第84話 閑話:(第三者視点)バスキアに潜む密偵①
人々の言葉を借りれば、バスキア領は"治安が悪い"と噂されている。
風光明媚で活気あふれる快適な街。犯罪率も極めて低く、一見すると誰もが羨むような近代的な商業都市。
それが何故、治安が悪いと言われているのか。
――憎み合うほどに相互理解が絶望的な種族が、それでも無理やりに住んでいる。
――大陸のあらゆる場所から集められた密偵たちが、情報工作と諜報活動を繰り返している。
――市民議会さえ存在せず、あらゆる政治的決定は領主の絶対的な権限で決まる、独裁的な統治が敷かれている。
識者曰く、この街が安全であるように見える人々こそ、ある意味で異常なのだ。
水面下では、複雑に絡み合った危うい均衡が、この街を上手く回している。
何かしらの民族紛争に、一度でも火が付けば、どれほど恐ろしい事態になるのか――大陸中の為政者がこの領地に注目している。
誰もがうっすらと気付いている。
あの領主、アシュレイ・ユグ・バスキア伯爵は狂人である。
聞くところによると、彼は王国中から凶悪な犯罪者を集めているという。
もし仮に、再び野に放たれたら、どれほどの被害が出るのか予想もつかない。そんな残虐な囚人たちが、バスキア領に唸るほど存在している。
その上、難民保護と来ている。
彼の"難民保護卿"の名のもとに、"特定の民族に憎悪を抱えた野蛮な民族"であっても、いったんは受け入れるのだという。
火に油を注ぐような愚策。
このあまりにも危険な状況を、そのまま放置するような有力者は存在しない。
大陸を巻き込んだ戦争に発展する危険性がある――バスキア領に密偵が多数集まっている理由は、それが最大の理由だった。
エルフとドワーフとゴブリンとコボルトとの条約機構の設立。
こんな政治的状況で、よくも平然とそれを口にできるものである。
もはや、大陸全土を巻き込んだ派手な自殺でもしたいのか、と疑ってしまうような愚かすぎる為政だ。領主は政治の力学を分かっていない。
挙句の果てに、この領主は、冒険者ギルドに喧嘩を売るような真似をした。
なんと、冒険者ギルドの収益源の一つ、債権の回収代行業務を、徐々にバスキア領にて巻き取り始めたのである。
大陸全土は、もはや誰もが予想のつかない事態に足を引きずり込まれている。
あの伯爵を止めなくては、この大陸に大きな不幸が訪れるかもしれない。
それゆえこの日、とある密偵に"バスキア伯爵を暗殺せよ"と密命が下された。それは穏やかな昼下がりのことであった。
バスキア領にひとたび入ると、そこは異世界であった。
馬車鉄道の普及により、高度に発達した移動手段。
街のあらゆるところに点在するスライムによる、行き届いた清掃。
芸術的な街並みと、異種族が混在する猥雑な景色が、どうにも常識に馴染まない。
珍しいことに、領地内には揉め事がほとんど存在していなかった。
憎み合っているはずの種族同士が、穏やかに会話をしている。
表面上は何ら問題を起こすことなく、適切な対話が成立しているのだ。
もちろん注意深く観察していると、時には掴み合いの喧嘩に発展しているようにも見える。だが、それらは素早く鎮圧されている。近くにいるスライムがとびかかって、喧嘩をした二者をひっ捕らえてしまうのだ。
争いはどうしても生じる。
だが、それを素早く鎮圧する武力がこの領地にある。
仮初の平和だ、と密偵は考えた。
この場を鎮圧する暴力がなければ、殺し合いが発生していた。それを暴力で先送りにしただけなのである。やはりこの領地は、どこかが歪なのだ。
もう少し先を行くと、書類を抱えたスライムが走っていた。否、床やら壁やらを滑っていた。
屋根の上を見ると、あちこちを素早い速度で滑るスライムが見られた。
噂には聞いたことがある。バスキア領の政治的意思決定は早すぎると。
あの書類がもし、領主の判断を窺う決裁書類なのだとすれば。
あのようにスライムを活用して、高速でやりとりしているバスキア領は、非常に恐ろしい政敵である。
部下からのあらゆる報告を、あの伝達手段で高速に、そして簡便に実施できる。
逆に、領主からのちょっとした質問も、あのスライムを使えばあっさりと解決できてしまう。
さりとて、あのスライムから書類を強奪するのは、きっと簡単ではないだろう。
あの使役獣がもし戦争の場に使われてしまったら、軍隊の統率力がどれほど向上するだろうか。
悪い方向への想像は、尽きることがない。
少し先を行けば、ある意味で観光名所となっている、バスキア監獄にたどり着く。
ここではなんと、街行く人たちが、監獄の中で働く囚人たちを観察することができるのである。
意外なことに、監獄内には、バスキア領のあらゆる集計情報が集積しているのだという。
もちろん政策方針の決定こそ、バスキア領主邸宅にて行われているが、その土台となる情報がここに集まっているのだ。
各地から訪れた密偵が、この"餌"に釣られるのも無理はない。
ふと足を止めた密偵は、思わず顔をしかめてしまいそうになった。
監獄の中には、かつて見知った同僚がいたのだ。
手信号によるやり取りは行わない。誰に見られているかも定かではない今の状況では、あまりにもリスクが大きい。
かの密偵の仕事は、あくまで領主の暗殺である。
「上等なラム酒を一つ頼む、飛び切りキツい奴がいい」
「お客さん、ひとりかい?」
「連れを待っている、景気付けがしたい」
「……このバスキア領には何しに来た?」
「花冠を送りにきた。今日は下見だ」
「ほらよ、ラム酒だ」
花冠は葬式の隠語である。密偵は、この酒場に武器を調達するために足を運んだのだ。
飛び切りキツいラム酒には、毒が仕込まれている。
密偵は、これに口をつけるふりをして、蓋をかぶせてそのまま袖にしまい込んだ。
後は矢を調達するだけである。
毒と矢を持ち込めなかったのは、思ったよりも関所での検問がしっかりしていたからである。
現地調達に頼るのは本意ではなかったが、しかし、毒が調達できるならば話は早い。弓矢は自作できる。
密偵はここまでの進捗を、外部に報告すべきか少し悩んだ。
しかし、疑いをもたらすわずかな行動さえも、今は行うべきではないと判断して、彼はそのまま宿に泊まることにしたのだった。