第二章 鷲の城(3)
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夕陽が〈聖なる炎の岳〉を照らし、麓の森に金の光を降りそそぐと、木々の梢はならんだ蝋燭のごとく燃えあがった。その上空を、一羽のワタリガラスがすべるように飛んでいく。かれの背は、夕焼け空とおなじ銅色に染まっていた。
杉の木の根もとには、古い石畳の参道が通っている。〈鷲の巣城〉の使者とアルトリクスをのせた黒馬は、そこを蹄音たかく駆けていく。木立ちにさえぎられない鳥の眼は、その先の丘の斜面をのぼる騎馬の列をとらえていた。町の視察を終えて帰ってきた大公たちだ。
美女の歓待と豊富な賄賂をえて、大公は上機嫌だ。彼にしたがう大人の騎士たちは、内心の後ろめたさを無表情で隠している。セルマ公女はうちしずみ、ライアンとトレナルは彼女を慰めることが出来ずにいた。
丘の頂上にたたずむアイホルム公の城は、最後の陽光をあびて神々しいほど輝いていた。
衛兵が城主の帰還を告げ、城門が開いた。行列は跳ね橋をわたって城の外郭へ入った。最後尾の従者が橋のうえにさしかかるのと同時に、カラスは門の上を超え、使者は橋にたどりついた。
「待たれよ!〈アドラーブルク〉の使者だ。入れてくれ!」
使者は大声をあげて鞭を振り、黒馬は泡をふきながら城門を駆けぬけた。
のんびり進んでいた大公の一行は、足を止めて振り返った。出迎える城の衛兵と下男たちが目をまるくしている。
使者は行列に追いつくと、さらに大声で呼ばわった。
「ライアン様! いらっしゃいますか? トレナル!」
大公は馬の手綱をひき、騎士たちは使者に道をあけた。使者はころがり落ちるように馬から降りると、大公の前にひざまずいた。
「急用につき、ご無礼の段はおゆるしください。グレイヴ伯爵家の者です」
「何事だ?」
ライアンが馬を寄せ、トレナルもやって来た。アルトリクスは使者にならって馬を降り、轡をとってなだめている。
使者は主人の息子に向きなおった。
「ライアンさま、トレナルも、至急、城にお戻り下さい。伯爵さまがお呼びです」
「父上が?」
(何の用だ?) と言いかけて、ライアンははっと息を呑んだ。頭を垂れた使者も、トレナルも、その場にいた全員が事情を察する。
ライアンは主君をみあげ、右手を胸にあてた。
「我が君、申し訳ありません。御前をしばし離れます」
「うむ、急ぐが良い。宜しく伝えてくれ」
大公は一も二もなくうなずいた。
ライアンは乳兄弟にみじかく声をかけると、不安げに見守っているセルマに一礼して、馬を走らせた。トレナル、使者とアルトリクスの騎乗する馬が後につづく。
来た道を大急ぎで引き返していく若者たちを見送り、大公は暗い嗤いを浮かべた。
「うるさい奴がいなくなる。都合が良い……」
城の屋根のうえでこの様子を眺めていたカラスは、ふくっと胸の羽毛を膨らませ、ひょいと首をかしげた。しかし、陽がしずんでしまったので、残念そうに尾羽を振り、ねぐらへと飛び去った。
*
少年たちは全速力で馬を奔らせた。森はみるみるうちに闇に包まれていく。使者とアルトリクスを乗せて走りつづけてきた黒馬は、疲れ、遅れぎみだった。とうとうこれ以上走らせては死んでしまうというところまで来て、彼らは立ち止まった。
「先に行って下さい、ライアンさま。私はこいつを休ませて帰ります」
使者とアルトリクスは馬から降りた。黒馬の眼は血走り泡をふき、汗でぬれた脇腹は大きく波うっている。使者はライアンを促し、ライアンは不本意ながらうなずいた。
黒馬の額をなでていたアルトリクスが、腰帯の内側から文字を刻んだ鉄製の鋲をとりだした。ぶつぶつと口内で呪文を唱えながら、使者と黒馬のまわりを歩き、ところどころ地面に鋲を打っていく。ひととおり巡ると、おもてをあげてこう告げた。
「結界をつくったから、朝までここで休むといい。火を焚いても大丈夫だ。狼や影鬼は入ってこられない」
「そ、そうか」
「夜が明けたら、鋲はそのまま放っておいてくれ。乗せてくれてありがとう」
「こちらこそ。感謝する」
互いの無事を祈ると、アルトリクスはライアンの馬に騎乗した。
「気をつけろよ!」
そう言い残す御曹司に、使者は愛馬の首をなでつつ頷いた。
ライアンは夜道を駆けながら、親友に声をかけた。
「そういえば。どうしてお前がいるんだ? アルトリクス」
「そんなことはどうでもいいだろう。〈妖精の道〉 を行こう、ライアン」
「ええっ? 大丈夫か? 俺たちはドラゴンの加護を受けているわけじゃないぞ」
「このままでは夜明けに間に合わない。こっちだ」
アルトリクスは腕を振って方向を示し、ライアンとトレナルの馬はしたがった。街道をはずれ、川沿いに鬱蒼としげった木立に入ると、アルトリクスは再び馬をとめさせた。彼が若いハシバミの枝をかきわけると、まっすぐ伸びた道が星明りに蒼く浮かびあがった。
アルトリクスが先頭を行き、ライアンとトレナルは騎乗したまま慎重にあとをついて行った。少年たちはおっかなびっくりだが、馬たちは不思議に落ち着いている。一歩ごとに空を踏むような心地がして、ライアンは左右を見渡した。青紫色の霧が視界をおおい、何処を歩いているのか分からない。
「お前、いつもここを通っているのか?」
「いつも、ではない」
ライアンの問いに、アルトリクスはふふっと笑って答えた。
「それに、常に同じ場所にあるわけでもない。今夜は特別だ。バンシーの歌を聞いたからな」
「〈泣き女〉」
トレナルが眉根をよせる。モルラの息子である彼は、異界からの警告の意味を知っているのだ。アルトリクスは神妙にうなずいた。
「おれの見たバンシーたちは、グレイヴ領の北境の川で洗濯をしていた。敷布のようだった。歌の意味を考えても、変事は〈アドラーブルク〉で起こる可能性が高い」
「それで迎えに来てくれたのか……。感謝する」
ライアンが低い声で礼を述べ、アルトリクスはいたわりをこめて首を振った。視線を前方へ戻し、
「抜けるぞ。気をつけろ」
突然、彼らの前にひろい草原があらわれた。夜空には半分に欠けた月がかかっている。水と麦のにおいをふくむ風が頬を撫で、少年たちの上衣の裾を揺らし、馬たちのたてがみをかき撫でた。ライアンが急いで辺りを見渡すと、月に向かって左側に〈聖なる炎の岳〉が、右側に〈アドラーブルク〉の特徴的な岩山がそびえていた。
「〈アドラーブルク〉」
呟くライアンを、アルトリクスはそっと促した。
「行け、ライアン。トレナル」
「礼を言う、アルトリクス」
ライアンは馬を励まし、トレナルとともに駆けだした。アルトリクスは草原に佇み、友の後姿を見送った。
*
門番は、ライアンとトレナルのあまりに早い到着に驚いていた。〈アドラーブルク〉からアイホルム公の居城まで、普通に歩けば三日はかかる。とうてい間に合わぬだろうというのが、城の者たちの予想だった。
故に、騎乗したライアンとトレナルが城内に入るのを、彼らは半ば呆然と迎えた。それから慌てて馬たちの轡をとり、厩舎へひいて行く。馬を降りたライアンとトレナルは、挨拶もそこそこに城へ向かった。
「何もないときはありがたいが、こんな時には辛いな」
岩山の麓の果樹園から山頂へつづく石段を登りながら、ライアンはぼやいた。トレナルもさすがに苦笑を禁じ得ない。二百ヤール(約百八十メートル)の断崖は、敵の侵入を防ぐには有利だが、急ぐときや疲れているときには障害でしかない。しかし、不満を述べたところで山が低くなってくれるわけではないので、彼らは黙々と登りつづけた。
二人が頂上の城の庭にたどり着いたときには、東の山際がほの白く光りはじめていた。
城内には多数の灯火が点り、人々は起きていた。夜どおし活動していたのだろう。下男や侍女たちの瞼は赤く腫れ、みな一様に驚いて跡取り息子を迎えた。
「ライアンさま、よく帰ってきてくだされた」
「父上は?」
忠実な家令にうなずき返して、ライアンは早口に囁いた。応えを待たず、城主の居室へ足を踏みいれる。灯りを落とした部屋の暖炉はあかるく燃え、銅鍋の中では湯がふつふつと沸いている。永年グレイヴ伯爵につかえてきた騎士と侍女たちが、主人の周りにもの言わぬ影のごとく控えていた。
「ライアン」
寝台の傍らに坐っていたモルラが、立ってライアンを迎えた。ふだん気丈な乳母の顔に疲労と安堵と悲嘆をみつけ、ライアンは彼女を抱きしめた。つづいてトレナルが母をなぐさめる。
ライアンは寝台に歩み寄り、死にゆく父に対峙した。
「父上、ただいま戻りました」
冗談であって欲しいというわずかな期待は、やつれた父の顔をまえに霧散した。ライアンの記憶より父の髪は白くなり、皮膚は乾いて皺が増えている。病との長い闘いを終えた男の頬には、すでに死相があらわれていた。それでも、老騎士は息子の声に瞼をあげ、往時の猛々しさを思わせる精悍な笑みをうかべた。
「おお。帰ったか、ライアン。すまんな、忙しいところを呼び戻して」
「いえ……」
(別に、大した用はありませんし。)言いかけた言葉は喉の奥で凍り、塊となって呼吸をふさいだ。父が身を起こそうとしたので、ライアンはひざまずいた。モルラが戻ってきて伯爵の背に枕をあてがう。
「今回は、さすがの儂も暇をこわねばならぬようだ。陛下によろしくお伝えしてくれ。老骨があの世への露払いをつとめます、とな」
「ご自分で仰ればよいではないですか」
少年の声は涙にくもった。伯爵はふっと笑うように息を吐くと、澄んだ碧色の瞳で息子をみつめた。
「妖精の粉が衣に着いておるぞ。〈妖精の道〉を通ったか。ラダトィイの若長は息災か?」
「……はい」
父の慧眼に驚きつつライアンが答えると、伯爵のかすれた声に力がこもった。
「我らは天空神のとりなしを受け、地母神よりこの地を預かりしもの。世界に満ちる精霊たちに敬意をはらい、ゆめゆめ竜の機嫌を損ねるな」
「承知しております」
「民とともに在れよ、ライアン。さすれば天空神の加護が得られよう……」
ライアンがうなずくと、伯爵は安心したように枕に身をしずめた。トレナルが上衣の袖で目元をぬぐい、部屋のあちらこちらから嗚咽がもれはじめる。モルラが手ぬぐいで主人のこめかみを拭いていると、窓をおおう鎧戸の隙間から朝日がさしこんできた。
ヒヤリとした風と共に、その時、羽ばたく音が聞こえた。
伯爵はふたたび眼をひらき、明るく微笑んだ。
「おお! 迎えにきて下さった。では、皆の衆、さらばだ!」
ライアンが立ち上がって鎧戸を開けると、〈アドラーブルク〉城のすぐ横を、巨大な大鷲が飛んでいた。昇ったばかりの陽光を反射して、嘴は黄金色に煌めき、鉤爪は鋼色に輝いている。銀灰色の羽毛は燃え、長大な風切り羽根は風にたわんでいる。
二十ヤール(約十八メートル)はあろうかという伝説の大鷲は、金色の瞳で城内の者をジロリみすえると、滑空して崖から離れたのち、城の上空を悠然と旋回した。
やがて、鷲が西の空へ飛び去ったのち、ライアンたちが顧みると、グレイヴ伯爵はこときれていた。
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