碧先輩は柔らかく微笑むだけで答えない。碧先輩はゆっくりと右手を胸元へと滑らせる。撫でるように、ブレザーの隙間に手を滑り込ませる。耳元で響く吐息が、更に湿っぽく、熱っぽくなる。左手が下腹部を撫でるような動きで私の表面を蹂躙する。背中の熱が、藍の触角を冴えさせる。やたら冷たく感じる風が髪を揺らし、昼の屋上は静かに二人を包む。怖さと知りたい気持ちが入り混じったまま、藍の気持ちだけが一人、屋上に残される。肉体は既に、先輩に奪われていた。

 

 突然、扉の開く音がした。びくりと体が反応する。扉の向こうから出てきたのは、見覚えのない男の子だった。背は低く、少し丸みを帯びた体型。制服のシャツは裾が出ており、髪は適当に櫛で撫で付けたようであり、眼鏡のレンズは曇っている。どう見ても冴えない印象しかなく、ネクタイの色からして1年生のようだ。すぐに去るだろうと藍は思った。だが、その子は何度もこちらをちらちらと見ている。

 ちらりとスマートフォンを確認した碧先輩が、まるで何事もないように藍の体からふわりと離れる。その自然さに、藍は言葉を失った。


「あ、今日はあの子なんだった。」

 

 ――こんな相手とも、先輩は?


 離れていく青先輩を呼び止める声も出ないまま、胸の奥に、理解を拒むざわめきが広がっていく。

 

 遠くの方で先輩が男の子と話している。内容は聞こえないが、男の子が顔を赤らめていることは分かる。帰りたくても昇降口の近くに2人が立っている為帰りにくい。仕方なくその様子を眺めていると、指を絡め、手を繋いで給水塔の陰に隠れるように進んでいってしまった。藍は目で追えず、ただ足音だけを聞く。

 

 給水塔の下にあるわずかな隙間から、向き合う様な2人の足が見えた。どうやら碧先輩だけがしゃがんでいるようだ。男の子のズボンは足首まで下ろされている。何かに吸い付くような生々しい音と、内容はわからないが優しい雰囲気の先輩の声が聞こえてくる。しばらくすると、かすかに声と吐息、衣擦れの音が響き始める。広く開かれた碧先輩の生足と、その少し奥から肩幅程度に開かれた男の子の脚が前後に重なる。脚を包んでいたタイツは、いつの間にか投げ捨てられる様に横へ追いやられていた。足先はどちらも給水塔の方に向いており、次第に男の子の足が激しく前後に揺れ始める。男の子が放つ女の子の様な嬌声と、低く甘い碧先輩の声――目には見えないのに、胸がぎゅっと締め付けられる。何をしているのかありありと分かってしまう自分が嫌だった。


「先……輩……?」


 思わず声を出しかけるが、手で口を押さえる。心臓の高鳴りと、胸の奥の熱さが交錯し、得も言われぬ高揚感が全身を覆う。耳に届く吐息や小さな衣擦れの音に、藍は自然と身を縮める。短く飛び飛びに響く碧先輩の声が、藍の脳をグサグサと刺して壊そうとしてくる。想像力が勝手に補完し、頭の中にあの夜の光景が重なる。嫉妬、興奮、怖さ――複雑な感情が渦巻き、意識がぼんやりとしてくる。温かかったはずの冷たい風が、もう一度香りを運んでくる。そこには仄かな先輩の香りと、栗の花の様な匂いが混ざっている。どうしてだか身体の熱は未だに高まり続けている。心を押し潰されそうな気がして、走るように教室に去っていった。なんとなく、裏切られたような気持ちを心の底に澱ませながら――。

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