最後の相談者
いつもと変わらない平凡な午後、ひなたは放課後に恋愛相談室を開くため、学校の近くのカフェに向かって歩いていた。
昨日、佐藤との会話で少しだけ心のモヤモヤが晴れたが、今もまだその先に何があるのかがわからない。しかし、ひなたはしばらく考えていた。佐藤が何か隠していることに気づいていたからだ。
恋愛相談室が始まる時間になり、ひなたはいつもの席に着いた。しばらくしてから、カフェの扉が開き、佐藤がやってきた。
いつものように、ネクタイをゆるめて、眼鏡の位置を直しながら入ってくる彼の姿に、ひなたは少しだけ笑顔を浮かべた。
「お疲れ様です、佐藤さん!」
「ああ、お疲れ様」
佐藤はいつものように、少し控えめに笑いながら席に着く。ひなたが、カフェオレを注文したときと同じように、佐藤はブラックコーヒーを頼んだ。
今日は相談者がいないのか、ひなたは何となく沈黙を感じながらも、佐藤に話しかけた。
「佐藤さん、今日は何か話したいこと、ありますか?」
その言葉に、佐藤は少し驚いたように顔を上げた。そして、ふっと息を吐いて、言った。
「ひなた、今日は俺が相談者になるよ」
ひなたは驚いて目を見開いた。
「え? 佐藤さんが相談するんですか?」
「うん。実は、ずっと言いたかったことがあるんだ」
佐藤は少しの間、黙ったままだった。そして、彼の目がほんの少し曇ったように見えた。
「俺、ずっと恋愛が苦手だったんだ」
その言葉に、ひなたは静かに耳を傾けた。佐藤は続けて言った。
「実は、若い頃に好きな人がいたんだ。でも、俺がそれを伝えなかったせいで、結局その人とはうまくいかなかったんだ」
ひなたは驚きながらも、無言で佐藤の話を聞いていた。
「その後も、何度か恋愛しようと思ったけど、どうしても踏み出せなかった。好きだって言うのが、怖くて。怖いから、結局誰とも深い関係になれなかった」
佐藤の目が、過去の自分を見つめるように遠くを見つめている。それがひなたには、痛々しくも感じられた。
「そのせいで、今になっても、何かと距離を取ってしまうんだ。お前との距離も、あれだけ近かったのに、どうしても気になってしまって、何かを避けるようになってしまって…」
ひなたは一瞬、何か言葉を返すことができなかった。彼の言葉が、じわりと胸に響く。佐藤がどれだけ長い間、自分を抑え込んで生きてきたのか、ひなたはそのことに気づき、少しだけ心が痛んだ。
「それで、今になって思うんだ。俺、ひなたに色々アドバイスしてるけど、結局は自分のことがうまくできてない。俺、全然恋愛できてないじゃないかって」
ひなたは静かに息をつき、しばらく考えた後、言葉を返した。
「佐藤さん、恋愛って、うまくいくことだけが大事なんじゃないと思いますよ。大事なのは、自分の気持ちに正直でいることじゃないかなって、私は思います。」
佐藤は少し驚いたようにひなたを見た。
「でも、どうしても恐怖や不安が先に来てしまうんだよ。何かを失いたくない、そう思ってしまう」
「わかります。私だって、怖いことたくさんあります。でも、怖いからって、何も始めないのもまた違う気がします。失敗しても、きっと何かを学べるはずです」
その言葉を聞いて、佐藤は少し考え込んだように視線を落とした。
「ひなた、お前は…本当に大人だな」
ひなたは驚きながらも、照れ臭そうに笑った。
「え? でも私はまだ、全然恋愛のことわかってないですよ。恋愛経験ゼロだし」
「でも、お前には何かがある。俺みたいに、自分を恐れて縮こまってしまうようなことはない。お前は、ちゃんと前に進んでるんだ」
ひなたはその言葉を心に刻み、少しだけ胸が温かくなった。佐藤は、少し苦しそうに微笑みながら、カップを手に取った。
「俺も、少しずつ、勇気を持てるようになりたいと思う」
その言葉が、ひなたにとっては一番の「恋愛相談」になった。今まで相談室でアドバイスをくれた佐藤が、こんなにも自分を開いて話してくれるなんて、思いもしなかったからだ。
「佐藤さん、私も、少しだけ、気づいたことがあります」
「気づいたこと?」
「自分の気持ち、少しずつでいいから、認めていこうと思います。」
佐藤は静かに頷き、深く息を吐いた。
「そうか、ひなた」
その瞬間、二人の間に何とも言えない温かい空気が流れた。ひなたはその瞬間、自分も少しだけ大人になった気がした。