第二章 鷲の城(1)
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アイホルム大公領とヒューゲル大公領の国境の川のほとりに、グレイヴ伯爵の城 〈鷲の巣城〉 が建っている。ライアンの実家だ。城主であるライアンの父は、狩猟の際に負った傷がもとで体をこわし、ここ数年伏せっていた。夫人は十数年前に亡くなっているので、伯爵の看病と岩山の頂きにある城のきりもりは、ライアンの乳母モルラが行っている。
モルラはすらりとした長身に黒髪、黒い瞳をもつ先住民の女性だ。女祭司の知識をもち、聡明で気さくな人柄は、伯爵家の騎士たちは勿論、使用人と領内の農民たちに慕われ、尊敬されていた。
ながい夏の日の夕暮れ。外郭の畑仕事を終えて城へ戻ろうとしていたモルラに、厩舎係の男が声をかけた。門の外に、見知らぬ人々が集まっているという。既に数人の衛兵が、武器を手に門へむかっていた。
モルラは後頭に結いあげた黒髪をゆらして踵を返し、根菜をのせた籠を手に門へおもむいた。叢に、十数人の人影が佇んでいる。つかれた、暗いまなざしをした先住民の男女だ。すりきれた服を着て、靴を履いていない幼い子どももいる……。モルラは眉根を寄せると、武器を持っていないことを確かめさせた上で、彼らを城内に迎えいれた。
モルラは人々を納屋へ案内すると、バターをたっぷり使ったオーツ麦の麦粥とエール、あたたかな豆とベーコンのスープをふるまった。飢えと疲労にこわばっていた人々の頬が和らぎ、幼児の瞳にかがやきが戻ってくる。――モルラは、自分と同じように彼らを眺めている青年の存在に気づいた。
周囲とは明らかに様子が異なる青年だ。仕立てのよい毛織の外衣をはおり、頭巾と革長靴には緋色の房飾りが揺れている。襟をとめる留め具は銀製であろう。肩の高さで切り揃えられた黒髪はさらさらと、獣脂の灯りに艶めいている。
青年はエールを飲み終えると席を立ち、しずかに納屋を出ていった。城を去るつもりだと察したモルラは、急いで後を追いかけた。
「待たれよ」
モルラの声に、青年はたちどまった。びくん、と細い肩をすくませる仕草は、怯えるカラスそっくりだ。
青年は、いかにもおそるおそる、といった呈でふりむいた。
「わたしをお呼びで?」
「そうだ。貴公があの人々をここへ連れてきたのだろう。……同業者とおみうけするが、どこの部族の祭司か?」
モルラは単刀直入に訊いた。青年は、困り顔で頭のうしろを掻いた。
「まいったなァ、わかっちゃいます? 部族には所属していないので、もう何年も、会合には顔をだしていないのです。この辺りに知っている人はいないと思うんだけど」
「師は誰だ? どこの学派だ?」
問いながら、モルラは腰帯に挿した短剣を握りしめていた。ひょうひょうとしている青年の黒い瞳に、紫水晶に似た煌めきをみつけたのだ。――ひとではない、のかもしれない。
女魔術師の眼光の前に、青年は両手をひろげて降参した。
「そう睨まないでくださいよ。わたしの師匠は、みんな 《約束の地》 へ行ってしまったので、名をあげてもご存じないと思いますよ。現在もこちらにいるのは、《森の賢者》 くらいです」
モルラは息を呑み、まじまじと青年を凝視した。短剣をもつ手から力が抜ける。
「貴公、あちらの人間か」
《森の賢者》 は、妖精たちの王と呼ばれる存在だ。《曙山脈》 の奥深く、現世と幽世の狭間の森で、一族の妖精たちとともに暮らしている。ただびとが魔術の教えを乞える相手ではない。
モルラはかれを外衣の襟の留め金から、革長靴のつま先まで眺めすかした。吹けば飛ぶような風情だが、見た目通りの者ではないらしい。
モルラは踵を返し、彼を促した。
「来られよ。茶でもいれよう」
居心地わるそうに頭を掻いていた青年は、ほっと息を吐いた。
「助かりましたよ。あの人たちをどこへ連れて行けば安全か、分からなかったんです」
モルラは青年を、〈アドラーブルク〉城の使用人小屋へ案内した。人払いをした部屋に入ると、青年はレイヴンと名乗った。彼は樫の木の長卓についてモルラにだされた香草茶を飲み、干し葡萄のトルテ(タルト)を食べ、しみじみ礼を述べた。
「ヒューゲル大公領へ行くには、山を越えなければなりませんからね。子どもたちにはきついでしょう」
モルラは彼の向かいに座り、うなずいた。
「大公殿は酷なことをなさる……。先住民と混血に対する政策を、変えて頂くことはできぬものか」
モルラの呟きに、青年は 「うんうん」 と調子よく相槌を打った。土地を追われた人々を案内してきたわりに軽薄だと思いながら、モルラは彼に問いかけた。
「それで、貴公はどこへ行くつもりだったのだ?」
「わたしは大丈夫です。――ああいえ。大丈夫ではありませんが、何とかします。そのう、アイホルム大公領から出られない事情がありまして」
「ほう?」
モルラは促したが、レイヴンは自分のことは話したくないらしく、目をおよがせた。煤で黒ずんだ梁と土の壁のつくる角を眺め、
「あの人たちは、これからどうなります?」
「全員を匿うのは無理だな。怪しまれる。城内で数人を雇い入れ、あとは城下に住まわせるか……。無論、家族がばらばらにならぬよう配慮しよう」
「それを聞いて安心しました」
青年は人好きのする微笑をうかべた。
「グレイヴ伯爵さまなら、ネルダエ諸族と親交がおありでしょう。万一、大公から追求された場合、あの人たちを自治領へ逃がしていただけますか」
モルラは目を眇め、優男のつるんとした髭のない頬をながめた。
「そこまで知っていながら、なぜ貴公みずから案内せぬ?」
「嫌だなァ。わたしのような素性の知れない祭司が水竜の聖域に入ったら、石にされてしまいますよ。……それに、彼らは人里で暮らしてきたひとびとです。たやすく〈ラダトィイ〉族の暮らしに馴染めるとは思えません」
(それもそうか。) モルラは相槌をうった。〈ラダトィイ〉族を守護する竜と妖精たちは、自治領を含む広大な森をなわばりにして、部外者の侵入を拒んでいる。同じ先住民とはいえ、下界の暮らしに染まった者を簡単に受け入れるはずがない。
レイヴンは茶器を両手でつつみ、息を吐いた。
「わたしは、こちらでやらなければならないことがあるのです。まだ、アイホルム家から離れるわけにはいきません」
「左様か? 現在のアイホルム公が、貴公を優遇して下さるとは思えぬが」
モルラはそっと鎌をかけてみた。案の定、青年は寂しげな微笑を彼女に向けた。
「……転生した魂から、過去の呪いを取り除く方法はありますか?」
「なんと?」
モルラは耳を疑い、それから首をひねった。
「知らぬな……聞いたことがない。ひとの子のわざでは難しくないか。第一、転生した魂を、どうやってそれと見分けるのだ?」
「ですよねー」
「過去の、とは、前世でかけられた呪いか? 転生してもついてくるとは、よほど強いのだな。転生自体が呪いなら、今生でそれを絶つしか術はない」
(絶つとは、生命の死と再生の環から外れること。)モルラは苦い気持ちで考えた。(それは永遠につづく魂の消滅。或いは、海の向こうの理想郷 《約束の地》 へ逝って、還らぬことだが……。)
レイヴンはうなずき、器を置いて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。どうか、あの人たちを宜しくお願い申し上げます」
「待たれよ」
部屋を出て行こうとするレイヴンを、モルラは再び呼びとめた。
「レイヴン卿。貴公を、同じネルダエの祭司とみこんでお頼み申す」
急にあらたまった口調で話しかけられたレイヴンは、怪訝そうに振り向いた。モルラは彼に足早に近寄り、声を低めた。
「〈ラダトィイ〉族をはじめ先住民諸族の間で、アイホルム大公への反感が高まっている。領内だけでなく、領外からも祭司が集まり、地母神の民をすくわんと」
レイヴンは真顔になってモルラをみつめた。モルラはうなずき、さらに声を低くおしころした。
「こころざしに賛同して頂ければ、貴公にも助力ねがいたい」
「……宜しいのですか? グレイヴ伯爵家中のあなたが、そんな話をわたしにして」
女魔術師は不敵に嗤い、鹿皮の胴着におおわれた胸をそらして、レイヴンの紫紅の虹彩をみかえした。
「貴公は行く場をなくした人々を 〈鷲の巣城〉 へ連れて来た。われわれは、大公の臣下であるまえに地母神の民であろう」
「……すぐにはお返事しかねます。考えさせてください」
レイヴンは慎重にこたえ、頭巾をかぶりなおすと、一礼して外へ出た。
モルラは胸のまえで腕を組み、夕陽に向かって歩いていく青年の――鴉を想わせる後姿を見送った。
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