第85話 閑話:(第三者視点)バスキアに潜む密偵②
密偵はすぐに行動を移さなかった。広場を狙いやすい高所を探しつつ、活動の範囲を広げて、行動を追うことを困難にした。
とはいえ、あまり期間を空けてしまうと毒性が消えてしまう。
受け取った毒が日光に当たらないように布で包み、かつ揮発しないように熱の籠る場所を避けてしっかり密封しているので大丈夫だとは思うが、それでも期間を空けすぎるのは好ましくない。
よって密偵は、バスキア伯爵の暗殺の日を二週間以内と定めた。
幸い、それだけの時間があれば、暗殺のための準備には十分であった。
このバスキア領の料理は、非常に珍しく、そして非常に贅沢なものが多かった。
例えば、何気なく出されるキノコと海鮮のサラダ。
まずはキノコ。もし仮にキノコを安定して収穫しようと思ったら、生育条件を整えた、天然の生育環境を用意せねばならない。
森林はマナの密度が濃くなる傾向にあり、どうしても魔物が跋扈するのを避けられない。だから、キノコを安定して収穫できるような森があるのは、それだけで珍しいことである。
さらに、これは確証がない噂だが――バスキア領ではキノコの人工栽培にも成功している、という風説が流れている。
バスキア森林迷宮へ立ち入るには、バスキア領主もしくはチマブーエ辺境伯からの許可状がないと不可である。だが一説によると、森林に住まうエルフとゴブリンがキノコの栽培の知識をバスキア領に授けたのだとも言われている。
次に海鮮。同様に、海に住まう魚介類を新鮮なまま調達するのも、並大抵のことではない。
森林豊かな山の川から流れ出る栄養、魚の住みやすい大陸棚、海流によって運ばれる魚の餌、適切な海流と水温、それらの要素の複合があってようやく漁業が成り立つのだ。
もともとバスキアの地には海賊がいたぐらいだから、魚のよくとれる条件の整った地域であることは間違いないのだが、それでも今日まで漁業が続いているのは奇跡的であろう。何故なら鉱山開発(≒バスキア火山・洞窟迷宮の開拓)をこれだけ大々的に行っておいて、近くの川や海が全く鉱毒に汚染されていないなど、普通はありえないのだ。
その上、魚介類の鮮度を保つ技術にも、目を見張るものがある。
数日前、このバスキア領にたくさんいるスライムたちが、魚を生きたまま運んでいる光景を、密偵は目の当たりにした。要するに、海で水揚げされた魚をスライムが運搬しているのだ。
最後にこの野菜類である。見たこともない色とりどりの野菜。噂によると、洞窟迷宮で栽培されているとのことらしいが、詳細は不明である。
奇妙なことに野菜の葉茎に虫喰いの跡がほとんど見当たらず、よほど農夫の手間暇をかけた高級品が卸されているように見える。
キノコに海鮮に野菜――趣向を凝らした贅沢な一品。
だがしかし、この前菜のサラダは、庶民でも普通に食べられる品である。別段、価格設定が高すぎるわけではない。
鮮度が抜群に良いだけの、普通の料理。
密偵は内心で毒気づいた。この領地で暮らし続けていたら味覚がおかしくなってしまう、と。
街の子供たちは、非常に多種多様な作業を行っていた。
糸紡ぎを手伝ったり、畑の収穫を手伝ったり、鶏などの小柄の家畜の番をしたり。
それらの作業のほとんどはスライムが担っているように見えたが、街の子供たちがそれを一部手伝っている。注意深く観察していると、密偵はあることに気付いた。
手伝い作業が、子供の娯楽だったのだ。
これには密偵も、ほとほと衝撃を受けてしまった。
密偵の知る常識では、普通の市民の子供は、大人の作業の手伝いを若くから仕込まれるものだ。
もうちょっと発展した都市部であれば、教会が善意でやっている教会学校に通う子供たちもいるが、生計の苦しい民間人らは子供も立派な労働力として使役する。
彼らは、娯楽として仕事をするのではなく、あくまで生活のために働くのだ。
これが、バスキア領ではどうしたことか、子供に遊び感覚で仕事をさせているのだ。
密偵は考えた。
子供の教育のためであろうか。あるいは知見を広げるためであろうか。
手伝い作業を通じて、世の中の仕組みを学んでいるのだろうか。
否、もし子供に教育を施したいのであれば、もっと学校を作って、学問に力を入れるべきなのだ。教会と一緒に力を合わせれば、いくらでも教育は施せるだろう。
識字率の向上はもちろん、この領地の領主はこんなに素晴らしい人だ、と教え込んで子供のうちから刷り込んでおけば、民の暴動の可能性も幾ばくか抑えられるだろう。
それがバスキア領では、どうした訳か、それほど教育に乗り気なようには見えない。
ではこれは、子供たちに何を試させているのか。
密偵には想像もつかない。
時々子供たちが、スライムのやらないような変な方法で縄を結んだり、街に紛れ込んでしまった昆虫を追いかけまわしてスライムに食べさせたりして遊んでいるのを見かける。
ちょっとませてきた子供であれば、もっと効率のいい布の洗濯方法をスライムに試させたり、たくさん実を拾ってきて、新しい色の染料を作ろうとしたりして遊んでいる様子も見かけた。
まさか子供たちが、バスキア領で新しい発見をしているはずもない。
馬鹿馬鹿しい仮説だ、いくら何でもそれを試すような領主だとも思えない――と密偵は考えた。
密偵はほとんど、この領地で他の仲間たちとやりとりを行わなかった。
計画はあくまで内密に、そして孤独に遂行する。
暗殺などと大それたことを行うのだから、どこかから計画が漏洩するのを避けたかった。
それに、仮に自分が失敗しても、自分の行動の足取りから、このバスキア領にいる仲間たちを危険に晒すような真似はしたくなかった。
狙い通り、その時がやってくる。学術カンファレンスにおける領主の演説。密偵の位置取りは完璧であった。
手口は単純で、高所から弓で狙い射るだけ。
あっけない仕事だ、と密偵は思った。だが得てして暗殺とはこのようなものだ。
五本ほどの矢をつがえて、やや斜めに構える。
矢じりを加工して幅広にしてあるため、命中面積は広がる。ひっかき傷でも患部に毒が沁みこむ計算だ。
これで、あの悪魔を葬り去ることができる。そう考えた密偵は、指を離して、矢を放物線上に放った。
矢は完璧な軌道を描いた。任務の成功は、よもや疑いようがなかった。
――矢が空中で止まるまでは。
「!」
そんな馬鹿な、と目を疑ったが、あまりまじまじ観察しているとまずい。
こちらの方角に感づかれてしまう。密偵はとっさに鉤縄を使ってあっさりと地上に降りて、弓を放棄した。
そのまま人込みに紛れ込んで息を潜ませ、姿をくらますことにした。
(なぜ空中で止まった? 結界魔術……いや、そんな気配はなかった。あれはむしろ、粘り気のある何かに絡めとられたような……)
まさか、と密偵は気づいてしまった。そういえばスライムは透明である。
しかしまさか、存在に気付かないことがあるはずもない。いくら透明でも、例えばガラスは、遠くから見てもガラスがあるとわかる。
よほど透明で、厚さが均等で、気泡を全く含んでいないような素晴らしいガラスがあったとしても、周囲の空気との違和感はぬぐえないはずなのだ。
もう一度戻って現場を確かめるべきか、と密偵は考えた。だがそんなことをすれば足がつく。
今すべきことは、この場から速やかに離脱すること――。
「――やあ、なかなか骨があるじゃないか。気に入ったよ」
「!」
「そう驚くなよ。狙撃できるポイントなんて限られているのさ。あらかじめそこにスライムを潜ませておいて、演説中にわざわざそこに人がやってきたときにスライムに警戒をさせれば、十分対処できるんだよ」
密偵が驚いて振り向こうとすると、急に眠気が密偵を襲った。
何かが注射されたのだろうか。あるいは何かを嗅がされたのだろうか。よく分からないが、頭がひどく重い。
「結構いい筋してると思ったよ。弓の腕があるのは評価が高い。毒物の扱いに長けているのもいい。一番いいのは、狙撃した後に下手にその場に留まらずにしっかり逃げたところ。遠巻きに俺の様子を見届けようとして逃げ時を失うのは下策中の下策だからな。
でも悪いね。俺の周りには常時、スライムが薄く展開されているんだ。空気と屈折率がほとんど変わらないから、人の目ではスライムに気付くことができない……」
説明が耳に入らない。意識がどんどん掠れていく。
自害をしようと思ったのに、身体に力が入らない。
――こうしてまた一人、腕の確かな密偵がバスキア領に召し捕らえられる。
この密偵の行く末は、杳として知れない。