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第3話 ソウグウ

 あの日以来、何度か先輩と顔を合わせる機会があった。あの時の接近が嘘のように、先輩は私に触れるそぶりをほとんど見せなくなった。頭を撫でられるのは、褒められたときだけ。これでいいんだ、これが普通なんだと何度も自分の中で抑え込む。でも、先輩から自然に笑いかけられると、心はつい揺れてしまう。


 それに対して、真白や他の人たちとの関係は変わらず続いているようだ。私の目の前であっても、会うたびに腕を体に回し、指を絡め合う二人の姿を目にするたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

「先輩にとって、私ってなんなの……?」

 そう思わずにいられない。答えのない問いだけが胸に残る。


 この日も頭の片隅で、碧先輩のことばかり考えていた。課題を前にしてもほとんど進まず、日付が変わった頃にようやく終わった。湯船に浸かっても、ベッドに入って潜り込んでも、思考を放棄することは叶わない。逃れられない夜の静けさに耐えられず、藍はパジャマがわりのジャージのまま、夢遊病患者のようにふらりと散歩に出た。

 どれだけ忘れようとしても、頭の隅に碧先輩の影がちらついて離れない。むしろ忘れようとする度に、碧先輩のあの目の色が少しづつ濃くなっている気がする。

 雲がかかった月明かりに照らされる黒い道。自分の足音と虫の声がうるさいくらいに住宅街に響く。空気のひんやりした感触が、胸の奥にあるざわつきをさらに強める。

 街灯に沿って無心で歩く。脚の向かう先は決めていなかったが、自然とあの公園へと足が向かっていた。


 足音がコンクリートを踏む硬い音から砂の音に変わる。深夜だからか、公園には人影ひとつもない。

 暗闇の中、点滅する街灯とぽつんと立つ自販機だけが、必死に空間の一部を守るように存在していた。

 残暑とはいえ、9月の夜は思ったよりも冷たい。

 藍はなけなしのお小遣いの中から季節外れの温かいカフェオレを買い、あのベンチに腰を下ろす。

 ふと気になってあたりの気配を探るが、音も気配も何もない。

 緊張でこわばった体をほぐすように、一口、また一口とカフェオレを口に運ぶ。けれど心は落ち着かず、胸の奥でざわつきが止まらなかった。――まるで、この夜が何かを運んでくる予感がするかのように。


 軽い冷えのせいでトイレに行こうとした時、ふと、音が耳に届いた。人――それも複数人の気配。あの日と同じ、唸るような低い声が微かに聞こえる。あの日と違うのは、2つ重なったその声が、どちらも女性的に聞こえたことだ。意識をそこから引き剥がそうとする。今日は帰ろう。今日こそは見ないようにしようと思っていたのに、碧の身体は思っていたより正直で、不真面目だった。藍は気配の方へそっと近づき、近くの木陰から覗き込む。


 そこには、碧先輩と同級生の萌黄の姿があった。トイレ脇のやや奥まったところにある古いベンチで、2人が重なっていた。萌黄は藍のクラスメイトで、それなりに仲が良かった。いつも明るく、色んな友人がいる彼女だが、まさか碧先輩と繋がっているとは思わなかった。しかもこんな形で。

 老朽化してさびつき、ほとんど明かりの灯らない街灯の下で、萌黄は必死に碧先輩にしがみつくようにして絡んでいる。碧先輩はあの日とは違う少し高圧的な笑みを浮かべ、まるで軽やかに遊んでいるかのようだ。

 その姿はあまりにも自然で、無邪気で、しかしどこか虚しいように見えた。うっすらとした月明かりが、ほのかに2人の影を照らし出す。藍の目には碧先輩と萌黄の境界線が溶け合い、ひとつに融合していくようにすら見えた。碧先輩の白い肌と、萌黄の健康的な小麦肌が混ざり合う。2人の汗が、唾液が、粘液が、目の前で新しいブレンドを織り成し始める。


 藍が息をのんで眺めていると、碧先輩がふと顔を上げ、藍の存在に気づく。青緑色の目が、私の両目を穿つ。

 視線だけで藍を捕らえ、磔にして逃げられぬようにする。萌黄には気づかせず、藍だけに「動くな、見ていろ」と命じるような眼差しを向ける。胸が締め付けられる。心臓がドクドクと激しく動く音が鼓膜を乱暴に叩く。

 碧先輩は見せつけるようにさらに激しく身体を動かす。萌黄の胸元をまさぐりながら、唇に貪りつくように吸い付いている。萌黄は意識を半分失ったように、ふらふらと熱っぽい顔で碧先輩にしがみついている。 


 いつの間にか2人は、いや、萌黄だけが完全に果てていた。潤んだ瞳を碧先輩に向けたあとゆっくりとうなだれるようにして抱きつくように体重を乗せ、眠りについていた。碧先輩は彼女を横に座らせるように移動させ、服をきちんと着させたあと、揺すり起こしている。その姿は先程とは違う、どこか優しいものだった。目を覚ました萌黄にペットボトルの水を渡し、なにか荷物を渡して立たせる。どうやら帰らせるようだ。ぼーっと眺めていると碧先輩が藍に手招きをした。藍の身体は逆らえず、おずおずとベンチに近寄る。

 近くで見た碧先輩は、どこか寂しそうだった。

「見てたでしょ?」

 碧先輩は、悪戯っぽく微笑む。近くで見た碧先輩は、いつもと違ってどこかぽっかりと穴が空いていたように見えた。はだけたままの胸元の上下運動は少しづつ穏やかになり、赤くなった顔は夜風に晒されて少しづつ白くなっている。しかし、こちらを見てくる目は、いつもの慈愛に満ちた様子ではなく、どこか少し寂しそうで、顔色を伺うようなものだった。藍は言葉を失い、ただ胸のざわつきを感じるばかり。

「藍ちゃんにとって……青春って何?」

 唐突な問い掛けに、息が詰まるような感覚を覚える。青春?友達と遊ぶことだろうか。学校での思い出作りだろうか。それとも先輩と過ごすことだろうか?

 私はさ、と先輩は続けて話す。

「私にとっての青春ってのはさ。こういうこと。なんにも縛られないで、なんにも邪魔されないで、好きなことをすること。」

 碧先輩は肩をすくめて言う。

「青姦っていうのかな。外でヤるのが好きで。ほら、自由でしょ?室内じゃダメなんだよね。なんか窮屈って言うかさ。」

 その言葉は明るく、いつもと違って砕けてキラキラとした解放感に満ちていた。でも藍には、碧先輩の目の奥に一瞬の空虚が見えたような気がして、胸がざわつく。碧先輩が放つ楽しさよりも虚しさが、胸にずしりと重くのしかかる。

 夜空を見上げ、藍はそっとつぶやく。

 

「先輩って、本当に自由なのかな……」


 夜風が2人の髪を揺らす。さてと、と先輩が立ち上がる。


「そろそろ帰りなよ。もう結構遅いよ?」


 ふらりと自販機に近づき、温かいココアを私に手渡してながら話す。


「別に藍ちゃんに同じことをしろって言ってる訳じゃないよ。私のことが嫌いになったなら……まあ、しょうがないかもね。」


 碧先輩の肌からは未だに汗の肉っぽい匂いが漂う。頭の中で思考がまとまらない。ぐるぐると形にならない疑問ばかりが回り続ける。


 藍はココアを受け取り、手のひらに伝わる温かさに少し安心する。でも胸のざわつきは収まらない。あの日、偶然見てしまっただけ――それだけなのに、心は揺れている。


「ありがとうございます……」

 

 声はかすかに震えていた。先輩は気づいたのか、小さく微笑む。


「いいんだよ。今日はただ、偶然会っただけだから。」

 

 その言葉は軽やかで、でもどこか遠くを見つめるような響きがあった。藍は言葉を返せず、ただ頷くだけ。胸の奥に、もやもやとした感覚が残る。


 先輩はふらりと立ち上がり、ゆっくり歩き出す。月明かりに照らされる背中は、自由に、ゆらゆらと漂うように見える。偶然見てしまった夜のこと――それが、ただの一瞬の出来事だったと自分に言い聞かせる。

 それでも、胸に小さな影を残していく。


 藍はベンチに座り、夜風に頬を撫でられる。温かいココアとざわめく胸。偶然の出来事で、先輩の自由と虚しさを垣間見た。けれどそれは、あくまで一瞬のこと。藍の心はまだ、ただの観察者でしかなかった。


 深く息をつき、藍はそっと立ち上がる。偶然の夜は、こうして静かに終わった。

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