さよなら、相談室
春の風がカフェの窓から心地よく流れ込んできた。ひなたは、いつものように席に座っていたが、今日は何だかいつもと違う空気が流れているように感じていた。佐藤も黙ってコーヒーを飲みながら、どこか遠くを見ている。その表情に、何か決心が感じられた。
「佐藤さん、どうしたんですか?」
ひなたは少し気になって声をかけた。佐藤は一瞬、驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んだ。
「いや、何でもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
ひなたは眉をひそめて、佐藤を見つめた。これまで、佐藤が何かを隠していることを感じたことはあったが、今日はそれが一層強く感じられる。
「もしかして、何か悩んでるんですか?」
佐藤は一度ため息をついて、ゆっくりと口を開いた。
「実は、ひなた。俺、恋愛相談室を終わりにしようと思ってる」
ひなたは驚きのあまり、思わず口を開けた。
「え? なんでですか?」
「受験も近いし、仕事の忙しさも増えてきた。どうしても時間が取れなくなってきたんだ」
佐藤の言葉に、ひなたは心の中で何かが重くなるのを感じた。佐藤はいつも冷静で、何でも自分一人で解決しようとするタイプだ。だから、こんなふうに相談室を閉じる決断をするのも、きっと彼の中で相当な葛藤があったのだろう。
「でも、相談室は…みんなにとって大事な場所じゃないですか?」
「うん、それはわかってる。でも、ひなたももうすぐ受験だし、忙しくなるだろうし、俺もどうしても自分の生活を整理しなきゃいけなくて」
ひなたはしばらく黙っていた。そして、ふと顔を上げると、佐藤の目が優しく、しかしどこか寂しげに見えた。
「ひなた、ありがとうな」
「え?」
「お前と話すことで、俺も少しだけ、自分を取り戻せた気がする。今まで、あんなふうに自分をさらけ出すことはなかったけど、お前には素直になれた」
その言葉に、ひなたは少し胸が締め付けられるような気がした。佐藤がどれだけ自分を抑えてきたかを知っていたからこそ、その一言がこんなにも重く感じた。
「佐藤さん、私も感謝してます。最初は本当にただの面倒臭いおっさんだと思ってたけど、色々教えてくれて…」
「それはどうも」
佐藤は苦笑いをしながら、ひなたの言葉を受けた。
「でも、ひなたがいてくれたから、俺も少しずつ変われた。お前の気持ちを聞くたびに、俺はその気持ちに励まされた」
「それは、私も同じです。佐藤さんがいなかったら、きっと私は恋愛に悩んでばかりで、何もできなかったと思います」
二人はしばらく言葉を交わさず、静かな時間を過ごした。その空気は、どこか切なく、でも暖かいものだった。
「最後に一つだけ、聞いてもいいですか?」
ひなたが少し躊躇しながら尋ねた。
「何だ?」
「佐藤さん、これからも恋愛できると思いますか?」
佐藤はしばらく考えた後、軽く肩をすくめた。
「うーん、どうだろうな。でも、少なくとも昔みたいに恐れたり、後悔したりすることは減るんじゃないかと思う」
その言葉に、ひなたは心から安堵した。佐藤がこれから少しずつ、自分を開いていけることを願っていた。
「じゃあ、私も少しだけ頑張らないとですね」
ひなたは笑いながら言った。
「そうだな」
佐藤も微笑んだ。
その日の午後、最後の相談が終わった。ひなたは、佐藤と一緒にカフェを後にし、しばらく歩いた。普段のように、あっけらかんとした笑顔で過ごすことができた。しかし心の中では、少しだけ寂しさが芽生えていた。
「佐藤さん、ありがとう」
「何もしてないさ」
「でも、ありがとう」
ひなたはもう一度言って、佐藤を見上げた。
「お前の気持ち、しっかり覚えておくよ」
それから、二人は静かに別れを告げた。