後日談1 これからのふたりについて
ミリアムがジェレマイアと交際するようになって、しばらく経った。
「……ということですので、今後も帳簿管理をよろしくお願いします」
「了解した。いつも世話になっている、エリントン女史」
帳簿を抱えたミリアムがお辞儀をすると、正面にいた大柄な男性がうなずいた。
彼は、騎士団隊長のガードナー。彼の背後にはその部下である小隊長たちが並んでいる。
今日、ミリアムはガードナー隊全体への帳簿記入指導を行っていた。指導といっても今後も不正のないように丁寧に記載をするように、という忠告をするくらいだったのだが、「鷹の目のエリントン」と呼ばれるミリアムが来たからか、小隊長たちは背筋を伸ばして話を聞いてくれた。
もちろんその中に、ミリアムの恋人であるジェレマイアもいる。だが今の彼はきりっとした表情でミリアムの話を聞き、他の同僚たちとそろえて騎士のお辞儀をしていた。
ジェレマイアと交際を始めているが、「仕事中はきちんとわきまえる」というのを二人のルールにしていた。
ジェレマイアの方がミリアムにアピールしていた頃はともかく、双方の家族にも報告をしている仲になったからにはきちんと時と場合を考えるようにしていた。ジェレマイアの方も、「お互い仕事は大事ですからね」と納得の顔だった。
「……あ、少しいいですか、エリントン女史」
ガードナー隊長の号令で解散した直後、ジェレマイアに呼び止められた。彼は、紐綴じのノートを手にしている。
「これ、最近俺が部下に帳簿記入について教える際に使っている資料なのですが……ちょっとご意見を伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
ミリアムは眼鏡を押し上げ、事務的に応えた。
少し前までは帳簿記入を自分で行っていたジェレマイアも、今では部下に記入方法を教えながら一緒に帳簿管理をしているようだ。「最近は、計算が速くなったんですよ!」と部下の成長を喜んで報告するジェレマイアの背中に、銀色の大きな尻尾が揺れているような気がしたものだ。
本日の仕事は夕方までなので、フランクに退勤の挨拶をしてからミリアムが経理部の棟を出ると――
「ミリアムさーん!」
「ひゃわっ!?」
脇から大きな犬――ではなくて恋人に飛びかかられ、変な声を上げてしまった。
「あっ、今のミリアムさん、すっごく可愛い声を上げていた!」
「も、もう、いきなりはやめて、ジェイ!」
ぎゅうぎゅう抱きしめてくるジェレマイアの胸を押しながら抗議すると、彼は「すみません」と笑顔で言ってすぐに離れてくれた。
通りがかった騎士たちがこちらを見て、「またやってるよ」といわんばかりの目を向けてくる。
ジェレマイアは、スキンシップが好きらしい。こうして恋人として触れていい時間になるとどこからともなく飛んできて、ミリアムとのふれあいを求めてくる。
なお、交際を始めてからミリアムはジェレマイアのことを愛称のジェイと呼び、砕けた言葉で話すようにした。
ミリアムの方には特にこだわりはなかったのだが、ジェレマイアの方が「もっとミリアムさんに近くに来てほしいんです」と熱心にお願いしてきたのでこういうことになったのだ。
「……あ、そうだ。ジェイにも伝えておくべきことがあるの」
ジェレマイアと手をつないで歩きながら、ミリアムは彼の顔を見上げて言った。
「今日の午後に、お兄様から知らせがあったの。……スコット・アボットの処分について」
「……ああ、そういえばそろそろ結果が出る頃でしたね」
ジェレマイアはスコットの名を聞いて、少し顔をしかめた。
「あの人とは王子殿下の誕生記念パーティーでワイングラスをぶん投げられて以来ですけど……やっぱり何かしらの処分があったんですかね?」
「辛くも伯爵位の没収にはならなくて、財産の一部を国庫に納める形になったみたい。でも王子殿下が主催なさるパーティーで問題行動を起こしたということで、王家からの信頼はがた落ち。次期国王陛下の不興を買った貴族との取引なんて……ということで縁を切った商人も多いそうね」
……スコットは「王子殿下を侮辱したつもりはない! それに相手は、ただの平民だ!」と主張したそうだ。
だがジェレマイアは階級こそ平民だが王子の信頼するはとこである。そういうところに気づかないのが、スコットという男だったようだ。
「あと、奥様のシャーロットさんだけど……」
「その人には瑕疵はないのですか? ええと……確か、ミリアムさんが熱病に罹った頃からそいつらは浮気をしていたんでしょう?」
「シャーロットさんは『婚約者との縁は切れていると思っていた』なんて主張したそうだけど、スコットがシャーロットさんを巻き込もうと思って『おまえも知っていて私と関係を持っただろう』って暴露したそうよ。あと、一緒になって私のことを馬鹿にしていたとか」
「……妻の方も大概だが、地獄に道連れにしようとする伯爵のことも擁護できませんね」
「本当に。……お兄様は、そんなやつと縁組みしなくてよかったっておっしゃっているわ」
実際にはもっと怖い笑顔できわどいことを言っていたし、バーバラに至ってはミリアムも顔を引きつらせてしまうような罵詈雑言を吐いていた。
バーバラの愛らしさに心酔する彼女の婚約者が聞けば真っ青になって倒れるかもしれない――いや、未来の義弟は「辛口なバーバラも素敵だ!」と言いそうな青年だったので、大丈夫だろう。
スコットとシャーロットは仲良く針のむしろ状態で、社交界からもつまはじきにされているという。
ただまだ幼い彼らの子どもには罪はないので、スコットの弟が甥を引き取って養育しているとのことだった。スコットの弟は気弱そうだが真面目な少年だったので、彼のもとでなら健やかに育ってくれるだろう。
「いろいろあったけれど、八年間のわだかまりがやっと解けたから……よかったと思うわ。あなたはワイングラスを投げつけられてしまったから、申し訳ないけれど……」
「何を言っているんですか! ミリアムさんの繊細な肌にガラスの破片が刺さっていたらそれこそ俺、あの場で伯爵を叩きのめしていたかもしれません!」
ぐっと拳を固めて、ジェレマイアは言った。
「幸い俺はほぼ無傷でしたし、ミリアムさんにも怪我はなかった。俺は伯爵に手を出して暴行罪になることもなく、伯爵夫妻は報いを受けた。……だから、これでよかったと思っています」
「ジェイ……」
「それに。……こうして間近でミリアムさんの顔を見られる、っていう特権も得られましたし」
ジェレマイアはにっこり笑って言い、手を伸ばした。
彼の右手の指先が、ミリアムが掛けている眼鏡のつるにそっと触れる。
「……これ、後で外してくれますか?」
「……で、でも、そうしたらジェイ、いろいろなことを言ってくるじゃない」
「えー、だって、言いたいことは言わないと伝わらないでしょう?」
(伝わりすぎるのが、問題なの!)
ジェレマイアは非常に器用で賢い男だったようで、口での言葉と副音声を操るすべをあっという間にマスターした。
眼鏡を取って彼の目を見つめたら最後、ミリアムは実音声での「可愛い」と副音声での『愛している』の波に溺れてしまう。
(……でも。嫌では……ないわ)
ジェレマイアの胸を軽く押して距離を取ってから、ミリアムは少しずれてしまった眼鏡をかけ直した。
「……その、部屋に帰ったら……だからね」
「ミリアムさんっ……! 好き!」
「今はまだだめっ!」
めっ、と人差し指を立てて注意すると、ジェレマイアは「了解しました」と笑顔で騎士の礼をした。
……きっとこれからもミリアムは、この陽気な年下の恋人に振り回されて……ずっと笑顔で過ごしていくのだろう。




