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第1話 ハジマリ

 夕暮れの光が差し込む図書室は、ふだん以上に静かだった。窓から流れ込む橙色の光が棚の本を染め、埃ひとつ舞わない空気がどこか神聖な雰囲気を作り出している。

 藍は返却本を棚に戻しながら、そっと周囲を見回した。人の気配はほとんどない。視線の端に、碧先輩の姿が映る。


 さらりと肩に流れる黒髪は、窓からの風に揺れて光沢を帯びていた。澄んだ青緑の瞳は本に向けられているが、目が合えば何もかも見透かされそうな気がする。笑うとその瞳が柔らかい光を宿し、近くで見ると胸が詰まるほど美しい。背筋は伸び、立ち姿や歩き方は自然に人を惹きつける。制服の着こなし一つすら清楚で知的に見えてしまう。


 藍は思わず足を止めた。碧先輩は、誰が見ても完璧だ。品行方正で、才色兼備。教師からの信頼も厚く、同級生や後輩からも憧れの視線を集めている。けれどこうして図書室で並んで作業をしていると、その完璧さの奥に親しみやすさや、さりげない可愛げが垣間見える。そのたびに胸が少し熱くなる。


「今日は……静かですね」


 藍が声をかけると、碧先輩は顔を上げ、ふわりと微笑んだ。


「うん、貸出も少ないし、整理しやすくて助かるよ」


 それだけの会話なのに、藍の胸はじんわり温かくなった。


「ここ、きれいに整えてくれたんだね」


 碧先輩は藍の並べた棚を指先で示し、にっこりと笑った。


「埃ひとつもない。細かいところまで気づけてすごいな」


「そ、そんな……ありがとうございます」


「落ち着いて丁寧にしてくれるから頼もしいよ」


 そう言って、ぽんぽんと頭を撫でられる。柔らかな声と仕草に藍は思わず目を逸らし、胸の奥がざわめいた。小さなことが嬉しくて、けれどどこかくすぐったい。


 やがて碧先輩は窓際に歩み寄り、外のグラウンドを見下ろす。野球部の練習風景、その奥に沈みゆく夕日。光に目を細めながら、ぽつりとつぶやく。


「今年で私も卒業か……あと半年、やりたいことやらなきゃなぁ」


 その言葉に藍の心が小さく揺れた。ずっとそばにいてくれた碧先輩が、もうすぐいなくなる。確実に近づいてくる別れの影が、胸に針のように刺さった。


 下校時刻も近づき、外の部活の声も小さくなってきた頃、先輩は用事があると先に帰っていった。残された藍も仕事を終え、後を追うように図書室を出る。夕暮れの風が頬を撫で、残り香のような陽射しが肌をかすかに温める。足取りは自然と遅くなり、心は妙な寂しさでいっぱいだった。


 なんとなくそのまま帰るのが惜しくて、途中の交差点を右に曲がる。遠回りの道。その先に、子どものころよく遊んだ公園がある。懐かしい気持ちに慰められたくて、藍はゆっくり歩いた。


 夕暮れの街はどこか切なげだった。道端の電柱に並ぶポスター、カラスの鳴き声、商店街から流れてくる焼き鳥の匂い。ひとつひとつが過去の記憶を呼び覚まし、藍は知らぬ間に歩調を落としていた。


 公園は昔と変わらない姿でそこにあった。色あせたブランコ、錆びたシーソー、静かなジャングルジム。砂場は雑草に覆われ、人の気配はほとんどない。

 小さかった頃、ここで碧先輩と遊んだことがあっただろうか。はっきりとは思い出せない。それでも、遊具に刻まれた小さな傷や落書きを目にすると、胸の奥が温かくなる気がした。


 懐かしさに浸っていると、不意に森の奥から微かな音がした。枝が揺れる乾いた音、低い声。風かと思ったが、いつまでも止まらない。心臓が小さく跳ねる。


 逃げた方がいい、と頭の隅で声がする。それでも好奇心が勝り、藍は茂みの陰に身を潜めて覗き込んだ。


 ――藍の脳は、理解を拒んだ。


 女性に木へ手をつかせ、臀部を掴む男性の影と、その正面に立つ女性。肉体がぶつかる規則的な音と、甘ったるい女性の息遣いが響く。制服は乱れ、胸元は大きくはだけている。髪に覆われた顔の隙間から、青緑の瞳が光を受けてかすかに揺れた。

 見間違うことは無い。碧先輩だった。


 夕暮れの光が木々の間から差し込み、黒髪を照らす。揺れる裾、浮かぶ影、てらてらと光る白い肌。現実感のない美しさが森の奥に広がっていた。

 藍の胸が締めつけられ、息が止まりそうになる。それでも視線は離れない。背徳感と好奇心が混ざり合い、心臓は早鐘のように鳴り響く。


 「見てはいけない」と理性は叫ぶ。けれど目は碧先輩を追ってしまう。木々のざわめき、湿った土の匂い、枯葉を踏む小さな音――五感すべてが光景を焼き付ける。


「碧先輩……」


 心の中で名前を呼んだ。いつの間にか日が落ちはじめ、暗くなった森から碧先輩の姿が消えていた。


 藍ははっとして茂みから離れ、早足で公園を抜ける。夕暮れの空は茜色から紫へと変わり、遠くで子どもの声が響いていた。現実と非現実の境が揺らぎ、胸のざわめきは収まらない。


 住宅街に入ると、窓から漏れる灯りが日常を思い出させた。けれど、さっきの光景は残像のように焼き付いて離れない。家の前で立ち止まり、鍵を回す手が震えた。


 静かな室内。カーテン越しに差し込む光に包まれても、胸の奥はざわめいたままだ。

 机に手を置き、藍は小さくつぶやく。


「どうして……見ちゃったんだろう。」


 教科書やノートを広げても、宿題に全く手がつかない。頭の中は森の中で見た男の影と碧先輩の姿でいっぱいだった。

 けれど同時に、不思議な決意が芽生えていた。


 ――碧先輩のことを、もっと知りたい。


 それがどんな意味を持つのか、まだ自分でも分からない。だが、森で見た光景は確実に藍の中に刻み込まれた。日常に戻れなくなるかもしれない予感とともに。


 窓の外、茜色は夜の紺色に溶けていく。街路にともる灯りがひとつ、またひとつと増えていく。

 藍の胸のざわめきは、静かに、しかし確かに続いていた。

 ――次に待ち受けるものを、まだ知らぬまま。

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