第86話 諜報機関の成熟と防諜の発展・亡命仲介の検討・四男爵領へのインフラ整備
3817日目~3819日目。
バスキア領に紛れ込んできた密偵のうち、我が領地に寝返った密偵もそろそろ多くなってきた。
手紙のやり取りの暗号表や、情報交換のために懇意にしている行商人、行きつけの酒場――それらの情報を多角的に合わせることで、ようやく防諜の整備も進んできた。
何よりも多重スパイを子飼いにできることが大きい。別にバスキア領に忠誠を誓ってくれなくてもいい。嘘の情報を向こうに流してくれれば問題ないのだ。
世界各地から間諜が送られてくるということは、逆に言えば、世界各地の密偵をうちに寝返らせるいい機会でもある。
彼らに情報工作に一枚嚙んでもらえば、他の国の連中は混乱するに違いなかった。
バスキア領ではあれが流行っているとか、逆にバスキア領の政治的情勢は不安であるとか、とにかく事実とは異なる脚色も半分ぐらい盛り込んでもらって、向こうの判断を麻痺させる。
諜報機関に求められるのは情報の精度。それをどんどん劣化させてしまうのだ。
(いい待遇に、快適な暮らし、あとスライムを飲み込んでしまった恐怖感。そりゃまあ、相当の忠誠心がないと裏切るよな)
泣き言でよく聞くのが、家族が向こうにいるから祖国を裏切れない、というもの。
彼らには今のところ、致命的な情報は伏せつつ、虚偽の情報を祖国に送ってもらう仕事と、暗号表の情報、祖国の工業技術や諜報の技術などを提供してもらうだけで好きに泳がせている。外部との接触もうちの監視付きで認めている。
端的に言えば、彼らの家族の亡命の手伝いをすれば、彼らもバスキア領に寝返ってくれるというわけだ。
(そういえば、冒険者ギルドがこの手の仕事を得意としていたな……亡命ルートの確保や偽装は奴らに任せるべきか?)
通称"逃がし屋"、という専門のやつがいる。冒険者ギルドはこの手のつながりが豊富である。
亡命の知識に関しては、やはり彼らが一日の長がある。腐っても大陸中に影響力を持っている組織なのだ。
あまり付き合いたくない連中ではあるが、個人的な感情は抜きにして頼るべきなのかもしれない。
しかしやはり気乗りしない。彼らの仕事はどんどん奪っていきたいのだ。亡命の手筈もバスキア領で整える方が望ましいのだが。
しばらく悩む。悩んだ末の結論は――。
(バスキア領でも、亡命希望者を受け入れるための法制度を整えつつ、亡命用ルートをこっそり作るか)
亡命仲介。
人身売買や人身取引の温床であることから、今まで距離を取ってきたやくざ仕事であるが、この機にそろそろ手をつける頃合いなのかもしれない。
バスキア領の行き届きすぎている治安のせいで、その手の組織的犯罪はほぼ存在しなくなっているが――これもまた勉強である。
3820日目~3833日目。
この日、とうとうバスキア領地から四男爵領まで続く広大なインフラ――地下下水設備、上水道、馬車鉄道が完璧に整備された。
四男爵たちの反応は、喜びと諦めが混ざったような表情であった。喜びは分かる。諦めの感情も分からなくもない。彼らからするとバスキア領のほうが新参者で、何も持たないはずの領地だったのに、いつの間にか立場が逆転して寄り親になってしまったのだから、思うところがあるだろう。
「……これで経済だけでなく、水さえも貴殿に頼り切りになってしまったな。昔からそうだったが、これで本格的に逆らえなくなった」
ボッティチェリ男爵がつぶやいた。
用水路と下水設備のことだろう。政治的にも、水場を押さえられたら逆らえなくなる。俺が分水器を止めてその領地に飲用水を与えなくすれば、兵糧攻めでいつでも勝利できてしまう。
だが男爵は少々勘違いしている。バスキア領の山にある巨大ダムも、さすがに四男爵領の全部に行き届くほどの水量を誇るわけではない。彼らの水源は他にもたくさんある。バスキア領からの給水に頼り切りというわけではない。
下水設備のことを言っているならそれは半分正しいかもしれない。が、他領にはスライムを常駐させるつもりはない。
あくまで地下下水は地下の沈殿池に沈殿させるだけ。何層も沈殿池を通って、上澄みだけを次に流すようにして大雑把に綺麗にする程度の機能しか持っていない。
沈殿した泥を定期的にスライムが食べることになっているが、その程度だ。
(まあ、大掛かりな下水設備が整ったことで、男爵領の人口が一気に増えて都市化しても、疫病問題に悩んだりせずに済むはず)
今までと比較して人口が爆発的に増えても、インフラが耐えられるまで整備したのだ。その点は男爵も感謝してくれるだろう。