君は鯖の真髄を知っているかね
九州を離れ、東京に来て、一人暮らしを始めて早三年。都会での生活にも慣れてきた。
月曜日から銀色の馬鹿デカいビルに車を走らせ、椅子に座ってブルーライトと浴びながらカタカタやったかと思えば、車を走らせ商談をする。かと思えばまたカタカタやって気がつけば22時。これを5日続けて行う。そして2日休んでまた月曜日……。
食事なんてただの作業。腹を満たすためだけの行為。それが悪いことだとは思わない。しかし、時折昔のように料理の味を噛み締めながら食べたいものである。
よし、明日は旨いものを作って食おう。久々に魚が食いたい。どうせなら港に隣接した市場がいい。
深夜2時の金曜日。俺はその場の思いつきでアラームを6時にセットし、そのまま眠りに就いた。
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休日の早起き程、苦痛なものはない。世の人々は休日に遅くまで寝るのは時間の無駄だというけれど、時間があるのにゆっくり休まないというのは如何なものかと私は思う。
とは雖も、旨いものを食うために起き上がらなければならない。しかし、体は中々言うことを聞かない。俺は生まれたての小鹿のような恰好で睡魔と戦っていた。人間の三大欲求は寝る・食う・ヤるの三種であり、どんな欲求よりも優先されるものであるが、この三大欲求がぶつかり合うと、それはそれはもう、とんでもない程に体に負担がかかる。立ち上がれ! 立ち上がれ! 睡眠欲なんぞに屈してはならぬ! 俺は重い体に鞭を打って起き上がり、家を出た。
ここ最近の気温は35度を超えており、外に出るだけで億劫である。しかし、今はまだ日も出ていない。涼しいとは思わないが、日中よりかはましである。俺は車を小一時間程走らせ、市場へ向かった。
朝早いというのに市場は多くの人だかりができていた。店員はやれ新鮮だ、やれ大特価等と謳い、必死になって客を呼んでいる。俺は目的もなくふらふら彷徨いながら、魚達を眺めた。
「おや?」
ぼんやりと眺めていた俺の目に一際輝く魚がいた。それは一匹の鯖である。
俺は鯖が大好きだ。九州では鯖は生で食べる習慣があり、それが特に好きなのだが、東京で捕れる鯖は寄生虫がいるため、生では食えない。ならば、焼いて食えばいい。そうだ、帰って鯖を食おう。俺は鯖を購入した。
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買ってきた鯖をまな板の上に乗せじっくりと観察。ああ、いい。実にいい。いと美しゅう。
ところで読者諸君は鯖の神髄を知っているかね? 知らないというのであれば、俺が教えなければならない。
まずはこの美しい体を見てほしい。青い背中には美しい波の影の文様が刻まれ、腹は刃のような煌めきを放っている。もう既にほかの魚とは格が違うのである。それに加え、他の薄っぺらい2Dの魚とは異なり、体は丸々としている。これは荒れ狂う波に飲まれながらも懸命にもがきながらも泳ぎ切った者にしか許されぬ肉体美なのだ。
さてこれを三枚に下そうではないか。鯖はほかの魚と違い非常に柔らかい。丁寧に扱わないと身が割れてしまうのだ。下ろし方を大雑把に説明すると、まず、頭を落とし、腹を割いて内臓を取る。洗って骨と身を分ける。慎重に、慎重に下ろしていく。口で言うと簡単そうに聞こえるが、これが難しい。
さて、次は塩を万遍なく振って手で馴染ませ、1時間放置。そして、これをグリルで焼いていくのだが、その前にやることがある。網への焦げ付き防止に水で濡らして1分程、魚を入れずに強火で温めておく。皮が下になるように置き中火で焼く。返すのは一度。不用意に弄ってはいけない。
この間に味噌汁を作っておこう。やはり、鯖には白飯と味噌汁だ。
鯖というのはクリスマスツリーの電飾、白飯と味噌汁はその飾りとよく似ている。実際にクリスマスツリーを想像してもらいたい。どれだけ立派に飾り付けをしても電飾がなければ聖なる夜にその飾りは全く見えないのである。ツリーの電飾が灯り、ようやく飾りが闇から姿を現すのだ。鯖がいるからこそ、白飯と味噌汁は初めてその存在を認知される。それ程食卓における鯖の役割は大きい。いや、寧ろ鯖だけで十分である。白飯と味噌汁にはくれぐれもしゃしゃり出てほしくないものである。しかし、白飯のあの態度は何だ? まるで己が主役と言わんばかりその存在をアピールする。思い上がるでない。お前は鯖の下僕に過ぎないのだよ。
と、こんな事を想像するうちに鯖がいい塩梅に焼けているではないか! 畜生白飯め。危うく鯖を焦がすところだった。私は鯖をひっくり返し、皮を焼く。
もしかしたら、読者諸君の中に「そんなに鯖が好きなら鯖缶を買えばいい」という人もいるかもしれない。しかし、私は声を大にして言いたい。
あんなものは鯖の冒涜でしかないと。
あんな訳の分からない調味料に浸し、閉塞的空間に押し込めるだなんて冒涜以外に何という!? 折角の美しい体も、脂の乗った身も、本来の旨みも、何もかも見事にぶっ壊す。そんなものが果たして鯖と言えるのか? 言えるわけないよなあ!? ふざけやがって。こんなものを作る奴らは鯖の祟りにあって一生苦しめばいい。
よし、上手く焼けた。焼けても皮の光沢は残っており、見るからに旨そうだ。
食卓に鯖とその下僕どもを並べ、両手を合わせる。
「頂きます」
身を少し削って口に運ぶ。ふっくらとした食感。青魚特有の香りが口いっぱいに広がり、食欲を掻き立てる。味も淡白で頬がボタリと落ちる程旨い。もはや下僕どもに構う余裕などない。
ああ、後一口でなくなってしまう。俺はとても胸が苦しい。ああ、寂しい。しかし、熱いものを冷たくしてしまうのはご法度、ならば、腹をくくって食うしかない。俺は鯖を口に運んだ。
もうなくなってしまったよ。愛しい愛しい旨い鯖。ああ、また会えるかな……。
……そうか、これが「恋」かあ……。