第83話 金融派生商品(デリバティブ)の誕生
3817日目~3827日目。
国内外との交易が盛んであり、馬車鉄道の大規模な導入により陸路に至るまで整備の行き届いた貿易港。それがバスキア港である。
かような立地であるから、バスキア領内に大きな商品取引所があっても不自然ではない。
だが、大陸でも比較的珍しい先物取引の概念を導入しており、なおかつ、預かり費が大幅に安い大型倉庫業者、災害時の保険を請け負う保険組合、大量の金を貸し借りする金融機関、重要な契約書の管理と効力の証明機関、不良債権の回収代行業者に至るまでを備えた、大規模証券取引所とくれば、バスキア領以外にはほとんど存在しないと言っていい。
バスキア貴族契約(保険契約)の副産物ではあるが、元手となる資本量が金貨一千万枚超えと非常に潤沢であり、ちょっとやそっとのことがあっても屋台骨が揺らがない、という強い安心感がある。
そんなバスキア証券取引所には、目を覆いたくなるほど大量の密偵が紛れ込んでおり、情報のやり取りが恐ろしく盛んであった。
文化と資金と情報の集積地。バスキア領は図らずとも、大陸全体への影響力を日々増している。
今のバスキア領における重要な課題――それは価格の安定である。
領地の継続的かつ安定的な発展のためには、
そもそも、先物取引の思想にも、商品価格の安定が骨子にあった。それは今、成功とも失敗ともつかない微妙な結果となっている。
かといって、証券取引を辞めます、というのは非常にもったいない。証券取引所の手数料は、今やバスキア領の主要な収入源である。
ゆえに。
(オプション取引を導入して、オプションを売る権利は大手商会にのみ認める。こうすることで、マーケットの安定化を図る)
俺が打ち出したのは、オプション取引の概念の導入であった。
買う権利――コール・オプション。
売る権利――プット・オプション。
コールを買った人は、期日が来たら、その価格で買う権利を得る。
プットを買った人は、期日が来たら、その価格で売る権利を得る。
当然、権利放棄も可能である。
コールを買っても、その時の市場価格がもっと安ければ、権利を放棄して安値で買えばいい。
プットを買っても、その時の市場価格がもっと高ければ、権利を放棄して高値で売ればいい。
ややこしいので、例を出して説明する。
今ここに、小麦が畑一面に実っており、例年通りならば金貨一〇枚分の収穫量になる状況だと仮定する。
そして、今年は王国が全体的に豊作が予想されており、普段よりも小麦の価格が安くなりそうである。
変動を嫌った農家は、収穫前の今、"金貨九枚分で売る権利"のプットを購入した。
プットの価格は、簡便のため金貨一枚とする。
これで実際、収穫の時期に小麦価格が金貨七枚程度まで落ち込んでしまっていたとしても、プットの権利を執行することで、金貨九枚で売りつけることができる。プットを購入しないときと比べて金貨一枚程度の得になる。
逆に、収穫の時期に小麦価格が高騰し、金貨十二枚程度まで膨らんだ時は、権利放棄を行ってそのまま売ればいい。普段と比べて金貨一枚程度の儲けになる。
ここで重要なのは、オプションを売った方の義務である。
権利放棄ができる買い手と違い、売り手は契約の履行が義務付けされる。
バスキア領の強制執行力――すなわち、スライムの力を駆使した追跡と武力で、ほぼ必ずその義務を成し遂げてもらう。売り手には理論上、無限の責任が生じる。
そのために、オプションの売り手には高度な支払能力と、リスクを見積もることができる正確な予測能力が必要となる。
よってオプションの売り手は、大手商会に限定するのが望ましい。バスキア領としても、回収の目途が立つ相手であるほうが望ましい。
(一般の農家などは、自分の収益を確定させるため、プット・オプションを買うだろう。これで農家含めた生産者たちは、価格が大きく上下に変動しても安定した生計を営むことができる)
バスキア領の誤算。かつて先物取引を導入した後の、商人たちによる経済的な攻撃。
あれと同じ轍を踏まないためには、慎重な対応が求められる。
元来、先物取引についても、先に売り上げを確定しておいて利益を確保させてあげる、という思想で設計されていた。
これをきちんとその通り使っている生産者たちは、先物取引で大きな損失を出したりせず、身を持ち崩すような結果にもなっていない。
だがそれでも、例の大掛かりな価格操作と風説の流布によって、バスキア領が被った損失はとても大きい。
現に、証券取引については、今もなお法整備が追いついていない。
王国議会に働きかけて王国法を整備し直すか、あるいはチマブーエ辺境伯に根回しをして、この領邦一帯だけでも領邦法を見直してもらうかすればいいのだが、法律の整備がまだ行き届いていない今の状態の方が、いろいろと自由が効いて都合がいいとも言える。
であるからこそ、仕組みを先に作ってしまうのだ。
先物取引は、建て玉によっては個人にも無限責任が発生しうる。
オプション取引は、オプションの売り手を大手商会側に限定することで、無限責任を大手商会側にのみ認める制度になっている。
しかも、無限責任を回避するために、商人たちはオプションに無茶な価格設定は行わないはずである。
――金融派生商品の誕生。
これが、バスキア領の商品価格の安定につながればよいのだが、果たしてどうなるか。
賽は投げられた、結果は神のみぞ知ることである。
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