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第2話 魅セラレ

 目が覚めても、昨日森で見た残響はまだ頭の中に残り続けていた。閉じられて暗い瞼の裏に、夕日に照らされた碧先輩のあの蕩けた顔が浮かぶ。起床のアラームと重なって、獣にも似た先輩の喘ぎ声が響いているような気がした。

 

 「ぅぅぅ……。」

 

 寝不足でズキズキと痛む頭を押さえながら身支度を済ませる。放課後、図書委員会の仕事で先輩と再び会う予定だ。昨日のことを頭の隅へと追いやり、記憶から消そうとしながら学校へと足を運んだ。


 何事もなく、一日が進んだ。藍の友人はきっと碧先輩の痴態を知らないだろう。喉に何かがつかえたような感覚を隠しながら過ごした。終礼後、昨日と変わらない放課後の図書室に、昨日と変わらない2人がいた。外は夕暮れに近く、柔らかなオレンジ色の光が窓越しに差し込んでいる。藍は本の整理に集中しながらも、背後の気配に無意識に意識を向けていた。


「藍ちゃん、今日も丁寧だね。」


 振り向くと、今までと変わらない碧先輩が微笑みながら立っていた。肩まで流れる黒髪、澄んだ青緑の瞳。光に透ける髪が、柔らかく肩にかかる。思わず息を呑む。


「え、ありがとうございます……。」


 藍が小さく答えると、碧先輩は少し近づき、耳元で囁く。


「藍ちゃん、もっと近くに来てくれる?」


 とろとろと耳を這うようなその声に、体が自然に反応するのを感じた。いつもと何かが少し違うその雰囲気に、背中に小さな震えが走り、心臓が早鐘のように打つ。昨日の様子が頭によぎり、拒否したいのに、目をそらすこともできない。


 その時、緊張を破るようにガラリと扉が開く音がした。どこからともなく図書室の隅に真白が現れ、走り寄ってくる。高校1年生らしく体にあまり馴染んでいない大きめの制服に、小柄な身体を包み込みながら速足で碧先輩に駆け寄り、軽くちょっかいをかけた。


「おつかれさまでーす。先輩、こっち来てよ〜。」

 

 挨拶もそこそこに2人の間に割って入ってくる。ふわりと甘い香りが、藍との間で壁のように分厚く広がる。

 

「はいはい、真白ちゃん?こっちおいで。」

 

 碧先輩はにこりと笑いながら、真白の髪を軽く撫でる。碧先輩が真白の腰に手を回すようなその仕草を見て、藍の胸はぎゅっと締め付けられた。妙な嫉妬のざわめきと、背徳的な興奮が混ざる。喉を撫でられた猫の様な満足そうな顔を浮かべた真白が、こちらを挑発するような視線で見ているような気がした。


 一通り満足したのだろうか。十数分間密着し合い真白を撫でまわした後、碧先輩は藍に体を向けながら、立ち上がる。先程の触れ合いが嘘のようにゆったりとこちらに近づきながら、清楚にしか見えない微笑みを向けてくる。


 碧先輩は藍の手を取り、軽く握った。傷ひとつないつるつるとした掌の温もりがじんわりと伝わる。この掌が昨日、木に押し付けられていたのかと思うと何も信じられなくなりそうだった。


「藍ちゃん、こうして触れていると落ち着くでしょう。」


 言葉の意味がわからない。しかし、触れられるだけで、心がざわめき、体の奥が熱くなる。真白の事なんてとうに意識の外側だった。


 しかし、同時に頭の片隅では、恐怖や戸惑いも芽生えた。先輩は誰にでも優しく、時には残酷なほど自由で奔放。藍は自分の気持ちを制御できるのか、不安が胸に押し寄せる。ゆっくりとした動作で先輩の手が這い上がってくる。抵抗したいのに抵抗できないもどかしさが胸に早鐘を打たせる。先輩の手が身体だけでなく心まで鷲掴みにしようとしてくる。


「碧先輩〜、そろそろ行きましょうよ〜。」

 

 再び、ばつんと空気を断ち切るように真白の声が響いた。一気に現実に意識が引き戻される。あの危なっかしくも温かい感覚だけが肌に残る。碧先輩の目は既に私を捉えていない気がした。


「じゃあ真白ちゃん、いこっか。」


 青緑色の目が光った。口の端に少し威圧的な笑みを浮かべながら、2人は出ていく。その指はしっかりと絡められていた。


 しばらく図書室に留まり、碧先輩の残滓を何度も反芻する。窓から吹き込む夕暮れの風が頬を撫で、落ち葉の香りがかすかに漂う。ため息をつきながら、藍の心は森で見た背徳の影、それから今日のことを思い出す。


「先輩って、どうして……。」


 小さくつぶやき、藍は窓から空を見上げる。オレンジ色の光がグラウンドを照らし、部活動に勤しむ学生を金色に染める。普段なら何気ない光景も、今日は違って見えた。心の奥で、先輩への興味と恐怖が静かに、しかし確実に膨らんでいく。


 帰り道、住宅街に入ると、家々の窓から漏れる温かい光が藍を包む。森や図書室で感じた背徳感の余韻が、日常の風景に溶け込み、胸のざわめきは増幅する。


 あたりはすっかり暗くなっていた。家の前に着き、鍵を開ける手がわずかに震える。深呼吸をひとつ、ふたつ。部屋に入ると、窓から差し込むほのかな月明かりが床に柔らかく落ち、現実感と、まだ残る胸のざわめきが交錯する。


「どうして……こんなに気になるんだろう。」


 机に向かいながらも、藍の目は窓の外に向いたまま。意識はどこにもなく、森や図書室で見た碧先輩の姿が、頭の中で何度も蘇る。拒みたい気持ちと、知りたい気持ちがぐるぐると入り混じり、心はまだ揺れていた――。

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