第一章 双子の公女(1)
1
初夏の森のなかを、少年は駆けていた。
風になびく短髪は黒、まっすぐな眉の下の瞳は黒曜石。日焼けした肌はひきしまり、肩から上腕にかけて筋肉が盛り上がっているので、かるい猫背に見える。力をつかって労働する者の体だ。なめした鹿革の上衣を着て、ぴったりの脚衣の下には先住民族の革長靴を履いている。腰帯に挿した剣だけでなく、懐には真新しい短刀を抱き、首には豪華な黄金のねじり頸環をはめていた。
少年は上機嫌だった。親友の誕生日の贈り物の短剣が、思った以上にうまく仕上がったのだ。友の喜ぶ顔を想像して頬をゆるめながら、木漏れ日の下を駆けていた。
この時間なら、友は主人の娘たちを護衛して森へ来ているはずだ。通いなれた径をいく彼の耳に、澄んだ歌声が流れてきた。
シラカバの月(一月)は雪の中、篝火草の紅い炎。
ナナカマドの月(二月)は仔羊たち、イ・ムボルグ(早春の祭り)の朝に乳しぼり。
ニワトコの木を植えて(三月)、小枝で火を熾して。
ハンの木の萌える(四月)小径、妖精たちは環になって踊る。
少年は徐々に速度をおとし、歩いて声に近づいた。樫の木々に囲まれた野原に、シャムロック(クローバ類)や勿忘草、兎菊が咲いている。二人の少女が緑の絨毯のうえに腰をおろし、交互に歌っていた。
ヤナギの葉はやわらか(五月)、ベルテイン(火祭り)の篝火は星を照らす。
サンザシの花が咲いたら(六月)、小川に魚が跳ねる。
オークの月(七月)のホタルブクロ、ベリーは野に歌う。
ヒイラギの花を飾って(八月)、ネワン(収穫祭)のトルテ(タルト)を焼きましょう。
少女たちは揃いの白と青の胴着に身をつつみ、輝く黄金の髪をその上にひろげて、シャムロックの花を編んでいた。一方が月を歌い、もう一方が応える。そっくりな声で小鳥のように笑う。彼女たちが微笑むたび、木漏れ日が風の中をきらきらと舞い、まるで彼女たち自身が森の妖精のように見えた。
少年は足を止め、やや陶然とその様子を眺めたのち、息を殺して広場に近づいた。ニワトコの茂みに身を隠し、樫の木の根元に寄っていく。護衛の従者たちが馬を連れてくつろいでいるところに近寄ると、友の腕に触れた。
赤毛の従者はふりかえり、彼をみつけて破顔した。
「アルトリクス」
「よ、ライアン。トレナル」
少女たちの邪魔をしないよう、小声で挨拶を交わす。他の騎士たちが彼らを顧みたが、ネルダエの少年が誰か分かると、咎めることはしなかった。
歌は続いていた。
ハシバミの実が成れば(九月)、鹿が教えてくれる。
葡萄の蔓を編んで(十月)、長卓には蜂蜜酒。
木蔦ウコギの蜜をあつめて(十一月)、サウィン(新年の祭り)の蝋燭をつくりましょう。
ヤドリギの枝を飾れば(十二月)、あなたがやってくる。
アルトリクスは少女たちを眺めながら、溜息まじりに呟いた。
「征服民の連中は、どうしてあんなに白いんだろう」
感心しているのか呆れているのか。ライアンは苦笑した。
「そうだな。だが、姫君たちは混血だ」
「えっ?」
アルトリクスが振りかえる。ライアンは野苺の実をもいで口へはこび、うなずいた。
「エウィン大公妃は混血で、孤児でいらした。だから、おふたりとも、先住民の血が入っている」
「そうか。お前と同じだな」
アイホルム大公家の公女が混血と知り、アルトリクスは嬉しそうだ。ライアンは複雑な気持ちでうなずいた。――大公妃は孤児だった。普通なら、己と同じ立場の者や、出自にかかわる民をいたわりそうなものなのに……。
アルトリクスはいたって呑気だった。友の鍛えた胸を手の甲でとん、と叩き、
「お前の好みはどっちだ? ライアン」
「え。」
赤毛の少年は息を呑み、さっと赤面した。
「バカ。主の姫君だぞ、失礼な」
「そんなことは分かっているよ。で、どっちなんだ? 白状しろよ」
まるで分かっていない。従者の分際で主人の姫君たちを品定めなどしたら、手討ちにされかねない。ライアンは顔をしかめたが、邪気のない友の瞳の輝きに圧され、気を遣いつつ答えた。
「……セルマ様もティアナ様も、淑女でいらっしゃる。特に、ティアナ様は、お優しくて聡明だ」
「ふうん。良かった。お前と恋敵になるのは嫌だからな」
「アルトリクス、お前――」
ぎょっとするライアンの眼前に、真新しい鞘に入った短剣がつきだされた。
「誕生日だったろう? 作ってきた」
「えっ、俺に?」
ライアンは瞬きをくりかえした。
アルトリクスは得意げに笑って剣の柄をゆらす。ライアンは両手で受け取ると、鞘に刻まれた組紐模様を指でたどり、そっと抜き放った。銀色の輝きが目を射る。濡れたような刃の煌めきと掌にずしりと来る重さに、ライアンは息を呑んだ。
「すごい……これがラティエ鋼か」
「いや、違う。そいつはただの上鋼だ」
アルトリクスはあっさり否定した。
「ラティエ鋼をつくるには、竜の鱗が必要なんだ。お前専用の鱗が。手に入れたらつくってやるから、今はそれで我慢してくれ」
「我慢なんて、とんでもない!……ありがとう。大事にするよ」
「気楽に使ってくれよ。今度、狩りにいこうぜ」
「ああ」
少年たちがにやにや笑っていると、二人をみつけたセルマ公女が声をあげた。
「アルト!」
公女はしなやかな片手を挙げ、長い髪をゆらして駆けてきた。彼女の動きにつれ、胴着についたシャムロックの葉が辺りに散る。姉から数歩遅れて、ティアナ公女がゆっくり歩いて来た。
ライアンとトレナルとアルトリクスは、一礼して姉妹を迎えた。
「アルト、こんにちは。ライアンに会いに来たの?」
「こんにちは、セルマ、ティアナ。ライアンの誕生日の贈り物を届けにね」
「えっ?」
セルマは青い目をみひらき、ティアナは手で口元をおおった。
「ライアン、誕生日だったの。今日?」
「一昨日です」
「まあ、存じ上げませんでしたわ。ごめんなさい、何も用意していなくて」
ティアナの言葉遣いはいつも丁寧だ。ライアンは苦笑して頭を下げた。
「話していませんから、ご存じないのは当然です。お気になさらないでください」
「改めて、お祝いさせてくださいな」
「ティアナ様、お気持ちだけで充分ですよ」
「何をもらったの? ライアン」
セルマが興味津々に手のなかを覗きこんでくる。ライアンが短剣をみせると、少女たちは感嘆の声をあげた。
「凄い! アルトが作ったの?」
「綺麗な模様! この細工もアルトリクスが?」
「いいえ、鞘は弟です」
アルトリクスは得意げに鼻の下をこすって説明した。
「次期グレイヴ伯爵への贈り物だと言ったら、はりきって作ってくれました。剣は私です」
「ありがたい。お礼を言っておいてくれ」
「ラダトィイ族と伯爵家をつなぐ素敵な贈り物ね。いいなあ、私も欲しいわあ」
セルマがさらりと言い、少年たちは一瞬 「え?」 と顔を見合わせた。その反応には構わず、ティアナは小さく手を叩いてセルマに顔を向けた。
「ね、お祝いしましょうよ、セルマ。私、トルテ(タルト)を焼くわ」
「そうね。日を改めて誘ったら、アルトも来てくれる?」
「喜んで」
勝手に進んでいく計画にライアンは狼狽えたが、固辞するのはやめた。姉妹は今年の誕生日を、例によって気まぐれな母親のせいで、全く祝ってもらえなかったのだ。彼の誕生日をともに祝うことで、彼女たちの気持ちが晴れるのなら……と思う。
ライアンは軽く一礼して応えた。
「ありがとうございます。お受けします」
「良かった! 何歳におなりなの? ライアン」
「十六です」
「まあ。では、今年は騎士叙任ね。ますますお祝いしなくては」
ふわりと幸せそうに微笑むティアナにつられて、ライアンの頬もほわりとゆるんだ。八歳で小姓になってから八年、同じ城で育ってきたライアンにとって、公女たちは妹のような存在だ。彼女たちが楽しんでくれるのは、何より嬉しい。
「叙任式では、是非、私に拍車を着けさせて下さいね」
「……畏れ多いことです、ティアナ様」
叙任をうける従者たちは、式の前、神殿にこもって潔斎したのち、正装して主君から剣をいただく。彼らの身支度を整えるのは、主の身内の女性の役目だ。ティアナ公女に拍車を着けてもらえるなら、ライアンにとって願ってもない栄誉だが、
「あら。その役、私もやりたいわ。ティアナ、半分こしましょうよ。あなたがライアンの右足の拍車を着けて、私が左ってことで、どう?」
「ええっ?」
焼き菓子を分けるようなセルマの提案に、ライアンはくるくる目を回した。アルトリクスが堪えきれずに笑っていると、様子を見守っていた騎士のひとりが声をかけてきた。
「セルマ様、ティアナ様。そろそろ城にお戻りになる刻限です」
途端に、花が萎れるごとくティアナの顔が曇り、セルマの青い眸に苛立ちが宿った。ティアナは小さく溜息をつき、セルマは硬い声音で応えた。
「分かりました。……アルト、今度はお城に来てちょうだいね」
セルマの乗馬にはトレナルが、ティアナにはライアンが手をかした。馬上から呼びかけられたアルトリクスは、にこりと笑って片手を挙げた。
「ああ、寄らせてもらうよ」
「きっとね、アルトリクス」
ティアナがシャムロックの花輪をさし出したのを受け取り、アルトリクスは丁寧に一礼した。公女達の騎った馬が騎士たちに先導されて行き、ライアンとトレナル達が従うのを、アルトリクスは佇んで見送った。
~第一章(2)へ~