13 失態
ミリアム・エリントンは、どうしたものかと悩んでいた。
最初は挨拶回りをする兄と一緒に、会場を回っていた。
眼鏡を掛けていないのでどうなることかとひやひやしたのだが、むしろ令嬢は慎ましく目を伏せていることが美徳とされていたため、ミリアムが伏し目がちでもさほど不審がられることはなかった。
兄もミリアムのことをうまく紹介してくれて、「上の妹は自分にできる形で伯爵家に貢献してくれます。私の自慢の妹です」と胸を張って言ってくれたので、皆も「そういうこともあるか」といった感じで受け入れてくれた。
そんな兄だが、途中で旧友たちに声を掛けられた。
ずっとミリアムの面倒を見てくれていた彼にも羽を伸ばしてもらいたくて、友人たちとゆっくりしてきてほしいと兄を送り出した。もちろん、ミリアムの側には伯爵家の使用人が付いている。
なるべく人気のない場所で兄を待っていよう、と使用人たちを連れて会場を出たところで、ミリアムは連れだって歩く二人の男を見つけた。
ワイングラスを手にしている方は――元婚約者のスコットだった。八年ぶりに見る顔だが、間違いない。
それだけでも驚きだったが彼が伴っているのがジェレマイアだったため、放っておくことができなくなった。
(そういえばジェレマイアは、おばあさまが元王女なのよね。それなら、王子殿下の誕生記念パーティーに呼ばれていてもおかしくないわ……)
まさかこんなところで、ジェレマイアに会うなんて。しかも今日の彼は式典用の騎士の礼服姿だ。
いつもはしどけなく垂らしている前髪もきりっと上げている姿にドキドキしつつ、どうなることかと不安に思い……彼らの後を追って話を聞き、あきれてしまった。
(スコット……何を言い出すかと思ったら、私の悪口をジェレマイアに吹き込んでいるの?)
いくらジェレマイアが王位継承権を持つ傍系王族でも彼とスコットとでは後者の方が身分が高いため、いざとなったら止めに入るなり人を呼ぶなりするつもりで立ち聞きをしていたのだが、スコットの話す内容を聞いて頭が痛くなってきた。
悲しいかな、あの厄介な能力を手にするようになったミリアムは確かに、スコットの前で奇行を繰り返していた。
「あることないこと」……つまり男爵令嬢シャーロットのことだろうが、スコットは自分の心の声が聞かれているとは知らないから、「ありもしないことで詰られた」と自己正当化させてもおかしくない。
これは、見張りの兵士を呼ぶなりしてさっさと解散させた方がいいだろう、と思っていたのだが――
「俺の知っているミリアムさんは、仕事中はクールで可愛くてプライベートのときはおっとりしていて可愛らしい、すっごく素敵な人です。ぶっちゃけ俺は、眼鏡があってもなくてもミリアムさんだから全然オッケーですし、むしろ眼鏡はミリアムさんの魅力を引き上げるグッズになっていると思っています。それに手に職を持っているのも、格好よくていいと思います」
今、ミリアムは壁の陰に隠れている。
だから、この台詞をどんな顔でジェレマイアが口にしたのかは分からない。
だが――
(……嬉しい)
ぐっ、と胸を押さえる。
嬉しい、嬉しい、と心の中の自分が叫んでいる。
伯爵家の長女として失格と言われてもおかしくないミリアムのことを、ジェレマイアはこんなに高く評価してくれた。ミリアムの魅力をたくさん見つけてくれた。
格上のスコットに対しても物怖じすることなく物申し――ミリアムの矜持を守ってくれた。
(ジェレマイア……)
彼のまっすぐな言葉が、嬉しかった。
……だからこそ、彼がかっとなった様子でスコットに詰め寄った気配を察したとき、体が動いてしまった。
間違っても、彼がスコットに手を上げるような事態になってはならない。
ジェレマイアはミリアムの名誉を守ってくれたのだから……今度はミリアムが、ジェレマイアを守りたかった。
使用人たちには人を呼ぶよう指示してから、ミリアムは前に出た。
開放廊下に立つ男たちは最初ぽかんとこちらを見ていたが、先にジェレマイアの方が「わっ」と小さな声を上げた。
「え、もしかして、ミリアムさん? う、わぁ……むちゃくちゃきれい……」
「え? あ、ありがとう」
「俺、知らなかった……ミリアムさんは仕事用の服も私服も似合っていると思ったけれど、ドレス姿はむちゃくちゃ神々しいんだ……うっ、幸せすぎて死にそう……」
「死なないでくださいね!?」
ついいつもの調子でそんなやりとりをしてしまった。おかげで、ほんの少しぐらぐら揺れていた心が落ち着いた気がした。
スコットの方は呆然とミリアムを見ていたが、遅れて調子を取り戻したようでふんっと尊大に鼻を鳴らした。
「……なんだ、ミリアム、聞いていたのか。久しぶりに見るが……それ、おまえの妹のドレスではないのか? おまえがそのデザインのものを着るには、薹が立ちすぎているだろう」
「え? 俺は可愛くて神々しくて、むちゃくちゃいいって思いますけど? どうやら俺と伯爵とでは、趣味が合わないようですねぇ」
ジェレマイアはけろっとした様子で言うとスコットに背を向け、ミリアムの方にやってきた。
……前髪を上げているおかげで、いつもよりもっとはっきりと彼のブルーグレイの目が見える。
だがその目を見つめていてもやはり、副音声は聞こえてこない。
ジェレマイアはにっこり笑って跪き、ミリアムの左手を取ってその甲にそっと唇を寄せた。
「……こんなところでお会いするとは、思っていませんでした。改めて……こんばんは、ミリアムさん。今日のお召し物、とてもよくお似合いですよ」
「っ……こんばんは、ジェレマイア。……あなたがそう言ってくれるだけで、私は十分幸せです」
ミリアムが勇気を出して応えると、立ち上がったジェレマイアがにっと笑った。
ミリアムは、スコットに視線を向けた。
『……なんだ、こいつ。生意気な目をしやがって』
スコットの心の声が、聞こえてくる。
『というかこいつ、もう二十四かそこらのはずなのに十分若く見えるじゃないか。我が儘なシャーロットのせいでうちはてんてこ舞いなのに、こいつは生き生きとしていやがる……』
(ははぁ……なるほど。スコットは奥さんとうまくいっていないのね)
ここに来る道中の馬車の中で兄から、「アボット伯爵も招待されているかもしれないけれど、最近あの家の評判はよくないから、来ていてもひとりぼっちだろうね」と教えてもらってはいた。
奇しくも本人の心の声が、噂が正しいこと――それどころかもっと残念な状況になっていることを教えてくれた。
『……いや、今ならまだミリアムとやり直せるかもしれない。シャーロット有責にして離縁してミリアムのご機嫌を取れば、エリントン伯爵家からの支援を――』
ミリアムが目をそらすことなくじっと見つめているからか、スコットの顔に苛立ちの色が濃くなっていく。
だが彼の心の声が聞こえるミリアムは余裕の笑みを浮かべて、ドレスのベルトに挿していた扇を引き抜いて開いた。
「……もしもゲスなことでもお考えなら、やめた方がよろしいですよ。私は一度、あなたと婚約破棄した身。何があろうと、あなたの手を取ることは二度とございませんので」
「っ……ま、またそうやっておまえは、人の気持ちを勝手に邪推している!」
「あら、それは失礼しました、伯爵。……では私たちはもう赤の他人ということですし、これ以降一切関わらないでください。……もちろん、ジェレマイアにも」
「……そ、そいつとは関係ないだろう!?」
「……関係ないのならばなぜ、わざわざジェレマイアを呼び出したりしたのですか? なぜわざわざ人気のない場所に無関係の者を呼んで、私の悪口を言ったりしたのですか?」
自分の発言の矛盾を指摘されたからか、スコットはぐっと言葉に詰まった。その顔色が徐々に赤みを帯びていき――
「……っ、下がって、ミリアム!」
「貴様っ!」
スコットが動きを見せると同時にジェレマイアが叫び、ミリアムの前に立ちはだかり――
パン! とガラスが砕ける音が、夜空に響いた。
「ジェレマイア!?」
「……そこで何をしている!?」
ミリアムが叫んでジェレマイアの礼服の腰辺りを掴んだのとほぼ同時に、背後から衛兵が駆けつけてくる音がした。
ジェレマイアがじりっと後退する。彼の足下には粉々に砕けたワイングラスがあり――彼は少し顔をしかめて、自分の左手の甲をかばうように腕を引いていた。
――さっと血の気が引く思いがして、ミリアムは彼の左横に回る。
「ジェレマイア、大丈夫!? ガラスが、手に――?」
「……いや、手袋をしているから貫通はしていません」
「そ、それならいいのだけど……」
ジェレマイアが自分をかばって負傷していたら、ミリアムも冷静ではいられなかっただろう。
ひとまずほっとしたミリアムの横を衛兵たちが通り、スコットの方に向かった。
「……王子殿下の誕生記念パーティーで、何をなさっているのですか」
「わ、私に言っているのか!? 私はアボット伯爵だ!」
「ですが、こちらの男女にワイングラスを投げつけたところを我々も見ております」
「……そのようなことをさせるよう仕向けた、こいつらが悪い!」
スコットはそうわめいていたが、発端が何であれ王子主催のパーティーの最中にワイングラスを投げつけるという暴挙に至ったのはスコットの方だ。
「放せ!」「伯爵家に逆らうつもりか!」と最初はわめきながら連行されていたスコットだが、騒ぎを聞きつけた貴族たちが開放廊下の出入り口付近に集まっていることに気づくと青ざめ、黙ってしまった。
(……伯爵家の経営も夫婦仲もうまくいっていないスコットには、皆の前で兵に連行される、というのはとんでもない恥辱になるでしょうね)
うなだれるスコットの背中を見送ったミリアムは、ジェレマイアの左手の甲を改めて見た。
手袋を外した皮膚には確かに、傷跡らしいものは見当たらない。だが彼の手袋や服はガラスの細かい破片を被っている可能性が十分にあるし、不用意に触れたら怪我をするかもしれない。
『……君のせいじゃないから、そんな顔をしないで、ミリアムさん』
ジェレマイアの顔を見上げると彼がそんなことを言ったので、ミリアムは首を横に振った。
「いいえ、私があなたを巻き込んでしまったのよ。だから、あなたこそ気にしないで――」
「……え?」
「……え?」
「……俺、何も言っていないですよ?」
「……え?」
ミリアムは、ゆっくり瞬きした。
そして……遅れて気づいた。
先ほどの言葉が聞こえる間、ジェレマイアの唇は動いていなかった。
動いていなかったのに――「ジェレマイアには自分の能力が通用しない」と決めつけていたミリアムは、それが彼の唇から発された声だと勘違いしていた。
(い、今のはジェレマイアの、心の声!? どうして……って……)
ジェレマイアに、心の声が聞こえることがばれてしまった。
はっと口を手で押さえて青ざめるミリアムだが、ジェレマイアの方はしばし考え込んだ後に、「……なるほど。そういうことだったのか」とどこか納得した様子で呟いた。
「……その、ミリアムさん。ちょっと、話したいことがあるんです」
「……は、い」
「でも今の俺は服とか手袋とかがきらきらしているし、危険なんで。……もしよかったら、うちで話をしませんか?」
「……うち、というのは?」
ミリアムがおずおずと問うと、ジェレマイアは微笑んだ。
「俺の実家……プレストン邸です」




