出会いは歩道橋の上で(前編)
通勤ラッシュという名の戦場を抜けた先、歩道橋の上はやけに静かだった。
朝の8時10分。中堅商社に勤める42歳、佐藤誠は、出勤途中にある古びた歩道橋の上で、財布を落としたことに気がついた。いつものように左ポケットを軽く叩いた感触が、今朝に限って空っぽだったのだ。
「……え? うそだろ……」
地味なスーツのポケットをまさぐり、鞄の中身をも掘り返す。だが、どこにもない。頭の中に、タクシーに乗ってカードで支払いをした映像が浮かぶ。
あのとき、落としたか?
胃がキュッと縮むような感覚が襲う。再発行だの身分証だの、面倒ごとの未来が一気に脳裏をかすめた。
だがそのとき——
「……あのー、それ、落としました?」
明るい声が、背中越しに飛んできた。
振り向けば、そこには制服姿の女子高生。ポニーテールに大きな目、小柄ながらも存在感のある少女が、見慣れた黒革の財布を手に持って立っていた。
「えっ……」
「これ、さっきそこに落ちてたの見て。中身、ちょっとだけ見ちゃったんですけど……名前、佐藤まことさんで合ってます?」
「あっ……うん、はい、それ俺のです……! ありがとう……!」
慌てて頭を下げ、財布を受け取る。中身はそのまま、カードも現金も無事だった。
安堵のため息をついたところで、ふと我に返る。目の前には見知らぬ女子高生。制服のネクタイが緩く、スカートの丈は明らかに校則違反気味。だが、それよりも問題なのは……
(……今の俺、女子高生と歩道橋の上で、二人きり……?)
完全に不審者である。
「あ、あの、本当にありがとう。じゃ、俺、これで……」
「ちょっと待った!」
彼女がいきなり手を広げて、行く手を塞ぐ。
「お礼はいいです。ていうか、お礼なんかいらない。でも——」
「でも?」
「代わりに、ちょっとだけ話、聞いてもらってもいいですか?」
目を見開く佐藤。女子高生が話?
「えっと、俺、会社に——」
「三分で終わります。いや、二分でいいです。お願いします!」
そう言って、彼女は歩道橋の片隅、ベンチのようなコンクリートブロックに腰を下ろす。まるでそこが昔からの相談所であるかのような自然な動作だった。
「じつは今、わたし、恋愛相談室っていうのを勝手にやってるんです」
「……は?」
「もちろん非公式です! 学校非公認! でもけっこう需要あって! 今日もひとり、相談受ける予定なんですよね。で、その前に、リハーサルしたくて!」
そういうことなら……と納得しかけた自分に、佐藤はびっくりした。
(いや、なにこれ!? なんで俺、こんな状況に巻き込まれてんの!?)
ただ財布を返してもらっただけ。お礼を言って立ち去るだけのはずだった。なのに今、目の前には満面の笑みで「恋愛相談して」と頼んでくる女子高生がいる。
「……じゃあ、相談役ってこと?」
「そう! 練習相手ってことで!」
「え、ええと……でも、俺、恋愛って言われても……」
「うっそ。佐藤さん、42でしょ? ぜったい経験豊富ですよね?」
「い、いや、その……人生経験はあるけど……恋愛経験は……その、薄いというか……」
「逆にレアです! 採用です!」
問答無用で座らされる。気がつけば、佐藤の手にはなぜか手作り感満載のチラシが握らされていた。
《恋愛相談室 in 歩道橋 あなたの恋、聞かせてください♡ 主催:高橋ひなた》
「……高橋、ひなた?」
「わたしの名前です!」
言いながら、彼女は小さくウィンクする。
この子、まるで風のようだ。思った瞬間には、もう別の方向へ吹いている。42歳の佐藤はただその風に巻き込まれるしかなかった。
そして約二分後——。
「じゃ、佐藤さん。仮の設定で話しますけど、もし会社の後輩に告白されたら、どうします?」
「えっ!? それは……ええと……」
「相手は20代、ちょっと世話焼きタイプ。連絡もまめ。でも仕事では先輩として尊敬してるって感じです」
「ま、まてまて、急に具体的すぎない!?」
「リアルに考えた方がアドバイスしやすいでしょ?」
「そりゃまあ、そうだけど……」
なんだこの状況。おっさんが、女子高生に恋愛相談されてるどころか、逆にシミュレーションされてる。完全に立場がわからなくなってきた。
だが、佐藤はまじめな男だった。こんなシチュエーションでも、聞かれたことには答えようとする。
「ええと……俺なら、相手の気持ちが一時的なものじゃないか、まず確認するかな……」
「へえ〜。ちゃんと相手を見てるって感じですね」
「それに……俺みたいなおっさんが相手なら、軽く言ったつもりでも、本人はずっと覚えてるから……」
その言葉に、ひなたが目を丸くした。
「……佐藤さん、それ、ちょっと刺さるなぁ」
「え?」
「ううん、なんでもない!」
彼女は笑った。くしゃっとした、飾らない笑顔だった。
その笑顔に、佐藤はほんの少しだけ、胸の奥がざわつくのを感じた。