第四章 竜の盾(2)
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朱と紫の縞模様に染まった空を、一羽のワタリガラスが翼をひろげて横切った。東から西へ、〈聖なる炎の岳〉から中央山脈へ。カラスは国境の川をとびこえて山陰の森に入ると、一本の樫の枝にまいおりた。そこで数本の枝をわたって居場所を定め、首をかしげて地上を見下ろした。
樫や杉、ぶなの巨木がおいしげる〈古き森〉の一隅に、灰色の外套をまとい頭巾をかぶった人々が集まっていた。
男も女も、若き者も老人もいたが、多くは壮年の男たちだ。杖をつき、角燈をかかげ、頭巾の端からは髭におおわれた顎がのぞいている。先住民の祭司たちだった。夕闇のおしせまる木陰に身を寄せ合い、ゆらゆらと肩をゆらし、低い声で歌っている。
カラスが静かに観ていると、祭司たちの中から一人の女性がすすみ出た。頭巾を脱いであらわにした顔はまだ若い。ゆたかな黒髪を肩から背へ流し、革製の上衣の襟を大きくはだけている。彼女の頬から首筋にかけて、紫の草の汁で呪文が描かれていた。
女は片手に一羽のニワトリを、もう片方の手に銀色にかがやく短刀を握っていた。
祭司たちの声は波のように低くなったり高くなったりした。女はそのうねりに合わせて踊るように両手をひろげ、右へ左へ体を揺らし、くるりと回って樫の巨木に近づいた。
歌声がいっそう大きくなる。カラスはぶるりと身を震わせた。
女は、ニワトリの首に刃を当ててさけんだ。
「日に夜を、闇に光を。生と死のはざまにいます神々に、申し上げたてまつる。われらが願いをききとどけたまえ。敵に死を、死者に導きの灯を。闇の使者をこれへ。呪いの箭をとどけさせたまえ」
そう言うと、彼女はニワトリの首をかき切った。ぐっとひと声で鳥の頭は落ち、血が噴き出した。(カラスは枝の上でひゅっと首をすくめた。)
ぼたぼたと滴る血をものともせず、女はニワトリの亡骸を樫の幹に押しあて、枝にくくりつけた。手についた血で樫の幹に文字を描くと、その血を己の額に、頬に、肩と胸にこすりつけた。
他の祭司たちは、低く高く歌いながら、この様子を見守っていた。
宵闇にしずんだ森の影から、突然、ものすさまじい気配が立ちのぼった。女と祭司たちは身構え、しばらくその場に立ち尽くした。カラスは羽毛をふくらませて首をあげ、森から夜へと拡がる〈闇〉を凝視ていた。凍りつくような寒気があたりを浸し、カラスは小刻みに尾の先をふるわせた。
やがて、自分達の願いが成就したと察した祭司たちは、ひとりまたひとりとその場を去り、後には件の女祭司とカラスだけが残された。
女ははだけた上衣の襟をととのえ、首のうしろで髪をまとめると、頭巾をかぶった。自分の角燈を拾い上げて立ち去ろうとする彼女に、レイヴンは声をかけた。
「〈闇の魔物〉を召喚するとは。大胆なことをなさいますね」
モルラは踵を返しかけて動きを止め、頭巾の下から青年を見つめた。レイヴンは気軽な口調でつづけた。
「いいんですか? あやつの矢は、貴女がたの敵だけでなく、若殿やご子息に的るかもしれませんよ」
「願ってもないこと」
モルラは緋く塗った唇の端をひいて微笑み、挑むように応えた。
「〈闇の魔物〉の毒ならば、妾が癒して進ぜよう。それでこのくだらぬ戦から離れられるなら、この上はなし」
「こわいなあ。相手の意思はおかまいなしですか? 大鷲の殿(故グレイヴ伯爵)が、そんなことを望まれるとは思えませんが」
「利いた風な口をきくな」
モルラはふんと鼻をならし、小柄な優男をねめつけた。
「こうしている間にも、故郷を追われた〈大地の民〉が、飢えと寒さに凍えている。病に倒れ、傷つき、生命を落とす者もいる。全ては〈偽大公(アイホルム大公の蔑称)〉の責任だ。おのが民を苦しめ私腹を肥やす者は、領主にあらず」
「そう言われると、返す言葉はありませんが」
「真に民を想いおのが義を貫くなら、セルマ公女の矢はその父にこそ向けられるべきであろう。ライアンの剣もまた同じ」
「厳しいなあ。仰るとおり、ですが――」
「……貴公は変な御仁だな、レイヴン卿」
不意にモルラは口調をゆるめ、苦笑した。レイヴンは、ぽりぽりと頭の後ろを掻いている。
「民を保護したかと思えば、アイホルム大公を庇おうとする。ネルダエの祭司でありながら。貴公、どちらの味方だ?」
「わたしはただ、板挟みになっておられるセルマ公女とライアン殿を、気の毒に思っているだけです」
「板挟み」
モルラは首をかしげ、ふむ、と鼻の下をこすった。掌に着いたニワトリの血を眺め、
「トレナルが忠心は〈大鷲〉にあり、ライアンが忠義は公女にある。セルマ公女は支配されておられるだけだ。誰を助けるべきかは、明白であろう」
「そうすっきりはっきり割り切れないから、困っているんですよ。大公夫妻は救いの対象になりませんか」
「〈偽大公〉を?」
モルラは声をあげて笑い出した。レイヴンは困って眉尻を下げ、もじもじと手を揉んだ。
モルラは笑いをおさめると、若い(ように見える)魔術師をまっすぐ見つめた。
「貴公はよほど心根が優しいのか、おめでたいのか。住処を追われ凍えている者に、家族を喪った者に、訊いてみるがよい。〈偽大公〉を救うべきは大公ご自身であり、妃もまた然り、と答えるであろうよ」
「そうでしょうね……」
レイヴンは反論せず、肩を落としてしょんぼりと項垂れた。モルラは彼をしげしげと眺めた。
「〈山の民〉はセルマ公女に力を与える一方、秘かに被害をくいとめようとしている。地母神が意を享けているのであろうが、その深謀ははかりがたい。ひとの子はひとの子として、対抗するしかなかろう」
「魔には魔を、ですか」
「さよう」
モルラは力強くうなずき、夜空を見上げた。
「魔力をもって魔法を封じれば、人同士の戦いとなる。大公が大公家を救うか斃れるかは、自身が決めるであろうよ」
そう言ってモルラがふりむいた時、魔術師は姿を消していた。樫の梢が揺れ、星あかりに黒い影が飛び去るのを観て、モルラはほっと息を吐いた。
*
「どうした? シルヴィア」
夜風がふき抜ける湖上住居にて。湖のうえに伸びた回廊で星を眺めていたアルトリクスは、隣に立つ少女に声をかけた。
白銀の長髪、真珠色の肌をもつ少女だ。紫水晶の眸にとがった耳、頭にはえた牡羊の角のごとく渦を巻いた二本の角は、人ではないことを示している。エフェメラ(カゲロウ)の翅のごとき透明な衣をしなやかな身にまとい、小さな鈴の環を片足にはめた彼女は、優しげな外見に似合わぬ鋭い視線を湖面に投げかけたのち、アルトリクスをかえりみた。
「魔ガ動イタ。あるとりくす。どりゅいど達ガ、仕掛けるゾ」
「ええ?」
アルトリクスは咄嗟に意味がわからず、瞬きを繰り返した。桟にもたれたシルヴィアは、すう、と眼を細めた。
アルトリクスは、はっと息を呑んだ。
「ネルダエの祭司たちか。ラティエ鋼に対抗する方法を手に入れたんだな」
青年の表情がみるまに翳るのを、シルヴィアは冷静に見守った。
「打チ壊スニハ及ばズ、スリ抜ケルであろう。〈山の民〉ノ魔法ハ守ルものナリ。攻メルちからハ強クトモ、守リヲ破られレバ、せるまトテ危険ダ」
「そうか……」
「行クノであろう? あるとりくす」
シルヴィアは首をかしげ、アルトリクスの沈んだ顔をのぞき込んだ。真摯な眼差しを受け、青年は弱々しく微笑んだ。
「奴らの気持ちは解る。だが、おれはセルマを見捨てられない。いいのか? シルヴィア」
「汝ハ決メテイル。何故、我ノ許可ヲ求める?」
「シルヴィアは、おれ達の女神さまだから」
アルトリクスは微笑み、少女の頬をそっと撫でた。
「勝手なことをしたら怒られると、長老たちが心配しているんだ」
シルヴィアは表情を変えなかったが、とがった耳の先をわずかに動かした。
「我ハ汝ト契約シテイルが、汝ガ行動ヲ決メルのは、汝自身ダ。ひとノ子ヨ、汝ラノ生ハ短イ。さっさと番ヲつくって子ヲ成サネバ、血ガ絶エテしまう」
「要するにそうなんだが……そんな風に言われると、身も蓋もないなあ」
アルトリクスは片手で顔をおおい、ため息をついた。思わず苦笑いしてしまう。人語を解し人の姿になれる水竜だが、こういう時は感覚の違いを痛感させられる。
シルヴィアは再び眼を細め、遠い記憶を呼びおこすように応えた。
「我ニハ汝ガここヲ離れることヨリ、絶エルことノ方ガ耐エ難イ。里ハ我ニ任セテ行ケ、あるとりくす」
「ありがとう、シルヴィア。お言葉に甘えさせてもらうよ」
アルトリクスは礼を述べたが、シルヴィアはにこりともしなかった。そういう感情表現とは無縁なのだ。彼女の優しさを理解しているアルトリクスは、少女のなめらかな髪を撫でた。
夜風が、星空を映す湖面にさざなみをたてて通りすぎる。下界から離れた聖地の風は冷たく澄みわたり、銀色の星の光が二人を包んだ。
「そういえば、シルヴィア」
「ナンダ?」
「つがいで気づいたんだが――気を悪くしないでくれよ。シルヴィアには仲間はいないのか? 他のドラゴンは?」
「イルぞ。我ヲふくめ四頭」
シルヴィアは桟にもたれ、面白くもなさそうに頬杖をついた。アルトリクスは彼女の髪を撫でる手を止めた。
「四頭?」
「近所ニいる。東ノ雄ト北ノ雌ニハ永らく会ッテおらぬ故、生死ハ分カラヌ。西ニハ火ヲ吹く雄ガいる。最後ニ会ッタのは八百年前ダ。アツくるしい奴ゆえ、我ハ好かヌ」
アルトリクスの口がぽかんと開いた。シルヴィアが同族の話をするのは珍しく、口調のそっけなさに驚いた。
「我ラハ単独デ暮ラシ、卵ヲ産むトキだけつがう。近クニいるノガ彼奴ではナ……。我ハ、ひとの子らノ方ガ愛オシイ。鳥ヤ鹿ヤ、狼ドモ。小サキものらノ生きるサマヲ、観テいる方ガ楽シイ」
「……そうか」
「迅ク子ヲ成セ、あるとりくす。汝ガ子ニ会エルノヲ、我ハ楽シミニシテいる」
「わかったよ、シルヴィア。ありがとう」
アルトリクスは遂に笑いだした。くつくつとひとしきり笑った後、頬を引き締めて水竜に向き直った。
「シルヴィア。お願いがあるんだ――」
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